るるの日記

なんでも書きます

伊藤博文の政治「まず外堀を埋める」宮中を政治から切り離し、地方自治体制を固める

2022-02-02 17:17:35 | 日記
■政府はとうとう自らの主導権で、立憲政治の実現をはかった
実行したのは伊藤博文である

伊藤博文らは、ドイツやオーストリアの一流の学者たちから、君権主義の原則に立つプロセイン憲法、ドイツの憲法、ヨーロッパの立憲国家における政治・法律制度とその運営の実際を学んだ
帰国すると、宮中に制度取調局を置き、伊藤自身は参議のまま局長となり、宮内卿を兼任し政治改革に着手した

★華族制度の整備
国会が開かれた場合の貴族院の選出母体とするための華族整備

華族は
公爵
侯爵
伯爵
子爵
男爵
の5つに分けられ、新しく明治以後国家に功労のあった人々を新しく華族に列した。これにより政府首脳はほとんど爵位を授けられた

★1885年、内閣制度が創設
これまで皇族、公家、大名出身者であてられていた、太政大臣・左大臣・右大臣や、藩閥政治家の有力者が就任していた参議の職を廃止

★これまでの各省の長官を国務大臣とする
★新しく内閣総理大臣を置く
総理大臣の統轄のもとに各国務大臣を、内閣に構成し、政治運営の中心とした
〈目的〉国会開設に備えて行政機関の強化・能率化・簡素化をはかり、責任体制を確立する
薩摩出身の藩閥政治家たちが、名実ともに、実力者として、政治の中枢部を占めることになった

★宮中を政治から切り離し内閣を組織した
天皇の側近、相談相手の任にあたる内大臣を置いて宮中の所務を管轄させ、宮内省は内閣の外に置いた

★皇室財産の設定
1885年~1890年、政府は皇室が議会の制約を受けないようにするため、約365万ヘクタールの山林・原野・莫大な有価証券を皇室財産をした

★地方自治制度
国の議会成立に先立ち、ドイツ式地方自治体制を取り入れた。強い官僚統制のもとに地方有力者を組みこんだ。官が治める地方自治体制だ
国の議会開設に先立ち定めた狙いは、議会開設後、当然予想される政府と政党の衝突激化を地方政界におよぼさないためだ

♦️内閣制度制定とともに伊藤博文が初代の内閣総理大臣に就任した
10名の閣僚中、4名が旧薩摩藩、4名が旧長州藩出身者で、反対派からは藩閥内閣であるとして攻撃された
大正まで総理大臣はほとんど旧薩長出身者に占められた







政府VS民権派・民権派VS困窮農民(困民党・借金党)→日本各地に暴動が起きた

2022-02-02 16:14:41 | 日記
■日本各地で事件が次々に起きた
1882年
福島事件

1883年
高田事件

1884年
群馬事件・加波山事件

秩父事件
埼玉県秩父で自由党急進派の影響で生活に困窮した農民たち(困民党・借金党)がいっせいに蜂起する大規模な暴動事件が起こり、政府は軍隊を出動させて鎮圧

■このような混乱の中で自由党は統制力を失い、正常な政党活動が困難になり、1884年自由党は解党
立憲改進党も大隈重信・河野敏鎌ら幹部が脱党し活動停止

■自由民権運動は「立憲政治の実現を求めた全国的な政治運動」であり、「国家独立と日本対外への勢力拡張をめざす国権論」と深く結びついていたので、1884年から日本と朝鮮や清国との関係が緊迫になるにつれて、その傾向が深まり、朝鮮で甲申事変が起きると、民権派はいっせいに朝鮮や清国に対する強硬な武力行使を主張した
政府は翌年、清国との武力衝突を避けるため、天津条約を結んで解決をはかった
民権活動家のなかには、政府の弱腰を激しく非難し、自ら武器をたずさえ朝鮮に渡って朝鮮の内政改革に当たろうとする者も現れた
彼らが渡航する直前、大阪で検挙された

■1886年末から民権派は、後藤象二郎・星亨らが中心となり、政府反対勢力を結集して、衆議院の過半数を制する政党を結成しようと運動を進めた
1887年、井上外相の条約改正案が、屈辱的内容を含むものであるとして、民権派の政府攻撃がさかんになる
この2つの運動が結びついて反政府的機運が高まった

政府は保安条例を出し、450名にのぼる反政府派の人々を東京外に追放し、運動を押さえようとした

〈保安条例〉
★一切の秘密結社、集会の禁止
★許可された集会でも必要に応じて警察官による禁止
★内乱陰謀または教唆しまたは治安を妨害する恐れがある者は、皇居から3里以遠への追放と3年以内の立入禁止
中江兆民・尾崎行雄・星亨・片岡健吉らが追放

政府の政党を潰し方「党首と党指導者を外遊させる間(外遊資金は政府の斡旋により三井が提供)に、内紛を発生させる」

2022-02-02 15:22:16 | 日記
国会開設の勅論が出されたのを契機に、政党が次々に生まれた
一致した考えは「立憲君主制のもとにおいて、政党政治の実現をめざす」

1881年(明治14年)
■【自由党】→国会期成同盟を母体
板垣退助を党首
自由主義
急進的行動
悲憤慷慨の志士型党員
弁護士・新聞記者ら知識人
豪農・地主・商工業社ら地方有力者
後藤象二郎・片岡健吉・河野広中・大井憲太郎・星亨・植木枝盛

1882年(明治15年)
■【立憲改進党】→大隈重信を党首
緩やか、健全、知的、合理的、インテリ
指導者は旧官吏、慶應義塾出身者
河野敏鎌・矢野文雄・沼間守一・小野梓・島田三郎・犬養毅・尾崎行雄

■立憲帝政党→政府支持
福地源一郎を党首
天皇中心主義
保守的
神主・僧侶・国学者・儒学者

■地方にもそれぞれの系統を引く政党が次々と作られた

自由党と立憲改進党の対立は激化し、国会開設という統一目的は喪失
農村の不況による活動資金の調達難のため、運動はしだいに停滞ぎみになった

♦️1882年4月6日
自由党では、板垣退助が遊説中の岐阜で、暴漢に傷つけられる事件が起きた。板垣退助は刺客をにらみ「板垣死すとも、自由は死せず」と叫んだ、、は伝説で、実際は病床の板垣退助が「自分は死んでも、自由の精神は滅びないだろう」と語ったものを、側近が名文句に仕上げたもの

その後、政府の働きかけで同年末から翌年にかけ、板垣退助と後藤象二郎がヨーロッパへ外遊した

板垣退助の外遊資金は、政府の斡旋により三井が提供した。政府は自由党の最高指導者を外遊させることによって、党の弱体化を狙っていた
★板垣退助外遊資金の出所に疑念を抱いた自由党員の一部が離党
★立憲改進党は自由党が政府に買収されたと非難
★自由党は、大隈重信と三菱の関係を激しく攻撃
★自由党は内紛を生じ、また自由党と立憲改進党との対立も激しくなった。自由党員の中には政府転覆や、政府高官暗殺計画など暴力的な行動に走る危険分子も現れた

国会開設署名8万7千人以上→世間では署名せねば片身が狭い心地

2022-02-02 14:30:03 | 日記
■国会開設の署名8万7千以上
1880年、愛国社は大阪で大会を開き、8万7千人の署名を得て、国会開設を誓願しようとはかった。続いて全国の地方からも誓願があいつぎ、国会開設運動は大きな盛り上がりを示した
この誓願に参加しない地方は片身が狭い心地がするように思い、競いあって誓願を行った

このような運動が盛んになった背景は、インフレによる農作物価格の上昇により、農民の家計が豊かになり、活動資金の調達が容易になったからである

■大隈重信「2年後国会開設すべき」

政府では、1881年、大隈重信は「2年後には国会を開設し、イギリスの政党政治を取り入れるべきだ」という意見を示す。「十分時間をかけての国会開設」を主張する伊藤博文らと対立を深めた

■大隈重信辞職
夏、事件が起こった
1872年、薩摩藩出身の開拓長官・黒田清隆は開拓10年計画終了にあたり、1400万の巨費を投じて北海道開拓を進めてきた官営事業を、わずか39万円、無利息30年払いで薩摩出身の政商・五代友厚らの関西貿易に払い下げようとした。政府は承認したが、「藩閥政治と政商の結び付きをしめすもの」として民間から攻撃され、政府内部でも大隈重信が反対した。大隈重信が民権派と結んで政府打倒をはかろうとしていると判断した政府首脳は、払い下げ中止を決定するとともに、大隈重信を辞職させて事の収拾をはかった

政府は10月、大隈重信を辞職させ
1890年、国会開設することを約束する勅論を発した
岩倉具視、伊藤博文らが中心となり立憲政治の実現をはかることになった

豪農・地主などが地方政治に関われるようになった

2022-02-02 13:40:09 | 日記
♦️議会政治より中央集権化
幕末、欧米の議会政治が伝わる
五ヶ条の御誓文で
【公議輿論は国民統合の原理】として掲げたのはその現れである
政府は中央集権化の達成に全集中したため、公議輿論の尊重は無視されがち

♦️板垣退助運動
政府を辞職した板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らは1874年(明治7)1月、【愛国党】を結成
「民撰議院設立の建白書」を左院に提出した
「政府の政治のやり方は、一握りの上級者役人による専制政治である。納税者には国政に参加する権利がある。民選議院(国会)を設立して、国民を政治に参与させ、官民一体化をはかることによって、はじめて国家、政府が強力になることができる」と主張
板垣退助は郷里・土佐に帰り
1874年【立志舎】を結成
自由民権思想を普及
1875年、全国の民権派結社の代表が大阪に集まり【愛国社】を創立
世の知識人たちは国会開設についての感心を高め、自由民権運動が始まる

♦️政府は1875年、大久保利通は大阪において、板垣退助、木戸孝允と会合。板垣退助、木戸孝允を政権に復帰させ、政権の強化をはかることを決断
立憲政体樹立の詔を発布
立法機関→元老院
司法機関→大審院
を設立

♦️地方議会を設ける
府県、郡、町村の行政を体系化し
公選による府県会が開催。地方税による予算案の審議が認められ、豪農・地主など地方有力者が地方政治に関わる機会が開かれた
士族運動と結び、豪農民権に発展