るるの日記

なんでも書きます

私的感情を仕事に持ち込んだ新政府に憤怒した会津藩士

2022-02-01 12:33:01 | 日記
会津藩主・松平容保(かたもり)は
1862年、幕府から京都守護職に任じられ、会津藩士を率いて上京
配下の新撰組を使って、尊王攘夷派・倒幕派の活動を取り締まるなど京都の治安維持にあたった
新政府が成立すると、会津藩は目のかたきにされ、松平容保は朝廷に謝罪したが赦されず、武力討伐を受ける羽目になった
1868年、憤怒した会津藩士たちは
会津鶴ヶ城に立てこもり、圧倒的に優勢な新政府軍との戦いを開始
会津藩を支援していた東北諸藩は次々に新政府に降伏し、会津藩は孤立無援となり、激しい激戦の末
1868年9月新政府の軍門に降った

激烈な戦いの中で、白虎隊の少年隊士(16~17歳)たち、藩士の家族の女性たちは集団自決した
戊辰戦争約8000人の死者の3分の1が会津の人々であった


新政府と旧幕府の共通意識→列強国による日本の植民地化への危機感

2022-02-01 12:08:33 | 日記
♦️戊辰戦争、、新政府への最後の抵抗。会津藩と榎本武揚

最後まで新政府に抵抗する姿勢をみせた藩は会津藩だ。東北諸藩も会津藩を支援した、、が、新政府軍はこれを攻撃。激戦の末1868年9月会津藩を降伏させ東北地方を平定した

1869年には、旧幕府海軍を率いて函館の五稜郭に立てこもり抗戦を続けていた榎本武揚らも降伏
ここに戊辰戦争は終わる
新政府の国内統一が達成された

戊辰戦争が短期で収拾された理由は、欧米列強に加えられる圧力に、新政府も旧幕府も「日本の植民地化の危機意識」が生まれたからだ
我が日本という独立国家を守るために、日本人同士が争うことは本末転倒なの

徳川慶喜「もう辞めたい」・旧幕臣「憤怒という感情が心身を動かす」・パークス「商売繁盛」

2022-02-01 10:18:09 | 日記
■押さえのきかない精神状態

新政府が徳川慶喜を政権に加えず、内大臣辞退と領地の一部返上を要求したことで、旧幕臣や会津藩士、桑名藩士たちを憤怒させた💢💢💢

【徳川慶喜は「憤怒している状態の幕臣や藩士の心は押さえがきかないかな」と判断し、仕方なく、、、】
1868年1月大阪にいた徳川慶喜は
旧幕兵や会津・桑名の藩兵を率いて京都に上ろうとし、これを迎え撃った新政府軍との間に鳥羽・伏見の戦いがおこり、これが戊辰戦争に広がった

■徳川慶喜「喜んで恭順します」

鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、江戸へ逃げた徳川慶喜を「朝敵」として征討軍を興し、江戸に攻めた
とっくの前から戦意を失っていた徳川慶喜は、喜んで恭順の意を示し、1868年4月新政府軍は戦うことなく江戸城を得た

■江戸城明け渡し

江戸城無血接収の交渉は、1868年3月、西郷隆盛と勝海舟の間で行われた。仲介したのはイギリス公使パークスと、彼の片腕アーネス・サトウ。
★パークスは貿易に悪影響を及ぼすから新政府軍の江戸武力攻撃に反対
★勝海舟は、内戦の拡大が独立国家を危うくするを説く
★江戸城総攻撃を計画していた西郷隆盛め態度を軟化
「平和のうちに江戸城を明け渡す」ことで両者は合意した

これを不服とする旧幕府側の彰義隊が交戦を主張し上野に立て込もったが5月、大村益次郎率いる新政府軍によって鎮圧された


天皇中心とする新政府→幕末に天皇はどこにいる?岩倉具視が天皇代理か?

2022-02-01 10:11:01 | 日記
■徳川慶喜がんばる👊

第二次長州征討に失敗し、幕府の権威は地に落ちた。そんな最悪な時期
15代将軍となったのは徳川慶喜だ
慶喜は幕府最後の力を振り絞り幕政改革を行ったのである
が、しかし、、
幕府は長州征討処理をめぐり、薩摩藩と衝突。1867年、薩・長両藩は武力倒幕を決意した

■大政奉還の目的「朝廷で幕政を」

土佐藩では藩士の後藤象二郎と坂本龍馬が、前藩主・山内豊信を通して将軍・徳川慶喜に「政権の奉還を行うように」と勧めた
慶喜は受け入れ1867年10月14日「大政奉還」を申し出て、翌日朝廷はこれを受理した
【徳川慶喜の大政奉還とは、将軍から朝廷に政権を移し、朝廷で徳川氏を含む諸藩による連合政権をつくるという目的だった】

■同じ14日、武力倒幕をめざす薩長両藩は、朝廷内の岩倉具視らと連携・画策し「倒幕の密勅」を引き出していた

幕府側は雄藩連合政権論(朝廷で将軍を議長とする諸藩主会議論)が勢力を得ていた
薩長両藩は、政局の主導権を握るため兵を集結させ、1867年12月9日
「王政復古の大号令」を発し
新しい政府をつくった
天皇のもとに総裁・議定・参与の三職を設置。「諸事神武創業の始」をかかげ、天皇を中心とする新政府が樹立された

総裁→有栖川宮樽人親王
議定→皇族・公卿・松平慶永や山内豊信ら諸侯10名
参与→岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通・後藤象二郎・福岡孝弟・木戸孝允・広沢真臣ら

京都御所で、三職による会議が開かれ、徳川慶喜の処分が議論された
徳川慶喜に、内大臣の辞退、領地の一部返上を命じることを決定
徳川慶喜は大阪城に引き上げ
新政府と対決することになった


幕末の民衆の不安を救ったのは、幕府でも反幕府でもヒーローでもなく、新興宗教だった

2022-02-01 09:08:56 | 日記
■弱小幕府の自滅

幕府に屈服した長州藩であった、だが、、、
攘夷が不可能なことを覚った
高杉晋作・桂小五郎(木戸孝允)らが動いた

1864年12月
高杉晋作は奇兵隊を率いて下関で挙兵。藩上層部による幕府恭順の藩論を変え軍事力強化を進めた

幕府は再び「長州征討の勅許」を得、諸藩に出兵を命じた
薩摩藩はひそかに、武器を長州に流し、長州藩を支持する姿勢になっていった

1866年、土佐藩出身の坂本龍馬・中岡慎太郎らの仲介で、薩摩藩の西郷隆盛と長州藩の木戸孝允らが相互援助の密約を結び反幕府の態度を固めた

幕府は6月攻撃開始
長州藩領へ攻め込むことが出来ない
小倉城は長州軍により落城
戦況が不利な幕府は、将軍・家茂が急死したことを理由に戦闘を中止
またこの年に孝明天皇が急死した

■世の民衆の心がはっきり示された

開国、物価高騰、政局をめぐる抗争で社会は不安に揺れ、世相は険悪となっていった
国学、尊王思想は豪農・神職らに広まり、長州征討の年には百姓一揆は100件を超し「世直し」が叫ばれた
都市でも打ちこわしが起こる
民衆の幕府に対する不信がはっきりと示されたのだ

■新興宗教が頼り
★黒住教
1814年、黒住宗忠が備前に開いた

★天理教
1838年、中山みきが大和で開いた

★金光教
1859年、川手文治郎が開いた

後の教派神道と呼ばれる民衆宗教は、行き詰まった世相や、苦しい生活から救済されたい民衆の願いにこたえ、急速に広まっていった

1867年、神々のお札を降らし「ええじゃないか」と連呼しながらの民衆の乱舞が、東海地方から始まり、またたく間に近畿へ、そして四国へと広がった
民衆の世直し願望を宗教的に表現したこの行動は、倒幕派の策略によるといわれ、倒幕運動には優位に働いた