るるの日記

なんでも書きます

信念の大要点「無常を無常のままに、無常の根元には不動の如来本願力で満たされている」

2022-03-07 16:30:08 | 日記
私は如来の本願をたのみにする。力にする。如来の本願は永劫の昔より、常に不変不動にして私を招き、私を守る

決して信念をたのみにしたり、力にしたりはしない
私の信念はこの本願の力に気づかせて頂く心状、時や場により変化する。この信念の変化そのものも自力で造ったものではない。その変化の根元は、不動の本願に満たされている。私はこの法悦を相続をする

動く心を動くままにし、動かぬ本願力をたのみ奉るのが信念の大要点にある

大信は信を忘れ、信を求めず

2022-03-07 14:08:44 | 日記
信心とは
私たちの心にて起こる至誠心ではない。発願心ではない。まったく他力仏心であります

他力信心とは、私は如来の信心の対象であると気づき、如来の久遠の慈悲の恩に目覚めた心状である
この心状を「たのむ」「助けてください」ともいう

他力信心とは、私の計らいではなく、決心ではなく、覚悟ではなく、仏の計らいに任せる心
如来の決定をたのみにする心
自らが善いとも悪いとも、頭を悩まさず、ただ一心に如来にすがる心

如来に気に入られようと思う心は自力
如来に追従する心は自力
私は堅固に如来をたのむと思うも自力
信心を資本としてお助けを買おうとする心は自力
信心を救済の条件と思う心は自力

自力は定散心

心の清きをたのみ
心の穢れを悲しみ
喜びを力にし
喜べぬを嘆く
これみな自力であり
他力の信心ではない
自力信心は信心に拘束され、信心の形式の下に束縛され化石となる

大信は信を忘れる
ただ全身が如来本願
ただ全心が如来真実心
自己の信を見る余裕はない
自己の信を値踏みする余裕はない

腹満ちた人は食を要しない
慈悲に満腹し信心に入った人は信心を要しない。信ある者は信を求めず
真に如来心に安住するに至り了る





私たちの出処進退、起居動作すべて如来の御用。何も思い煩うこと無し

2022-03-07 13:16:56 | 日記
私たちが一度、如来召喚の声に、永劫の迷いの夢さめて、信念に入る時、自己はこれ絶対無限の妙用に乗ったとの自覚に入り、私たちの出処進退、起居動作、すべて如来の御用と感知する。私たちが認める時も、認めざる時も常に如来の御力は我らの上に加わっている。これを冥加という

着るに冥加を思い
食うに冥加を思い
進むに冥加を思い
退くに冥加を思う
冥加を顕知するのが信仰なり




如来救済の大誓願力の活躍を信じ、如来大霊の上に安住する

2022-03-07 12:55:34 | 日記
そのまま
このまま
計らいなく
罪悪のままの救済
疑いながらの救い
何をやっても差し支えない
不平なく安住せよ

現在安住は現在謳歌(本能満足)ではない

現在の自己を肯定して安住するのではない

現在の環境を肯定して安住するのではない

自己を否定し
境遇を否定し
主観を否定し
客観を否定し
世のすべてを否定し
しかもその上に味わう信味

諸行無常
諸法無我
しかもその上に現在安住の信味

現在を謳歌せず
自己をも謳歌せず
何によりて安住するか
【如来救済の大誓願力の活躍ましますことを信じる時に、この大霊の上に安住する】

現在安住とは過去は安かりしと追想するのではない。未来は安かるべしと予想するのではない。現在只今如来摂取の懐にありという事を自覚して、これに安住する

現在安住とは現在の境遇に満足することではない
現在の自己に満足することではない。ゆえに現在謳歌の思想とは雲泥の差あり

そのまま罪悪のままというのは
罪悪を肯定するのではない。罪悪ある者がその罪悪のままにして、救済の内にあり、救済の目的なりということである

現在安住の信念とは
現在の自己に安住するのではない
現在の境遇に安住するのではない
現在の一念に遍く至る如来の本願に安住することなり

現在安住の信念味には
沈痛な自己否定の罪悪観あり
深刻な社会否定の濁世観あり
現在謳歌とは大なる差異あるなり

如来の誓願は生き生きし
常にその霊能を活躍させている
ゆえに人の心、この本願に安住せば
この心は本願と共に運ばれて
向上の道ほどに進み行く
ゆえに現在安住とは、停滞、消極的と思うのは誤りである

如来の本願は宇宙を動かし、止まらぬ大志願。大活躍。世にこれ以上の活躍はなく、これ以上の積極的なものはない

私たちが現在の本願に安住したら、私たちの活躍は止まり、本願の大活躍の上に私たちが働かせて頂くことになる。ゆえに現在安住者は大積極の道に入る者なり

この心、過去に対して感恩の思いとなり、未来に対しては希望の思いとなり、自由解放の大活躍となる

現在安住の信念は大積極的
現代を謳歌せず、むしろ現代を教化しようとする大勇猛心となりて顕現するなり

この勇猛心なるや決して自己製作ではなく、如来の救世の大誓願力の発現である。如来の誓願の上に現在安住し得たる人は、現代に対して教化的に進入するのが自然の勢いである

濁世観と罪悪観を伴う現在安住観は、悲観的厭世観にあらず、消極的楽世観にあらず、本願力に乗る他力の信念によりてのみ味わい得る積極的実力を具備したる大安心の地である


信念は自ら作ることはできない

2022-03-07 11:47:48 | 日記
仏教は人の心より涌き出たのではなく、如来の【衆生救済の大誓願力】により建立された宗教である

信念は自己の思索や修行によって得られた心の産物ではなく、如来の誓願成就の大信念が、人の心に新生したのである

人の信念は遠き世の昔にあり
宗教の起源は永劫の初めにある

私たちの救済の道は
永劫の昔、如来が誓願を起こした時より、如来の間断なき精進努力によって造られ、十劫の暁天に成就され
その時以来救済の道は開かれました

この如来の大精神が私たちの帰命一念に遍く至った時に、私たちは大信念に入るのです