るるの日記

なんでも書きます

平家物語・平家の運命が末になるきっかけの病や死という出来事は、運命というより宿命だったとしか思えない

2022-03-04 11:41:52 | 日記
平清盛が亡くなって50日過ぎない頃の3月10日、東国の源氏は尾張国まで攻め上り、道をふさいだ

平氏軍は三万騎で出発
源氏軍は六千騎
尾張川を中に隔てて源平は両岸に陣を取る
16日夜中、源氏軍が川を渡り
17日午前4時から矢合わせ
夜明けまでに、源氏は討たれ川から東へ引き退いた。そのとき頼朝弟・義円は深入りして討たれた

平氏軍は源氏軍を三河国まで攻め落とした

平氏がすぐに続けて攻めていたならば、三河・遠江の勢は平氏につき従うはずだったのに、、
大将軍知盛は病気になり三河国から帰京。今回も第一陣を破ったが、残党を攻めないので、たいした戦果はなかった

平家は一昨年清盛嫡男・小松内大臣重盛が薨去され、今年また清盛が亡くなられ、平家の運命が末に近づいているのは、誰が見ても明白だったので、長年恩を受けた連中の他に、平家に従い付く者はいなかった。東国では草も木もすべて源氏になびいたのであった

平家物語・五条大納言邦綱「大胆さの裏には繊細な準備がある」

2022-03-04 11:12:46 | 日記
🔶平清盛の親友、五条大納言・藤原邦綱は清盛と同じ日に発病して、同じ月に亡くなられた
はじめ、この人は身分が低く蔵所の雑用係として仕えていた

■内裏に火事が発生
その時、近衛天皇は紫宸殿にいたが、天皇の役人は一人も参上されず、天皇は茫然として立っていた

そこに邦綱は、輿をかつがせ参上
「こういう時には、こんな輿にお乗りください」と天皇に申し、天皇はこれに乗られてお出ましになった
この機転の良さをきっかけに、天皇に召し使われることになった

■近衛天皇が石清水八幡宮へ行幸された時、舞人の長が酒に酔って、池に落ち、装束を濡らしてしまい、神楽を奏でるのが遅れてしまった時、
邦綱は「舞人の長は立派でございます。予備の装束は持たせております」と、一揃え取り出し、
舞人の長はこれを着た

時は少し過ぎたけれども、歌声澄んで空に響き、舞の袖が拍子に合って面白かった

身に染みて面白いと感じられる神楽は、神も人も同じである。天照大神が神楽に惹かれて天の岩戸を開いたという神代の出来事も、今思いあたる

■楽しむことと真逆の性分を持つことも大切
治承4年の五節という催しで、ある殿上人が「竹湘浦に斑なり」という朗詠をなさった時、邦綱は立ち聞きし「あぁ、あきれたことだ。これは禁忌の朗詠だ。聞かなかった事にしよう」と思ってそーっと逃げ出された。この邦綱は、このように繊細な面もある

■こうして藤原邦綱は中納言になる
清盛は「考えることがある」と言っては、邦綱にいろいろ相談していたが、「この世で親しい友として、この人以上の人はいない」というほど
清盛は邦綱に心を寄せた
こうして藤原邦綱は正二位大納言まで昇進されたのである






平家物語・平清盛は白河院(後白河院曾祖父)の子であったからこそ、あのような天下の一大事を行えた【辻つまがあう】

2022-03-04 10:11:10 | 日記
平清盛は平忠盛の子ではない
本当は白河院の子である
(注意・後白河院ではなく白河院)

去る永久の頃
白河院には祗園女御という寵愛の女性がいた。その女房の住所は東山の麓。祗園の辺で、白河院はいつも御幸になった

時は5月20日過ぎ、まだ宵の事(夜がふけて間もなく)。五月雨が降ってうっとうしかった折、祗園女御の家の近くの御堂の傍に光物が現れた

頭はキラキラ光り
左右に手らしきものを上げ
片手には槌を持ち
片手には光る物を持っていた

白河院も、その臣も恐ろしがり、院のお伴の武士・平忠盛を呼んで
「あの不気味な鬼のような物を射殺するなり、斬りとめるなりしてくれ」と言われた

平忠盛は怪しい物の方に向かって行ったが内心
「これは狐か狸などだろう。殺さずに生捕りにしよう」と思って歩み寄って、むずっと組み付いた
それは、、人だった
60歳くらいの法師である

事の真相がはっきりした
御堂に法師が御燈明をあげるため
片手には手瓶に油を入れて持ち
片手には土器に火を入れて持っていた
頭には小麦藁を編んだ笠をかぶっていた
土器の火に小麦藁が輝いていたのである

この法師を殺していたら、どんなに心ないことだったか、、
「平忠盛の振舞はまことに思慮深い
弓矢をとる身の武士はまことに殊勝なものである」
といって、白河院はあれほど寵愛深かった祗園女御を、平忠盛に下さった

しかし、、その祗園女御はすでに白河院の御子を懐妊していたので
「生まれる子が女子ならば私の子にしよう。男子ならば忠盛の子にして、武士にしたてよ」と白河院は言われた

祗園女御は男を生んだ

白河院は「若君があまりにも夜泣きをする」という噂を聞いて一首詠んで忠盛に下した

「夜泣きすと、ただ守(も)りたてよ、末の世に、清く盛える、こともこそあれ」

(夜泣きしても、忠盛よ、ただお守りして養育してくれ。後になって、清く盛える事もきっとある)

それで、清盛と名づけた

清盛は若くして出世していく
事情を知らない人々は「花族の家柄(太政大臣にまでなれる家柄)の人なら、このような出世はあるだろうが、、」と申していた

鳥羽院は事情を存じておられて
「清盛の血筋は、ほかの誰にも負けないだろう」と言われた

平清盛は本当に白河院の御子であったから、あれほどの天下の一大事、都遷りなどという容易でない事などを思い、行えたのだ