るるの日記

なんでも書きます

嫦娥影清らかなり

2022-03-04 16:00:19 | 日記
困難ある時

心配ある時

気のふさぐ時

腹の立つ時

我を救い

我を楽しめ

我を健やかにし

我を喜ばしめるものは

酒にあらず

煙草にあらず

詩歌にあらず

音楽にあらず

母にあらず

友にあらず

あぁ、我に南無阿弥陀仏あり

これを信じ

これを祈り

これを称ふれば

万里雲晴れて

嫦娥影清らかなり

・嫦娥→月



平家物語は誰が作ったか「慈円と行長入道と盲目法師の合作」

2022-03-04 14:24:13 | 日記
平家物語の作者

■徒然草の226段の記載
「信濃前司行長が出家し、行長入道となってから平家物語を作り、盲目法師に教え語らせ、これを今の琵琶法師は学んだ」

「物語は比叡山のことを詳しく書く
武士の事、弓馬の技は、東国武士に問い聞き書く」

■徒然草は1330年頃かかれた。平家物語が作られてから100年後である

■信濃前司行長とは?
★中山兼時の孫
★中山行隆の子
★法然第一弟子・信空(法蓮)の弟
★慈円の兄、九条兼実の家司

行長はようやく殿上人になれるという中流以下の公家で、わずかに誇り得たのは「舞のほまれ」だっが、その唯一の特技を示す場で失敗を演じたゆえに、心憂いて失脚した

■行長を拾いあげた慈円とは
★天台座主に数回任じ
★貴族仏教界の最高地位の高僧
★兄は関白・九条兼実
★歌人として一流
★歴史に造詣深い
★愚管抄を著した文学者

慈円の庇護のもとに、末流公家文学者と、東国出身の庶民芸能人(盲目法師)が結ばれ、平家物語は成立した
行長が地方官であったことで、眼が京都に局限されることなく、武士の生態にも共感を持つことができたし、出家したことで公家社会から解放されたことで、社会の不満は強くなった



■尊卑分脈
行長の従兄弟・時長は、平家物語の作者と記されていて、徒然草の行長は、時長の誤りとする説あり

■行長・時長の叔母

一人は
安徳天皇乳母の典侍
一人は
建春門院の女房

行長・時長の周辺には平氏と関係が深い人々がいた



平家物語第一巻・日本全国の武士が朝敵となる【完】

2022-03-04 13:14:30 | 日記
養和2年5月24日年号を改めて寿永と号した

10月3日
都では
平家は敗戦を問題にもせず
平宗盛(清盛三男)は内大臣になる
7日祝賀会が行われた

東国、北国の源氏が一斉に今すぐにでも、都へ攻め寄ろうとしているのに、知らぬふりで華やかな行事に日を送っていた。何も言う甲斐もないような憐れな人々である

寿永2年になった
儀式、祝賀は例年通り行った
諸事を司るのは、平家内大臣宗盛

2月22日
宗盛は従一位になる
すぐその日、内大臣の辞表を出す
兵乱の責任をとって謹慎するためということだった

なぜなら、、

南都北嶺の衆徒、熊野や金峰山の僧徒、伊勢神宮の祭主・神官に至るまで、すべて平家を背いて、源氏に心通じていた

平家は「平家謀反者追討」を、四方に天皇の宣旨として下し、諸国に院宣として下しても、宣旨も院宣もみんな平家の命令と心得て、従う者はいなかったのである



平家物語・平家滅亡の時機が近くなると、神仏自ら平家調伏に動く

2022-03-04 12:42:14 | 日記
■越後の土地神怒る
城太郎助長は越後守を任ぜられた御恩をありがたく思って、木曽義仲追討のために三万騎で6月15日に出発
翌16日午前6時、出立しようとしたところ、夜中頃に、急に大風が吹き、大雨が降り、雷がたいそう鳴った

天が晴れた後、大空にしゃがれ声で
「盧遮那仏を焼き滅ぼした平家の味方をする者がここにいる。召し捕れや」と三声叫んで通った

城太郎は「武士たる者がそんな事に従うわけにはいかない」と、城を出た。すると十町ほど行ったところにに、黒雲が一群立ってきて、城太郎の上に覆いかぶさると見えた

城太郎はにわかに身がすくみ、心がぼんやりして、落馬してしまった。輿に乗せ、館へ帰り、臥してから6時間ほどで、とうとう死んでしまった

■平家の祈願を神仏は聞き入れず

7月14日、年号改まり【養和】となった

★8月7日、太政官庁で大仁王会が行われた(平将門追討の時の前例)
9月1日、鎧・甲を伊勢神宮に差し上げる(藤原純友追討の前例)
勅使・中臣定隆は都を出発して、甲賀あたりから病にかかり、伊勢の離宮で死んでしまった

★平家謀反者調伏の五壇の法が行われた。それを受けもった大阿闍梨覚算は、寝たまま死んでいた

神仏は調伏の祈りを聞き入れない

■平氏側から「朝敵調伏祈願」を頼まれ「平家調伏祈願」を行った阿闍梨の幸

★大元の法の修法をされた実玄阿闍梨は、修法が終わって御巻数(読経の部数、回数などを記し施主に贈る目録)を朝廷に進上した。官人が開いて見ると「平氏調伏の由」と記してあった。理由は【朝敵を調伏せよと仰せ下されました。平家が朝敵なので調伏しました。何のお咎めがございましょう】だった

実玄は死罪か流罪だったが、さまざまな事件が沸き起こり、うやむやになり何の沙汰もなかった
源氏の代になってから、源頼朝は殊勝であったと関心され、大僧正にされた