■政府はとうとう自らの主導権で、立憲政治の実現をはかった
実行したのは伊藤博文である
伊藤博文らは、ドイツやオーストリアの一流の学者たちから、君権主義の原則に立つプロセイン憲法、ドイツの憲法、ヨーロッパの立憲国家における政治・法律制度とその運営の実際を学んだ
帰国すると、宮中に制度取調局を置き、伊藤自身は参議のまま局長となり、宮内卿を兼任し政治改革に着手した
★華族制度の整備
国会が開かれた場合の貴族院の選出母体とするための華族整備
華族は
公爵
侯爵
伯爵
子爵
男爵
の5つに分けられ、新しく明治以後国家に功労のあった人々を新しく華族に列した。これにより政府首脳はほとんど爵位を授けられた
★1885年、内閣制度が創設
これまで皇族、公家、大名出身者であてられていた、太政大臣・左大臣・右大臣や、藩閥政治家の有力者が就任していた参議の職を廃止
★これまでの各省の長官を国務大臣とする
★新しく内閣総理大臣を置く
総理大臣の統轄のもとに各国務大臣を、内閣に構成し、政治運営の中心とした
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〈目的〉国会開設に備えて行政機関の強化・能率化・簡素化をはかり、責任体制を確立する
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薩摩出身の藩閥政治家たちが、名実ともに、実力者として、政治の中枢部を占めることになった
★宮中を政治から切り離し内閣を組織した
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天皇の側近、相談相手の任にあたる内大臣を置いて宮中の所務を管轄させ、宮内省は内閣の外に置いた
★皇室財産の設定
1885年~1890年、政府は皇室が議会の制約を受けないようにするため、約365万ヘクタールの山林・原野・莫大な有価証券を皇室財産をした
★地方自治制度
国の議会成立に先立ち、ドイツ式地方自治体制を取り入れた。強い官僚統制のもとに地方有力者を組みこんだ。官が治める地方自治体制だ
国の議会開設に先立ち定めた狙いは、議会開設後、当然予想される政府と政党の衝突激化を地方政界におよぼさないためだ
♦️内閣制度制定とともに伊藤博文が初代の内閣総理大臣に就任した
10名の閣僚中、4名が旧薩摩藩、4名が旧長州藩出身者で、反対派からは藩閥内閣であるとして攻撃された
大正まで総理大臣はほとんど旧薩長出身者に占められた