るるの日記

なんでも書きます

戦争についてルルが感じたこと

2022-02-24 19:56:39 | 日記
戦争とは国と国の戦いだから、理性的な戦いであるはずだと思っていました、、

でも実は、戦争の始まりは、国のトップの単なる感情表現に過ぎなかった
「得したい、得したい、わが国だけが得したい」という、一時的な感情表現に過ぎない

翌日冷静になっても、始めてしまった戦争は簡単には止められない

「一時的な感情で振り上げてしまった拳は、、もう下げることができない」ほどに、個人の感情は周囲に伝播してしまっている

振り上げてしまった拳を、下げることができるのが強い人間だろう。一番強い人間は、利益のために感情に振り回されない人だがね、、、







平家物語・座主流し「比叡山衆徒の訴訟によって流された師高の父・西光の復讐」

2022-02-24 18:47:52 | 日記
1177年5月5日、天台座主明雲大僧正は、朝廷の法会や経典の講義を止められ、朝廷で行われる修法のための如意輪本尊を返し、天皇護持の祈祷役を替えられた。この仕打ちは、比叡山衆徒が御輿を担ぎ朝廷に向かわせた事件の黒幕とさせらたからだ

なぜか?
西光法師父子が
「加賀国には天台座主の寺領があり、加賀守師高がこれを廃止したので、その遺恨を衆徒に語り訴訟を起こさせたのである。もう少しで朝廷の一大事になるところだった」という讒言(他人を陥れるための嘘)を、言いふらしたからだ

明雲は天台座主を辞職された
5月11日、鳥羽院の第七皇子が天台座主になった
明雲は職務を停止させられ、監視をつけられ、水と火を絶たされた

5月18日、座主の罪科についての会議が開かれた。中納言・藤原長方が申すには
「法律の判定書では、『死罪を一段下げて流罪にされる』と書いてありますが、明雲は顕教・密教2つながら学び、清浄な行いを極め、戒律を守り、法華経を高倉天皇にお授けし、菩薩界を後白河院にお授けした師です。そういう方を重罪にするとなると、仏がどう思われるかわかりません。俗人に戻して流罪にするのをゆるめるべきでしょう」

みな賛成したが、後白河院の怒りが強かったので、やはり流罪に定められた。平清盛でさえこの事をとりなそうと思って参られたが、後白河院は風邪気味ということで会えなかった

僧を罪に処すために、俗人に戻して、藤井松枝と俗名をつけられた


平家物語・平家滅亡の兆し→「平家武士が御輿に矢を射る慢心行動」に全てが現れている

2022-02-24 17:42:58 | 日記
比叡山衆徒に捨て置かれた御輿は、祇園神社へ入れた。御輿に立っていた矢を神官が抜いた。山門の衆徒が御輿を陣頭にして朝廷へ向かうのは6度目で、その度に武士が防いでいたが、御輿に矢を射ることはこれが初めてである
「神が怒れば、災害は満ちる。恐ろしいことだ」と人はみな申し合った

山門では
御輿に矢が立ち
神人・宮仕が射殺され
衆徒は大勢負傷したので
比叡山の諸堂をすべて焼き払って
山野に隠れよう!と決議していた

平時忠は衆徒を鎮圧するために、比叡山大講堂の庭に来た。乱暴をされそうになった時、時忠は「しばらくお静かに。衆徒の方々に申すべき事がある」と言って、紙に一筆書いて衆徒に遣わした。その紙には
「衆徒が乱暴をするのは、魔縁のしわざである。天皇が制止するのは、仏の加護である」と書かれていた

衆徒は皆「もっとも、もっとも」と賛成して、それぞれの坊に入って行った。一枚の紙に書いた文句で衆徒の怒りを鎮めた時忠。道理が解れば素直な衆徒。どちらも感心で立派なことである

加賀守・師高はついに尾張の井戸田へ流され、目代・師経はに入獄
また、御輿を射た武士6人の人獄が決められた。みな小松殿の侍であった

同年4月28日
午後10時頃
樋口富小路から火が起こった
東南の風が激しく吹いた
内裏にも火が吹き付けた
京都中はあっという間に焼け野原と化した。人が焼け死ぬぬこと数百人、牛馬は数えきれない
これはただ事ではない
山王権現の罰であろう

平家物語・未来の評判に負けた比叡山老僧と衆徒

2022-02-24 16:45:06 | 日記
さて、話は戻る

比叡山山門の衆徒は、
加賀守・藤原師高
目代・藤原師経
兄弟の処分の裁許がなかったので、日吉神社での祈りを止め、十禅師、客人の宮、八王子権現の三社の御輿を飾り奉り、朝廷へ進んだ

源平両家の武士は、四方に陣を固めて、山門衆徒を防いだ

衆徒は軍勢が手薄な北の門から御輿を入れようとした
北の門の陣の源頼政は、馬から降り甲を脱いで、御輿を拝み奉った。兵士たちもみな同様に拝んだ。それから源頼政の使者が申し入れた

「衆徒方、今度の山門の訴訟は道理に叶っています。朝廷の裁断が進まないのは私も残念に思います。ですから御輿を入れたいと思います。

ただ、頼政は無勢なうえ、私たちから開けて衆徒が入ったならば、『山門衆徒は手薄な陣の弱味につけこんで通った』などと噂が立つでしょう。
そうなれば衆徒側が後々困るでしょう。東の陣は小松殿が大勢で固められています。その陣からお入りになるべきではないでしょうか」

衆徒は「この門から御輿を入れろ」と言う者が多かったが、老僧の豪運が「頼政殿が言われることは真にもっともだ。御輿を先頭にして入り大勢の兵を打ち破ってこそ後代の評判もいいだろう。それにこのような優雅な頼政という男に、門を開けさせるなど、そんな情けない恥辱を与える事ができようか」と評議したので数千人の衆徒は「もっとも、もっとも」と賛成した

御輿を先頭に立て、東の陣前にある門から入ろうとした。乱暴はすぐさま起こり、御輿にたくさん矢が射られ、神人・宮仕は射殺され、衆徒は大勢傷を受け、衆徒は御輿を捨てて比叡山に帰った

平家物語・神の罪を犯した者は神の罰がある。けどそれは衆生を利益する方便としてなさることである

2022-02-24 15:53:56 | 日記
比叡山山門の呪詛により病に伏せられた関白・藤原師通。その母は、嘆いて身分卑しい下臈の姿をして、日吉神社に参籠。七日間お祈りをなさった

■表向きの祈り
★百番の田楽
★百番の競馬
★百番の流鏑馬
★百番の相撲
★百座の仁王講
★百座の薬師講
★百体の36センチの薬師像建立供養
★一体の等身の薬師像建立供養
★一体の釈迦像建立供養
★一体の阿弥陀像建立供養

■心中の3つの立願
心中のことで他人が察することができないことだが、八王子権現の社に大勢いた参詣人の中に、奥州からはるばる来ていた童巫女がにわかに気絶したので、祈ったところ間もなく蘇生し、立ち上がって舞い出した。巫女は半時程舞った後、山王が巫女に乗り移られて、さまざまな御託宣があった

「人間ども、よく聞け。関白母が今日で七日間わが御前に籠った。立てられた願は三つある

一つ、関白の命を助けて下さい。そうしたら千日の間、いろいろのかたわ者に混じって朝夕、山王に奉仕する

二つ、大宮の前の橋から、八王子権現の社まで回廊を造って寄付しようということである

三つ、関白の命をお助けくださるなら、八王子権現の社で、法華問答講を毎日続けて行わせるという

初めの二つは、なくてもいいが、毎日の法華問答講はぜひやってもらいたいものだ
ただ、、今度の訴訟で神人・宮仕が射殺され、傷を受け、人々が泣く泣く参って私に訴えることがあまりにも悲しくて忘れない。余りにも悲しいので、どんなに関白母が祈願しても、最後まで命を助けることはできない、、しかし法華問答講を必ずやるならば、三年命を延ばしてあげよう、、それが不足ならば仕方がない」と言って山王は乗り移った巫女から御上りになった

関白母は、三年命を延ばして下さいましてありがとうございますと言って泣く泣く都へ帰り、関白の領地・紀伊国の田中荘を八王子権現の社に寄進され、法華問答講を行い、現在に至るまで毎日怠らず続けている

三年の月日が過ぎ関白は6月27日
38歳で亡くなられた。罪を犯した者に咎めはある。山王権現が衆生を利益する方便としてなさることである