■法然は人々に言った
「ただ一筋に仏を信じて念仏しなさい。それだけでよい。そうすれば必ず救われるから」
しかし、それが本当だと客観的に証明するものは無い。にも関わらず法然が確信をもってこれを説いたのは、正当な理由がある
それは、【法然自身が念仏という易行によって、実際に救われた人間だったから】です
■親鸞も法然の言葉に感銘を受け帰依しました。親鸞はさらに一歩深いところへ歩き出します
親鸞は思った
「ただ念仏を称えることは易しいが、素直に無心に念仏を称え、帰依することは簡単ではない」
「これは自分で決心し努力するのではなく、おのずと大きな力によって、自然に引き寄せられることではないか?」
「南無阿弥陀仏と念仏するのは、そうせずにはいられない、というところへ、おのずと引き寄せられるのだ」
■なるようにしかならない。しかしおのずと、必ずなるべきようになる
(1)親鸞という偉いお坊さんがいるそうだという噂を人から聞く
【すでに見えない力に働きかけられたが、、】
噂を耳にしても、なかなか自分で出かけて話を聞く気になれなかった
(2)友人から「親鸞さまの話があるそうだから一緒に行ってみないか?」と誘われた
【向こう側からの力がやって来た】
(3)親鸞さんに会い、声を聞き、その振舞を見ると、なぜかわからないけど感動する。この人について行こうと湧きあがる衝動を押さえることができない。それは自分がそうしようと努めているのではなく、人の言葉に説得されたわけでもない
■自然法爾
自は「おのずから」
然は「しからしむ」
法爾は「人に働きかける見えない力」=他力本願
なるようにしか、ならない
しかし、おのずと必ず、なるべきようになる。我が計らいにあらず