会津藩主・松平容保(かたもり)は
1862年、幕府から京都守護職に任じられ、会津藩士を率いて上京
配下の新撰組を使って、尊王攘夷派・倒幕派の活動を取り締まるなど京都の治安維持にあたった
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新政府が成立すると、会津藩は目のかたきにされ、松平容保は朝廷に謝罪したが赦されず、武力討伐を受ける羽目になった
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1868年、憤怒した会津藩士たちは
会津鶴ヶ城に立てこもり、圧倒的に優勢な新政府軍との戦いを開始
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会津藩を支援していた東北諸藩は次々に新政府に降伏し、会津藩は孤立無援となり、激しい激戦の末
1868年9月新政府の軍門に降った
激烈な戦いの中で、白虎隊の少年隊士(16~17歳)たち、藩士の家族の女性たちは集団自決した
戊辰戦争約8000人の死者の3分の1が会津の人々であった