以仁王は、源頼政に頼まれ「平家追討の令旨」を出したことが平家に漏れたので、三井寺へ逃亡した
以仁王は三井寺に入ると「生き甲斐もない命だが、それでも命惜しさに、大衆たちを頼みにここに来ました」と言った
夜が明けて5月16日、以仁王が謀反を起こしたと京都中の騒動は並大抵ではなかった
源頼政は源氏だが、日頃おとなしくしていたからこそ平家全盛の世にも無事過ごせたのに、どういう気持ちで謀反を起こしたのかというと、、
清盛の次男、宗盛がしてはならぬ事をしたからだ。【時めいている人だからといって、してはならぬ事はしてはならぬ。言ってはならぬことも言ってはならぬ】という事だ
■頼政嫡子・仲綱は名馬を持っていた。名は「木の下」。宗盛はこれを聞き仲綱の所に「評判の名馬を見たい」と使者を出したところ仲綱は「しばらく休養させるため田舎においてあります」と言ってきたので、宗盛は「それなら仕方がない」とあきらめた
ある時、平家の侍が「その馬は今朝、乗り回していましたよ」と申したので、宗盛は「それなら惜しんでいるんだな。憎らしい。ぜひ所望せよ」と侍に伝えさせ、手紙でも一日5度、6度、7度、8度出して馬を所望した
頼政はそれを聞いて仲綱を呼び「人がそれほど欲しがるものを、惜しむという事があるか。馬を宗盛さまにあげなさい」と言った
仲綱は仕方なく歌を書き添えて、馬を宗盛にあげた
「恋しくは、来ても見よかし、身にそえる、影をばいかが、放ちやるべき」(恋しければそちらから来て見るがよい。我が身に寄り添う影のように大切な馬を、どうして手放すことができよう)
宗盛は「素晴らしい馬だ。馬は素晴らしいが、持主が憎らしい。馬の名を仲綱とし、仲綱という焼印をつけろ」と言って、馬に仲綱という焼印をして、厩に置かれた
仲綱はこれを伝え聞いて、自分の大事な馬を権力づくで取られ、また、仲綱が笑いの種になるというのは全くの心外だった
父・頼政もこれを聞き悔しく思い、頼政自身が私的に平家追滅をするのでなく、以仁王をそそのかし動かした、、と後になってわかった
それにしても、兄重盛は素晴らしい方だったのに、弟の宗盛は、兄ほどでないにしても、人の大切な馬を所望し、自分の物にして、天下の一大事になったのは、情けないことであった