『啐啄の機』そつたくのき
才能の花開こうとしている者あり。
その花を見抜いて開かせようとしている者あり。
先輩と後輩。
上司と部下。
親と子。
先生と生徒。
師と弟子。
その両者の機運が高まった時を
『啐啄の機』というそうです。
禅語でにおいて、人の才能は『啐啄の機』がなければ花開かないとまで言い切ります。
それぐらいあ・うんの呼吸というか、絶妙な『ここだ!』というタイミングがあるそうです。
思い返してみても、そんなタイミングがあったのかどうか教えてもらう立場の時はよくわかりません。
しかし教える立場からするとそのタイミングはよくわかるものです。
目の輝きが違いますからね。
その瞬間に、対象と正しく向き合う姿勢を教える事が出来れば、あとは時々のアドバイスだけで自ら育つものだと思うのです。
教える立場から見れば
『やってる、やってる』
と微笑み浮かべながら少し離れたところから見ることが至福の時であることは間違いないところです。
後輩は先輩に、
部下は上司に、
子は親に、
生徒は先生に、そして弟子は師に恵まれないと花は開きません。
先輩は後輩に、
上司は部下に、
親は子に、
先生は生徒に、そして師は弟子に恵まれないと花開かせてあげられないものなのでしょうか。
どんなつぼみでも、全て花開かせてあげるのはそれぞれ教える立場の使命だと私は思います。
野球選手ならその頂点を大リーグやプロ野球とするならば、目の前にいる頂点に憧れている野球好きな小学生全員を大リーガーやプロ野球選手にすることは不可能です。
つぼみには持って生まれた性質があり、花の咲く場所や咲き方もそれぞれ違うのです。
彼らは野球が好きで、それに関わっている時が一番幸せなのです。
ならば、生涯幸せでいられるようにしてあげるには、野球に関わったことを生業とできるようにしてあげるまで、その奥にある面白さを教えてあげる必要があるのです。
それが師の役目でしょう。
先生や親は生徒や子の性質を見抜き、それぞれの好きなことを見つけさせてやる事が肝要です。
好きな事が得意なこと
得意なことは苦もなくできること
苦が少なければ、それは苦しむより幸せなこと
人はそれぞれに合った事を生業とすることが幸せになれる条件なのです。
私のこれまでの人生は、先輩、親、先生、そして師に恵まれてきました。
人より少しだけ得意なことがあるとすれば、それを私が見つけて継続してきたから会得したものではありません。
私の努力があって身につけたものではありません。
努力せずとも会得できる事を見つけてもらい、それに対する姿勢を教えてくださったからこそ、苦もなく継続することができ、結果として会得することができただけのことなのです。
今ではドラムを教えることはしていませんが、昔ドラムを教えた生徒は何人かプロの道に進みましたし、昔スタジオで深く関わった当時の高校生の中には、今でも音楽の世界で食べている者が少なくありません。
音楽を生業とする姿勢を教えてあげられたからかもしれません。
自画自賛かな(笑)
現在のドラムとの関わりは、自分が楽しむことだけを目的にしています。
大リーガーにはなれませんでしたが、日本プロ野球の一軍ベンチにいて、時々ピンチヒッターで渋いポテンヒットを打つことぐらいはできた感じですね(笑)
今は引退して、自分が楽しむために草野球チームを作って、月一ぐらいで日曜日の朝に試合しているっているところでしょうか。
書道においては高校野球の監督かな(笑)
そして兼任プレイヤー。
書道の世界では、80歳になっても大リーガー目指せますからね(笑)
ま、気の長いはなしです。
それなりに現役で長く関われるところが書道の良いところです。
私は和翠塾に通う老若男女全ての塾生の素質を見抜き、それぞれに開花させることを生業の大きな使命と考えています。
今や人生80年。
長く関わって、より深き面白いところへ一緒にまいりましょう。
諸君!
未だに知らぬ世界の門戸を叩くのは今ですぞ。