るるの日記

なんでも書きます

金沢城の高石垣に石垣名職人が段をつけたことに利家・利長は殊のほか腹立ちありけるが、、

2022-02-14 15:49:43 | 日記
文禄元年2月下旬
前田利家公上方へご参勤の節
前田利長公は金沢城築上のため金沢に留め置かれた。

金沢城築上以前の今の城地は、本願寺の末寺があり、御山と名づけ、石垣堀等無く、只山屋敷の地形にて白山に続きたる尾。山終わりたる故、尾山ともいえり

今年堀切って小立野の水掛入
その沢を金沢と名づけ、御山を改め金沢城とした
石垣普請、戸室山大石を切出し石垣を築くが、本丸東方石垣崩れ、不出来を利長公難儀に思われる

利長公これを聞かれて、上方の藤原出羽を石垣奉行として申し付けた
石垣は八分通り築立。小段をつけて成し遂げようとし、高石垣に段をつけたること、利家公・利長公とも殊のほか腹立ちありけれども、是非に及ばず(やるしかない)と我慢し段々大城と成る

出羽は大器の人(人並み外れて優れた才能の人)、普請功者御目鑑(?)を以て上方へお下りありける所、石の仕合(石垣つくりをした)出羽以下の者ども恐れ奉る
【ルルの想像では「段々にした方が石垣は崩れない」ということだろう。初めは腹を立てていた利家、利長も合点したとみえる】

文禄2年4月16日
利常公、金沢城天守下局にて誕生
猿松君
母は芳春院の侍女・おちぼの方(後の福寿院)後金沢城西ノ丸に被成
西ノ丸殿共申す、玉泉院丸の事也

芳春院、東の御丸
ご逝去後福寿院東の丸へ

慶応4年1
金沢城の城廻り、惣がまえ、堀、10月から翌年3月までに完成

城石垣始秘伝抄・石垣の祖【加藤清正】

2022-02-14 14:02:25 | 日記
当世、城普請多しといえど
石垣の作法をもって築く人は稀
「忌み嫌う道なく、石を積み重ねるを石垣と心得て、作法なき事」を加藤清正嘆き、心力尽くし考える中、ある夜夢中で、小高き山上に老翁が葉つきの竹を城形に指廻しなり

清政「この所は本城か」と問い
「しかり」と答
清政「石垣、五行を根本とするか」と問い「しかり」と答
夢は覚める

清政、天皇御工夫証跡を今更見るごとく拝したことを歓喜す
これ以後、石垣の方式は「五行を起こし根元を定める事元祖とす」
其の国は繁盛、四方八方へ栄をなし、天理に通して、後栄の瑞相なり

加藤清正は石垣普請達人
加藤清正は石垣の祖とする




城石垣始秘伝抄【石垣は神武天皇が築いたのが始まり】

2022-02-14 13:30:26 | 日記
城石垣は神武天皇、大和国城田に築くが始成

この時天皇宣「日本は神国、人民は神孫なれば五行の積方尤もなるべし」と工夫し築く
よい石垣を築きし事は神代より伝有り

山林を堀のように堀り、その穴を堀石にてたたみ住居とす。これ土留石垣の事なり
大雨降りし故屋根は石をもってし、あるいは木材をもって様々にして防の為とす
都近きになきは石を取りたる故なり



様々な石垣様式を楽しめる金沢城

2022-02-14 13:01:34 | 日記
■金沢城(国史跡)
JR金沢駅の南東約1.5km
小立野台地の先端に築かれている

金沢城は1546年、加賀の浄土真宗門徒によって、金沢御堂が設置された前史がある。戦国時代末期に金沢御堂が、加賀一向一揆を統制し、織田信長と激しく対峙するなかで寺内町を発展させ、後の城下町の基礎が築かれたのは皮肉なことである
1583年から前田利家が入部し、以後14代にわたり前田家の居城となった

■様々な石垣様式を楽しめる
金沢城で注目されるのは白を基調にした城廓美と、石垣の多用さだ。初代利家が築いた石垣から、幕末の斉泰の石垣まで様々な石垣様式を楽しめる

〈石垣の種類〉
★布積み高石垣
(大阪城風・整然)

★野面積み
(古風・力強い)

★切石を精緻に積み上げた石垣

★寛永石垣
(粗削りで、大型の刻印や矢穴跡が見える)

★色紙短冊積み石垣
(幅8メートル、高さ10メートルを越える切石乱積み
大きな長方形石を竪に置き、竪目地を恐れずに使うなど、石垣職人にとってはタブーを破った異色な石垣
意図・作者不明)

★鏡積み
(畳5枚分もある大型割石を豪快に積み上げた)

■穴生(あのう・石垣職人)
後藤彦三郎

「鏡積み、所を知りて築くべし、必ず神もいますとぞ知れ」
と、鏡積みの心得を和歌にして子孫に伝えた

文化・文政期に活躍した江戸後期の穴生。石垣技術書、石垣改修履歴を多く書き残し、おかげで金沢城の石垣は8つの時期に整然と分類でき、時代的変遷を明瞭に辿れるようになった