るるの日記

なんでも書きます

潮の流れに流されて漂着する外国船

2022-02-12 16:52:43 | 日記
珠洲岬は北の海道の東西交通の要点であり、海外から寄る船、潮の流れに流され漂着した船のなかには厳しい海外政治を負った者もあり、人々を緊張させた

859年正月、渤海から鳥孝慎一行104人を乗せた船が漂着した(能登へ漂着は841年、849年3回目。日本国には35回使節が来る)。この一行を10日間珠洲に滞在させた。住民は接待のために臨時貢納をした(火・肉・酒・ニンニク)
2月加賀へ移り住む。手取川から帰航した

渤海からは宣明暦が献上され、861年この宣明暦に改暦され1684年まで使われた

日本から渤海へは13回船を出し正式な船発着は能登福浦。周辺の大木は渤海船修理のため切り倒し禁止










能登の豪族が初ヤマト政権参加し能登国造となり、能登国造の息のかかった者たちが地方支配した【謎の古墳あり】

2022-02-12 16:08:56 | 日記
■能登の豪族初めてヤマト政権に参加

能登の豪族が、初めてヤマト政権の国造に任命された。その国造の下で各地方を支配した者がいた
💖【永禅寺古墳群】
海岸線から50メートル
眼下の平地を一望できる
若山川下流域、鵜飼川下流域の平野の中間
古墳の被葬者は珠洲地域の首長一族
国造の下でヤマト朝廷権威を背景に支配した

■地方の金持ちと権威ある者が郡司に任命された

649年、国造が治める国が廃止され評となる
701年、評が廃止され郡となる
郡司が置かれる
〈郡司〉
★中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官
★地方豪族が世襲的に国司に任命され、式部省に赴き面接を受ける
★面接官は伝統的権威と財力
氏・系譜・経歴を重視した

💖能登に縁ある修験僧【泰澄】
717年~727年にかけて修験道を開いた。山頂に石動五社権現を祀り360の坊院、山伏3千人を組織し、鍛冶・製薬・技術を全国に持ち歩き普及した
佐渡、飛騨、越後、越中、越前、加賀、能登7か国を知行地とする

■能登国の独立、合併、再独立
718年、能登が越前国と分けられ
能登国となる【ヤマト朝廷に珠洲の名が初登場】
中央権力を東北まで及ぼすための基地とした(北陸4国に「軍船100隻作れ」命令記録あり)

741年、能登は越中国に組み入れられる
平城京にて伝染病・飢饉・貴族間の争いで荒れた上、奈良大仏、国分寺建立などでお金がなく、国の仕組みを小さくするため国を減らした

757年、越中国から再び能登国に
東北地方反乱と新羅に向けての出兵計画により、国の防備を固めるため




1800年前、三韓征伐の帰路、遭難した3隻の船に乗った神々は能登へ漂着した

2022-02-12 14:51:29 | 日記
1800年前
■仲哀天皇皇后・神功皇后の三韓征伐のおり、帰路、風波のため、そのうち3隻が能登の海岸についた。これよりこの海岸を
古麻志浜と呼ぶ(高麗(こま)を志した船がついた浜?)

乗り合いの神々に傷死する者があり、仮殿をつくり仮殿西方に埋葬。そこに榊などを植えた

この墓が無縁になることを惜しみ
石に神像を彫り墓中央に建てた
その後数百年経って殿上人がこの地に下向のおり、墓に五輪の塔を作られ地蔵尊も刻まれて、1墓に1個建てられた

その後、三韓征伐の御神霊を祭神とし、お宮が建てられた。天台宗の高僧が来たとき、宮の祭神を白山妙理大権現とし、宮を白山宮と号した

しかし「戦勝の神を祀るには白山宮にはあたらず、八幡宮に改称せよ」という者と、「改め難い」という者と両派に分かれ争い、9体の木造を白山宮に、1体の神像を八幡宮に分け大足八幡宮とすることにした

今両宮は松波神社に合祀

■神々のうち能登の土地に住み着いた者もいた。山深い住まいを求め田畑を開き安住の地とされた

国重の地に住み着いた幾人かの人たちは、御神事太鼓を打たれて航海の安全や戦の陣の鼓舞を鳴らされたことがきっかけで、村の祭太鼓となった

出雲政権からヤマト政権への移行の跡が残る神社

2022-02-12 13:43:41 | 日記
♦️【出雲神からヤマト神へ強制変更させられた】

神話時代~7世紀前半
★地名は【越】
★日本海の潮の流れによる海上交通で
【出雲】との交流が盛んだった
〈証拠〉
★出雲と能登に前方後方墳多い
★能登に出雲の神様【オオクニヌシノミコト】【スクナヒコノミコト】を祀る神社が多い

■古麻志比古神社
崇神天皇創健

★祭神
日子坐王命(崇神天皇弟〈能登国造〉)

★境内社・祭神
スクナヒコノミコト(大国主命と共に国造りをした・神産巣日神の子)
出雲の神魂(かもす)神社
「かもす」は神産巣日神(古事記より)
説1
古麻志比古神社の神様は、元来は
出雲神だったが、新たにヤマト政権の祖先神の名にもとずく神に変更を強いられた

説2
高麗(こま)魂(し)
高麗人の祖先か
「熊(こも)が呪術と修行によって、天神の子を生む」という朝鮮にあった信仰

★石川県珠洲市若山町
古麻志という村に古麻志神社があり
村には【若倭部】に指定された人々が住んでいた。若倭部は開化天皇の名を世に伝えるための儀式の費用を貢納する義務を負った

★能登地域には日置部に指定された人々が住んでいた地域があった
出雲国神門部を日置郷とされ
その地の豪族を日置氏と呼び
その配下の人々が日置部である
日置部はヤマト政権の祭祀体制に組み込まれていく。ヤマト朝廷の中臣氏のもとに各地の日置部情報を把握された




後の祭神日子坐王が鎮座する


元来の祭神
スクナヒコノミコトが鎮座する

■須須神社・須須神
創健崇神天皇の頃
元来の祭神はミホススミの神
出雲の美保神社の祭神と同一

ススミは烽(のろし)
東方の陽を受ける神
岬の航行安全の神

能登がヤマト国家と深く結びつくほど、日本海航路の要点となり、国家的な統制を受け、ミホススミ神を崇め、その祭祀を整える現地の体制が、ヤマト国家に部民制としてとりこまれた

現在の祭神
高座宮→高倉彦神・ミホススミ神
金分宮→木花咲耶姫命

須須神社奥宮





須須神社