るるの日記

なんでも書きます

石川県羽咋市の行方不明男性が遺体で発見されました。ご冥福をお祈りします。

2022-03-12 22:03:56 | 日記



人生から解放されるための精神的・肉体的自殺は、旧監獄から新監獄へ移動すること

2022-03-12 15:49:16 | 日記
人生唯一無二の解脱門は
如来絶対他力の大道です

解脱とは
【拘泥】(他に選びようがあるに1つの事にこだわる)と、【執着】から放たれた自由な境地です

解脱とは救われること
解脱とは束縛から解かれること
解脱とは苦悩から脱すること
解脱した人生は放たれた人生
解脱した人生は自由な人生


■拘泥とは他に思うこはたくさん選びようがあるにがあるのに、1つの事にこだわる心です

解脱に拘泥する人は解脱に苦しみ
金に拘泥する人は金に苦しみ
恋に拘泥する人は恋に苦しみ
善に拘泥する人は善に苦しみ
悪に拘泥する人は悪に苦しみ
邪に拘泥する人は邪に苦しみ
仕事に拘泥する人は仕事に苦しみ
家庭に拘泥する人は家庭に苦しみ
地位に拘泥する人は地位に苦しみ
虚栄に拘泥する人は虚栄に苦しみ
宗教に拘泥する人は宗教に苦しみ
徳に拘泥する人は徳に苦しみ

拘泥は闇の道
拘泥は苦悩の道
拘泥は墜落の道

■解脱に拘泥する者の、解脱に至る手段に精神的自殺、肉体的自殺がある
自殺によって人生の苦悶を脱して、安らぎを得ようとするが、これは旧監獄から脱して、新しい監獄に入ること
囚われは、より囚われに移り
苦悶はより重き苦悶に移る

この監獄は自らが建立したもの
自業自得の道理にて苦しみに沈む
この苦しみを脱しようとする自力の努力は、みなまた束縛となる

よって私たちの一切の責任を
如来に託すべし
如来に解脱させられ
救済されるなり
絶対他力の門はいつでも開かれている
「自力の心をふり捨てて、一心に『南無阿弥陀仏。私の今度の一大事、お助けください』と頼みましょう」

■私たちが他人から(精神的に)束縛されるのを免れるには、自分の精神を強くすることではない。万物一如の信念が起きるとき、ここに始めて何の束縛も無くなる

万物一如の信念とは【万物如来絶対他力という信念】

万物は如来による絶対他力の顕れだから、如来の本願力「私を頼め!たすけるぞ!」が感応する

感応すると、この世の一切の出来事は如来の計らいであり、苦しみと感じる出来事は、如来が我一人を愛護するための方便だと知り、私たちは善悪、正邪、幸不幸、、両面に対して何の苦痛も束縛も感じなくなるに至る

■人は有無の二道に迷い苦しむ
解脱は有無を離れること
如来の光は解脱の光
如来の光は絶対他力の妙
如来の光に触れて光明に入る時
有無の二見を離れ、大安楽に住する

貧しい者は貧しいそのまま
富を得ている者は、富裕そのまま
病者は病者そのまま
健全な者は、健全そのまま
愚者は愚のまま
智者は智のまま
徳者は徳のまま
罪人は罪人のまま

因果放たれ
自由を得て
解脱の幸福を得て
救済の楽園に入る

これが如来絶対他力の大道



楽天家は防衛バリアを張り巡らせているか、酔っているか、妙法に触れた人

2022-03-12 14:16:04 | 日記
あなたが苦しみの涙をこぼし、信の門を叩く時
仏は慈悲の涙を注ぎ、その門を開き
あなたを抱きしめてくれる
この涙の目と目が合う時に
互いににっこりと微笑みに入る
それからあなたはこの微笑みの内に生き、死を迎える

苦しみある者は幸いなり
永遠の安楽に近づく縁を有する
人生の運命に何の苦痛も感じず
何の悲観も感じない者は
終世、世の酒に酔う
死に至り酔いからさめ苦悩する
(苦悩は早いか遅いかで、必ず実感せねばならないのですね)

人生の運命に苦しみ悩む者は
やがてこれを縁として、大慈悲の仏を求め、終りに大信を得て
笑って門を出る快を得る
この快は万世不渇の泉よりあふれる快味なり

苦しみある者は、苦しみによって
世の一切に頼れぬことを知ったら
「私に頼め!助けるぞ!」と本願された仏に頼れ
今までは冷ややかと思う世に
暖かなる趣を味わい得る
真の世に入る

苦悩とは、その苦味がそのまま甘味となる妙法にふれる縁



信仰の模倣は迷い救われない。廻向【如来の功徳を与えられる】信仰に安住せよ

2022-03-12 13:39:15 | 日記
■信仰上、模倣は死である
けっして真物を造れない
異安心が養われ
けっして自分の中心は救われない
模倣しようとして模倣できないと思い悩むに至っては愚も甚だしい
これが自力の迷い

信仰体験を語り、それを聞くというのは自力信仰の趣あり。人の信仰体験を聞いてこれを羨み、これを模倣できないからといって嘆かなくていい
法談は人の私見が交わらない、法を顕している
法談聴聞は、人の信仰談話を聞くと思うのではなく、如来の大法、如来の真言を聞くと思うべし

人の信仰体験を聞くのは
救信の念を起こす導きではある
だが、自ら信に入る道にはならない

■仏陀は信仰に入る道を示した
「其の名号を聞いて
信心歓喜し
乃至一念せん
至心に廻向したまえり」

入信の道は
大法を聞くにあり
名号を聞くにあり
本願を聞くにあり
仏陀の大慈悲力を聞くにあり

法の真実を聞く時
自然に法徳として心中に発起し来たるもの、これを廻向の信心という
【廻向・展開、変化、進む
自分(如来)が積み重ねてきた功徳を、相手(凡夫)に振り向けて与える】

花の蕾を外部より手を加えて咲かそうとするな。春風の暖かさに内から開くのを待てよ

人の入信の跡を聞き、自らこれと同じ信を造りだそうと焦り、これを得ることができないと思い悩むのを止めよ
如来の慈光に接触して、自然の開花を待つべし
各各個々性の上に真正の信仰を味わい得ば、仏陀と同行の喜びは
法徳として自然に来たる

信仰は活きた霊用
人身が作るのではない
本願力の強さを聴聞すべし
甚深微妙の仏智を愛楽すべし

他力信仰は我ら自身の発起ではない
如来の本願より発起する
如来廻向の大信心に安住し
信楽を獲得する
これは如来選択の本願より発起する