文禄元年2月下旬
前田利家公上方へご参勤の節
前田利長公は金沢城築上のため金沢に留め置かれた。
金沢城築上以前の今の城地は、本願寺の末寺があり、御山と名づけ、石垣堀等無く、只山屋敷の地形にて白山に続きたる尾。山終わりたる故、尾山ともいえり
今年堀切って小立野の水掛入
その沢を金沢と名づけ、御山を改め金沢城とした
石垣普請、戸室山大石を切出し石垣を築くが、本丸東方石垣崩れ、不出来を利長公難儀に思われる
利長公これを聞かれて、上方の藤原出羽を石垣奉行として申し付けた
石垣は八分通り築立。小段をつけて成し遂げようとし、高石垣に段をつけたること、利家公・利長公とも殊のほか腹立ちありけれども、是非に及ばず(やるしかない)と我慢し段々大城と成る
出羽は大器の人(人並み外れて優れた才能の人)、普請功者御目鑑(?)を以て上方へお下りありける所、石の仕合(石垣つくりをした)出羽以下の者ども恐れ奉る
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【ルルの想像では「段々にした方が石垣は崩れない」ということだろう。初めは腹を立てていた利家、利長も合点したとみえる】
文禄2年4月16日
利常公、金沢城天守下局にて誕生
猿松君
母は芳春院の侍女・おちぼの方(後の福寿院)後金沢城西ノ丸に被成
西ノ丸殿共申す、玉泉院丸の事也
芳春院、東の御丸
ご逝去後福寿院東の丸へ
慶応4年1
金沢城の城廻り、惣がまえ、堀、10月から翌年3月までに完成