1894年5月、朝鮮で大規模な農民の反乱が起きた。朝鮮政府は清国に兵を要請。清はただちに軍隊を送った
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日本も対抗して出兵
両国の出兵もあり、農民の反乱は収まった
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日本は清国に「日清両国で、朝鮮の内政改革にあたりましょう」と提案したが、もちろん清国はこれを拒否
交渉は決裂した
その頃、日英通商航海条約が締結されたイギリスが、開戦に関して日本に好意的な態度を示したので、日本政府(第2次伊藤内閣・陸奥宗光外相)も開戦を決意した
7月豊島沖の海戦によって日清戦争が始められ
8月には、正式に清国に宣戦布告
日本国内ではそれまで対立していた政府と政党が、一致団結。巨額の軍事予算も満場一致で可決され、清国との戦争を遂行するため挙国一致の動きが進められた
清国側は国内改革に立ち遅れ、政治的対立も激しく、専制政治のもと国力を十分発揮できなかったので、戦争は日本優勢のうちに進められた
2億円余り(当時の国家予算2年半分の歳入)の戦費と、約10万人の兵力を動員した戦争は、約8ヶ月で日本の勝利に終わった
日本人の死者は約1万7千人
その7割が病死だった
1895年4月
日清間に講和条約が調印された
(下関条約)
★朝鮮独立承認
★台湾・澎湖諸島・遼東半島の割譲
★賠償金3億1千万の支払い
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、
など
眠れる獅子と恐れられていた清国が、日本に破れたことで欧米列強国は中国分割に乗り出した
ロシアはドイツ・フランスとともに、【遼東半島の清国返還】を日本政府に申し入れてきた
日本はまだ、これら三国に、対抗できる力がなかったので、政府は清からの賠償金に5000万円を追加することを条件に遼東半島の返還に応じることにした
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日本国内では三国干渉に対する憤激の声が高まり、政府もまた軍備拡張と国力の充実をはかった