😥【急激な近代化による歪み】
とにかく明治政府は急速な近代化政策を進めた。それは国民生活の実情を無視した急激さであった政府は近代化のためなのか、何なのか、【少数の藩閥官僚による専制政治(有司専制)】を行っていたため、不満の声があがり、国内では政府に反対する気運が高まりつつあった
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征韓派にくみして政府を辞職した板垣退助ら旧参議らは、政府の有司専制を鋭く攻撃した
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江藤新平は佐賀にて不平士族に擁立された征韓党の首領となって反乱をおこした
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政府の取締りは厳しくなり
反政府的言論活動を押さえた
😓【西郷隆盛自死】
急激な改革によって、封建的特権を次々に奪われた士族たちも、政府への不満は高まり、士族たちの反乱が相次いだ
1877年2月、反政府勢力の拠点と目されていた鹿児島において、私学校の生徒を中心とする不平士族らが、西郷隆盛を擁して兵を挙げ、ここに西南戦争が始まった
始めは勝敗の行方も予断を許さないほどであったが、西郷軍が熊本鎮台の攻略に失敗してから千局は政府軍に有利に傾いた。政府は8ヶ月近い歳月を費やして9月内乱を鎮圧し、西郷をはじめとする反乱軍の指導者はいずれも戦死・自殺・処罰された
政府軍の勝利、西郷軍の敗北は、新しい徴兵制による軍隊の威力を示し、政府の権力がもはよ揺るぎないものであることを明らかにした
😓【大久保利通暗殺】
1878年、不平士族一味による大久保利通暗殺事件が起きた。不平士族の新政への反抗は、政府要人の暗殺という形をとって行われた
最後まで政権の座にあり、政府の中心となって、大きな権力をふるい、日本の近代国家建設の基礎を築いた立役者である
西郷隆盛と比べると、人気は乏しく、反対派から専制政治家として激しい非難を浴びた
しかし、冷酷と思えるほど沈着冷静であり、優れた決断力と明晰な頭脳を備え、広い視野に立ち、現実主義に徹した政治的態度は、多くの反対を押しきって大胆な改革を実行しなければならない変革期の政治家にふさわしいものであった