るるの日記

なんでも書きます

政府と政党の対立は、戦争によって一致団結する「巨額の軍事予算も満場一致で可決」

2022-02-03 19:24:14 | 日記
1894年5月、朝鮮で大規模な農民の反乱が起きた。朝鮮政府は清国に兵を要請。清はただちに軍隊を送った
日本も対抗して出兵
両国の出兵もあり、農民の反乱は収まった
日本は清国に「日清両国で、朝鮮の内政改革にあたりましょう」と提案したが、もちろん清国はこれを拒否
交渉は決裂した

その頃、日英通商航海条約が締結されたイギリスが、開戦に関して日本に好意的な態度を示したので、日本政府(第2次伊藤内閣・陸奥宗光外相)も開戦を決意した

7月豊島沖の海戦によって日清戦争が始められ
8月には、正式に清国に宣戦布告

日本国内ではそれまで対立していた政府と政党が、一致団結。巨額の軍事予算も満場一致で可決され、清国との戦争を遂行するため挙国一致の動きが進められた

清国側は国内改革に立ち遅れ、政治的対立も激しく、専制政治のもと国力を十分発揮できなかったので、戦争は日本優勢のうちに進められた
2億円余り(当時の国家予算2年半分の歳入)の戦費と、約10万人の兵力を動員した戦争は、約8ヶ月で日本の勝利に終わった
日本人の死者は約1万7千人
その7割が病死だった

1895年4月
日清間に講和条約が調印された
(下関条約
★朝鮮独立承認
★台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲
★賠償金3億1千万の支払い
など

眠れる獅子と恐れられていた清国が、日本に破れたことで欧米列強国は中国分割に乗り出した
ロシアはドイツ・フランスとともに、【遼東半島の清国返還】を日本政府に申し入れてきた

日本はまだ、これら三国に、対抗できる力がなかったので、政府は清からの賠償金に5000万円を追加することを条件に遼東半島の返還に応じることにした
日本国内では三国干渉に対する憤激の声が高まり、政府もまた軍備拡張と国力の充実をはかった

朝鮮は清国から独立しても、今度は日本に支配されてしまう立場だった「独立は難しい」

2022-02-03 18:38:08 | 日記
■日本の視線が、朝鮮に向けられていた理由

明治維新以来、日本の外交の中心は朝鮮に向けられていた
なぜなら
日本政府は、欧米列強の東アジア進出に、強い危機感を持っていたからだ

【朝鮮がロシア勢力下に入れば、日本も危うい
だから、、
朝鮮を日本の主導権で清から独立させ、日本の影響下に置き、列強と対抗しよう】と考えていた
その現れが「征韓論」「日朝修好条規」である


■1880年はじめ、朝鮮では、閔妃派の政府が、日本から軍事顧問を招くなどして国内改革を進めていた

1882年、閔妃派と対立していた王子・大院君はクーデターを企て、現ソウルの日本公使館が焼打ちされ、日本人軍事顧問などが殺された
クーデターは清国の出兵により鎮圧
日本は朝鮮に守備兵駐留を認めさせた
★改革派だったはずの閔妃派は急速に清国に接近
(清国が手をまわしたな、、)
★これに対し改革派(独立党)は、日本に接近
1884年、清国とフランスの戦争が始まり、清国の敗北が続くという好機
12月改革派は、日本の援助のもとクーデターを起こした【甲申事変】
清国軍の出動によりクーデター失敗
日本公使館は焼払われた
日本は「朝鮮の謝罪」と「賠償金の支払い」などを約束させた
【朝鮮の改革派は、清国の軍事介入で朝鮮から一掃されたのである】
1885年、伊藤博文が甲申事変の事後処理のため、天津に赴いて李鴻章と交渉。日清間に天津条約が結ばれ
★両軍の朝鮮からの共同撤兵
★軍事顧問は派遣しない
★今後の出兵は相互に通告する
朝鮮は清国の影響下におかれ、日本の勢力は大きく後退した

日本国内では
【日本政府弱腰】
【武力出兵!対朝鮮・対清国強硬】
【朝鮮から清国一掃、朝鮮を独立させよ】運動が活発
日本政府は、朝鮮の国内改革を行って、日本指導のもとに独立させようという方針を強めていった
対外戦争に備えるため、軍備拡張を進めた。1892年の軍事費は全体支出の15%から31%に上昇した




国力を上げなければいけない理由

2022-02-03 17:22:11 | 日記
幕末に、幕府が欧米諸国と結んだ不平等条約を、平等な条約に改めようとする【条約改正問題】は非常に重要課題であった。これは政府ばかりか、反政府によっても取り上げられ、政争の昇天となった

その中心問題
★関税自主権の獲得(税権回復)
★領事裁判制の撤廃(法権回復)


※寺島宗則(外務卿)
明治11年、アメリカの同意を得て、新しい条約に調印したが、イギリスなどの反対にあって新条約は実施されなかった。その頃日本は、まだ国会や憲法を持たず、国際的地位も低かったので、欧米諸国はなかなか条約改正を認めようとしなかった

第二次伊藤内閣になって
外務大臣・陸奥宗光のもと、改正交渉は青木周蔵がイギリスとの交渉を進め本格的軌道にのった

イギリスはロシアが東アジアに勢力拡大することを警戒心し、国力を増大しつつある日本との条約改正に応じ、1894年日英通商航海条約締結
内容は領事裁判制度の撤廃
関税については不十分であった
イギリスに続いて欧米各国とも、新しい条約が結ばれ、1899年発効

1911年、改正条約満期
外務大臣小村寿太郎は、再び交渉を始めた。日本が日露戦争の勝利を経て国際的地位を高めているだけに、列強の反対もなく、関税自主権の完全回復が実現した





日本初議会開設→初選挙→政府側過半数割れ→議会の度に解散選挙→政府連立を組む

2022-02-03 16:32:55 | 日記
■帝国議会開設
新しい政治舞台の幕開けだ
政党勢力はともかくも新しい政治活動の場を持つことになった

■政府の宣言
「政党の意向に左右されることなく、不偏不党(公正中立)の立場から国家本位の政策を遂行する」

■選挙前の運動
1888年~1889年、後藤象二郎を中心に、民権派の流れをくむ勢力が結集した「大同団結運動」が広まり、地方には政治結社が続々と結成された
1889年、運動は、後藤象二郎が政府の呼びかけで入閣したことから混乱

■第1回衆員選挙
1890年7月
第1回衆議院議員選挙
民党(民権派の流れをくむ野党)各派は、吏党(政府系)をしのいで
過半数の議席を占めた

民党の主だった派は
★【立憲自由党】→【後に名称変更し自由党】

★【立憲改進党】

■第1議会
★〈民党の主張〉
「民力休養・政費削減・行政整理・政府提出の予算案削減」

★〈政府〉
民党の要求を一部認める妥協案を成立させ、のりきる

相互に妥協的態度をとったのは、最初の議決から双方が正面衝突して、衆議院解散、予算案不成立に終わるようでは、先進国から日本の立憲政治運営力に疑問をもたれることになるので、双方ともそうした事態を避けようという自制心が働いていた

■第2議会(1891年)
政府の新規事業計画の多くが否決され、予算案が大削除されたことから
衆議院解散

■第2回衆議院選挙
内務相・品川弥二郎が激しい選挙干渉を行い、民党候補者の選挙活動を妨害したが、吏党は過半数の議席を占めることはできず

■第3議席(1892年)
松方内閣は、選挙干渉の責任を追及される。閉会後閣内対立から総辞職
第2次伊藤内閣が成立

■第4議会(1892年~1893年)
軍事予算削減を迫られたが、天皇の詔勅(和衷協同の詔)によって、これを乗り越えた

■第5(1893)、第6議会(1894)
立憲改進党などが条約改正問題で
伊藤内閣を弾劾し、ついに2度とも衆議院解散が行われた

♦️連立
政府の伊藤博文、陸奥宗光らは民党と妥協し、積極的にこれと手を握って政治を運営していく主張をする

政府に反対するだけでは、「民力休養」の実が結ばないことを悟った民党側のなかにも、政党を政策能力を身につけたものに改革し、政府と協力して政治の責任を分担していこうとうする空気が生まれてきた

衆議院第一党である自由党は、伊藤内閣に接近するようになり、これに反対する立憲改進党は自由党と対立し、政党相互の対立が目立つように






大日本帝国憲法発布・外国人の声「日本政府は国民に大きな自由と権利を与え過ぎだ」

2022-02-03 15:19:11 | 日記
■天皇絶対主義ではない

大日本帝国憲法は、制度上「天皇の大権」を機軸として成立した。しかしそれは「天皇絶対主義の立憲制」と、みなすのは適切ではない

確かに今日の民主主義国に比べれば、国民の人権尊重は十分とはいえず、議会の権限も小さかった
とはいえ、国民のなかから選ばれた議員からなる参議院を含む帝国議会が開かれ、その議会なしには政府は新しい予算案を確定したり、法律を制定・改廃したり、増税を実施したりすることはできなくなった
その点、ヨーロッパ流絶対主義国とは明らかに異なっていた

■長老たちによる明治天皇代行政治

天皇が国家統治の大権を自ら積極的遺志によって発動し、統合機能を発揮することはほとんどなく、国務大臣や、議会の助言と同意によってそれを行使する慣習であった

天皇の最高相談者の、長老政治家たちが集団で、天皇の代行を果たしていた
大正以後の政治運営は、内閣・議会・軍部権力が割拠した。その弊害にて1930年、天皇の名のもとに軍部発言力が増し「天皇制の無責任体系」が現れた

■大日本帝国憲法で国民は自由になった

伊藤博文らは憲法運用においては君主権の制限と、民権の保護という立憲主義の精神を重視し、統治権の濫用をいましめた
憲法発布当時、「日本政府は、国民に大きな自由と権利を与えすぎている」という外国人の批判も多かったくらいである