鳩山一郎は吉田茂路線との差異を出すためもあり
★中国・ソ連との国交回復
★再軍備を意図する憲法改正
の意思を示した
■鳩山内閣半数を割る
昭和29年2月
総選挙
鳩山の日本民主党は第一党になり
第2次鳩山内閣を組織した
だが、過半数を割る
たとえ日本民主党と自由党が、憲法改正に賛成しても、左派社会党の躍進によっては、憲法改正に必要な議席を占めるのは困難となった
■社会党の野望
社会党は長年左派・右派が対立してきたが、左派・右派が合同すれば、憲法改正阻止勢力として、政権を担当することができると考え、昭和30年、社会党を再統一した
↓
衆議院467議席のうち、社会党は156議席を占め、委員長に左派の鈴木茂三郎、書記長に右派の浅沼稲次郎が就任
【改憲反対】を党のスローガンとした
■自由民主党発足
社会党の統一現象を見た財界が、保守系政党に対して「保守系政党勢力分裂状況についての再考」を即した
↓
保守系政党は、保守勢力を結集するための準備が進められた
↓
保守勢力は結集した
保守合同により党名を
自由民主党とし、衆議院に299名、参議院に118名を占める勢力が誕生した
■八百長政治はじまる
保守勢力が議席の3分の2
革新勢力が議席の3分の1
を分け合う態勢となった
このバランスを大きく崩すと
憲法改正問題が具体的に引き起こされることになるから、保守・革新ともに基本的にこの数のバランスを保つような政策を展開するようになる
このような安定的体制を55年体制とよぶ
自由民主党は、第3次鳩山内閣を成立させた。鳩山は【憲法改正と再軍備】をスローガンにかかげはしたが、昭和31年に憲法調査会法を公布し、国防会議を八足させたにとどまった
■鳩山のソ連自主外交
外交では鳩山はアメリカに対して一定の距離をおいた自主外交路線をとったことでソ連の好感を得た
その結果、鳩山は昭和31年10月19日【日ソ国交回復に関する共同宣言】に調印した
平和条約にはならず共同宣言となったのは、日本側が国後島、択捉島を含めた北方4島の返還を求めたのに対し、ソ連側が国後島、択捉島はソ連の領土として決着済みであるといい態度を崩さなかったからである
日ソ共同宣言
内容
★日ソ間の戦争状態の終結と国交の回復
★日本の国連加盟をソ連が支持すること
★日本に対する賠償金放棄
★平和条約締結後に、歯舞諸島、色丹島を返還すること
昭和35年、日米新安保条約が調印されると、ソ連は【米軍の日本からの撤退と、日ソ平和条約の調印】をひきかえに、歯舞諸島、色丹島を返還してもよいと通告。しかし、その後も日本とソ連の間にはいまだに平和条約の締結はされていない
だが、共同宣言という形で日本とソ連が合意に達したことで、これまで日本の国連加盟を拒否していたソ連は反対を取り下げ、その結果昭和31年12月国連総会は日本の国連加盟を全会員一致まっ可決した