大納言成親流刑の日
朝食は胸が一杯で箸さえ取らず
流刑の迎えの車に乗る
車の前後左右には兵が囲む
成親の方の伴は誰一人いない
八条から西へ
朱雀大路を南へ
大内裏を見ると、長年成親にお仕えした雑色、牛飼いに至るまで、涙を流し見送る
↓
鳥羽殿
自分の山荘が遠くに見える
鳥羽殿の南門で船を待つ
付き添っている武士に成親は頼む「もしかして、この辺りに自分が召し使っていた者がいるかもしれない。船にのる前に言い残す事がある。さがしてほしい」と頼んだが、、誰もいなかった
「私が世に時めいていた時は、召し使っていた者は1千人もあったのに、今、罪人となった私の様子を見送ってくれる者がいない悲しさよ」と泣いた。身に付き添うものは、ただ尽きぬ涙だけである
屋形を据えたみすぼらしい船に、大幕をめぐらし、海路を出た
摂津国・大物の浦に着く
6月3日
「大物の浦から備前国の児島へ流すべし」との知らせが来た
6月4日
夜が明けると船を出した
都はどんどん遠ざかり、日数はだんだん積もると備前国は近づいてきた。備前の児島に船をつけて、粗末な庵に入った
後ろは山、前は海、磯の松風の音、波の音、どれも哀れさを催す種であった
しばらくして預りの武士・難波次郎経遠が成親を、庭瀬郷・有木の別所という山寺にいれた
出家を望み、後白河法皇から許され、すぐ出家し僧侶の黒染の衣に身を包んだ
8月19日、成親は庭瀬の郷
吉備の中山という所でとうとう命を失った。誰かが成親に酒に毒を入れ勧めたが、成親は飲まず。崖の上から突き落とされ、ひしに貫かれ亡くなった