■越後の土地神怒る
城太郎助長は越後守を任ぜられた御恩をありがたく思って、木曽義仲追討のために三万騎で6月15日に出発
翌16日午前6時、出立しようとしたところ、夜中頃に、急に大風が吹き、大雨が降り、雷がたいそう鳴った
天が晴れた後、大空にしゃがれ声で
「盧遮那仏を焼き滅ぼした平家の味方をする者がここにいる。召し捕れや」と三声叫んで通った
城太郎は「武士たる者がそんな事に従うわけにはいかない」と、城を出た。すると十町ほど行ったところにに、黒雲が一群立ってきて、城太郎の上に覆いかぶさると見えた
城太郎はにわかに身がすくみ、心がぼんやりして、落馬してしまった。輿に乗せ、館へ帰り、臥してから6時間ほどで、とうとう死んでしまった
■平家の祈願を神仏は聞き入れず
7月14日、年号改まり【養和】となった
★8月7日、太政官庁で大仁王会が行われた(平将門追討の時の前例)
9月1日、鎧・甲を伊勢神宮に差し上げる(藤原純友追討の前例)
勅使・中臣定隆は都を出発して、甲賀あたりから病にかかり、伊勢の離宮で死んでしまった
★平家謀反者調伏の五壇の法が行われた。それを受けもった大阿闍梨覚算は、寝たまま死んでいた
神仏は調伏の祈りを聞き入れない
■平氏側から「朝敵調伏祈願」を頼まれ「平家調伏祈願」を行った阿闍梨の幸
★大元の法の修法をされた実玄阿闍梨は、修法が終わって御巻数(読経の部数、回数などを記し施主に贈る目録)を朝廷に進上した。官人が開いて見ると「平氏調伏の由」と記してあった。理由は【朝敵を調伏せよと仰せ下されました。平家が朝敵なので調伏しました。何のお咎めがございましょう】だった
実玄は死罪か流罪だったが、さまざまな事件が沸き起こり、うやむやになり何の沙汰もなかった
源氏の代になってから、源頼朝は殊勝であったと関心され、大僧正にされた