■二条上皇崩御(23歳)
春、二条天皇が病になる
夏、重態になった
伊吉兼盛の娘は二条天皇の皇子を生んで、皇子は2歳
6月25日に天皇に即位
2歳で天皇即位は前例がなく、天下は落ち着かず
7月22日、二条上皇は亡くなった
歳は23歳
■二条上皇葬送で延暦寺と興福寺が対立
御遺体葬送のとき、延暦寺・興福寺の衆徒が「額打論」ということをしはじめて、互いに乱暴を働いた
天皇が亡くなったあと、御遺体を御墓所に移す時の作法は、奈良と京都の僧侶たちがお伴をし、墓の周囲にそれぞれ自分の寺の額を掛ける
例えば
★東大寺は聖武天皇の御願寺で、先を争うべき寺は無いので東大寺の額を掛ける
★藤原不比等の御願寺というので、興福寺の額を掛ける。京都方では興福寺に相対して、延暦寺の額を掛ける
★天武天皇の御願寺で園城寺の額を掛ける
延暦寺の衆徒は先例に背いて、東大寺の次、興福寺より先に延暦寺の額を掛けた。興福寺の観音房・勢至房という評判の悪僧は走りだし、延暦寺の額を切り落とし、めちゃくちゃに打ち割って「嬉や水、なるは滝の水、日は照るともたえずとうたへ」とはやしながら、興福寺の衆徒の中に入ってしまった
延暦寺の方は一言もしゃべらなかった。天
■延暦寺の報復
7月29日正午
延暦寺の衆徒が京都に乱入
【後白河院が延暦寺の衆徒に、平家追討を命じた】という噂がたっていた
平氏一族と後白河院は六波羅へ集まった。平清盛は恐れ騒いだ
延暦寺衆徒は六波羅を攻めないで、攻める理由のない清水寺に押し寄せ焼き払った。これは以前の御葬送の夜の恥をすすぐためで、清水寺は興福寺の末寺であった
■平清盛は平重盛に告げる
「それにしても後白河院は、前々から平氏を討ちたいと思って、言われていたからこそ、こうゆう噂が立つのだ。お前も心を許すな」
■重盛
「この事は言葉に出したり、態度に出したらいけません。それよりも天皇の考えに背かず、人のために情けを施せば神仏の加護があるはずです。ですから父が恐れることはありません」
■後白河院
御所に帰ってから、近臣たちに告げる
「それにしても意外な噂がたったものだ。少しも考えていないのに」
■西光法師は言う
「『天に口なし、人をもって言わせよ』と申します。平家が非常に身分不相応に出過ぎているので、天の御はからいなのでしょう」