るるの日記

なんでも書きます

仏の智慧と感応したよ~無明と明の本体は如来で、人とは如来に必要な修行器だったんだ

2022-03-29 16:33:24 | 日記
■人の意思が介入できないこと
生まれ、生き、死ぬこと
血流、鼓動、消化、眠る、醒める
宇宙の運行、、、それらに人の意思は入れない

■思いは自分の意思か?

思いには感情と理性がある

感情は自我に縛られ
自我は煩悩に縛られ
煩悩は宿業に縛られ
宿業は無明から発生

🔶感情は束縛されている

🔶理性は仏に計らわれている

どちらにしろ本当は自分の意思は無いのだが、この器には無明から流れてきた感情が脳と合わさり思考し、再び無明に戻って薫習される用を為す

それに計らいの働きを為すのが如来他力

■なぜ如来他力は計らうのか?
無明の本質は如来自体だから
無明とは明が無い状態の如来
無明も明も一体
如来は如来自体を整えたい欲求がある

■なんのために如来は無明と明を持ったのか?

智慧にはいろんな体験が必要だから無明を知らなければならぬ
そのために、一旦闇に堕ち再び明を取り戻す修行をしているのだ



    

親鸞を知る「親鸞と法然の出逢いは【如来のはからい】としか思えません」

2022-03-29 14:40:13 | 日記
建仁元年3月14日
法然の吉水の庵

29歳の親鸞は深い悩みと不安を抱いて
69歳になる法然の前にひざまずいていた
心砕け、傷ついている親鸞は、念仏に帰している法然の柔和な態度と、比叡山にたむろする誇りと慢で満ちた僧とを比べずにはいられなかった

親鸞の苦悩一つ一つに法然は肯定した。それは法然自身が通った道だったからだ。親鸞は自分の苦悩そのものを肯定してくれるというだけで、すでに有り難かった。機縁で逢う善智識とはまさにこれを言うのだ。比叡山に居ては決して出逢うことは出来なかった

次に法然は親鸞に苦悩の解決方法を伸べた。その法然の言葉は種子が土に落ちるように自然に、しかも的を得て親鸞の痛苦にぴたりとはまった
法然の方もこの自然さと必然性を、二人の機縁の熟成だと感じた

浄土宗信仰
凡夫直入の信心
無条件無一物の救済
絶対他力の往生
を親鸞は勇猛徹底した機根をもって、たちどころに決定した

親鸞が苦悩し安心立命の道を求め初めた時が決定の初めであり、一刹那に出来たのではない
浄土宗から見れば、道を求め初めたのがすでに如来のもよおしであり、それから20年のさ迷いも如来のはからいであり、決定の信も如来の賜りである。如来の救いの手はその初めから加わっていたのである



親鸞を知る「ルルよりも、念仏を信じていなかった頃の親鸞」

2022-03-29 13:48:30 | 日記
■理想
念仏は思想ではない
一切の思想を捨ててしまった世界に
智慧の世界の南無阿弥陀仏がある
無はすでに言葉がない
安心立命に一切の思想は役立たない
とはいっても

■現実
四六時中、心の妄想、雑念は休息しない。抑えつけても、、もう無理
私と同じように、親鸞の心の焦燥はここから来ていた
「悪性さらにやめ難し、心は蛇蝎のごとくなり」
蛇蝎→へび、さそり。人が非常な嫌うもの

■自力では無理だと認めましょう
人間の「生」そのものが、すでに恐ろしい業の成就である。生存の根本必須条件が「悪業」である。その上でどうこね回してみても、知れたものである、、無理
この事実をまず素直に認めましょう
この業の報いを認めず、幸せや平和になれるとしたら、それは公平でも正義でもない
自らを幸福に平和にするためには、まず自らの恐るべし悪業を認めて、慚愧し、懺悔し、あまねく同胞を眺め、共存同慈悲の心をもって
念仏申すようになればいい

🔶このような思いになることが出来るのは、法然や親鸞によって浄土真宗的の反省が目覚めたからである。それ以前の宗教は心を清浄にし、理を観ずる聖道の教行であった
難行

■これが如来のはからい
さて、親鸞は「生死出離安心立命」の道が比叡山に居ても到底満たされないことを知り、心痛のあまり頂法寺の六角堂に百日の日参をして、夜な夜な如意輪観音に祈願をこめ、明け方になって三里半ある比叡山まで帰った

95日目の夜、親鸞は疲れてうとうとしていると、「末代出離の要路はただ念仏」という声を聞いた、、、、ように思った
ハッと思って目をさまし、明かりを灯した親鸞は、じっと如意輪観音を見た。すると忽然と心の奥あたりから、光明がさして来るように感じた

翌朝、親鸞は比叡山に帰る途中、はからずも安居院の聖覚法印に出逢った。聖覚法印から吉水に法然上人という善知識が念仏を弘めていることを聞いて、親鸞は不思議な思いになり、急いで山を下って吉水に法然を尋ねた
親鸞29歳



親鸞を知る「逆さまな娑婆世界だから、愚かにならないと何事も始まらないような気がする」

2022-03-29 12:48:15 | 日記
親鸞
■承安三年(1173年)4月1日
山城国宇治郡醍醐村日野で生れた
幼名松若丸

父は日野有範
源頼政が平氏追滅を企てたとき、それに加わって戦死した。母もその数日前に亡くなった
母は源氏の出で吉光女という
俗姓(素性)は藤原氏

ということになっている

【たとえ親鸞が日野家の出でなく、平民の子であったとしても、そのために親鸞の価値が減じはしない】

■松若丸は9歳で叔父につれられ青蓮院へ。僧正道快によって得度剃髪
法名を範宴と授かった

【これは両親が死に、家運も衰え、生計も思うに任せず、叔父が出家させたのであろう】

■親鸞は比叡山で学ぶことになった。天台教義に関する親鸞の造詣は甚だ深かったので、熱心に聖教を読み研学したことだろう
しかし比叡山での親鸞は平凡な一堂僧に過ぎなかった。人からは目もかけられず、地道に研学し、修道しながら20年間を過ごした

心ある少数者は真剣に修道していたが、当時の比叡山は堕落していた。位階を喜び名利を求める僧、乱暴する僧兵。生死の一大事を忘れ、現世利益の祈祷ばかり、、といった具合
比叡山は世間
天台宗教団は俗界
だから山を下りて静かに道を求めようとする者を【隠遁】と呼んだ
(交わりを断って俗世間から逃れて暮らす)
【法然も俗世間化した山を下りた】

■親鸞は法然と異なり、その生涯は華やかではなく、光栄あるようなところは少しもない
親鸞の伝記を華やかに書き直すことは冒涜である

幼少の時から命終まで、なめつづけた痛苦は、現実的で深刻だった。それでも生きてきた親鸞を思えば、親鸞の生涯を華やかに色づけさせてはならぬのである

■正面から本格的に堂々と進んでいくには、どこかに愚直なところが要る。それは頭の力で出来るものではない。法然も親鸞もこの「愚」というものの尊さを知っていた

愚かにならずに念仏できるのか?
愚かにならないと始まらない気がする





親鸞を知る「親鸞についての確実な資料は少ないので、感応で感知する」

2022-03-29 11:40:46 | 日記
親鸞については、確実な資料は実に少ない。親鸞は実在しなかった説まで唱えられたが、親鸞の筆跡や真像等の存在することが確実となり、親鸞の実在については疑う余地は無くなった。しかしその事跡(行った事)については明らではない

親鸞の伝記で一番古いものは
親鸞滅後33年に書かれた
覚如上人の「親鸞伝絵」
これは伝説的物語として書かれたものとみえて、そのまま受け入れないが、その後に出た多くの伝記は、親鸞伝絵を基本にして書かれたもので、親鸞の生涯はこの書にたよるしかない
また、伝説には人間の本質がかえって一層よく現れる事もある。古事記や日本書紀が日本民族の特色と、歴史的使命を最もよく現しているように