るるの日記

なんでも書きます

死後地獄には堕ちない程度の善人であると誰もが思っているが、、その根深さを知らない

2022-03-05 16:31:34 | 日記
誰もが自分の罪は、ほんのわずかで、死後はいくらなんでも地獄には堕ちない程度の善人であると思い込んでいる。。しかし、小さな草の芽のその根が、深く、広く張るように、私たちの罪もまた同じである
その罪は法律の鍬には当たらないにしても、その根は深く、広く張っている。。

仏はこれに胸をいため
救いの声をあげている

善人であると思い込んでいる私たちは、その底にひろがる罪の深く、広がる根に気づけない

私たちは真実に反する見解を持ち、物事を逆さまに見ているので
罪を罪だと認識しない

世の罪や自分の罪を語るとき
人は罪に馴れる
また事細かに罪を沙汰していく時、は大きな罪を忘れる

物事を正しく見た時に、自分だけが自分の罪を強く、細かに、明らかに感じつつある。。
これは辛く苦しい
真実に反する見解をもって生きた方が楽だと再び、逆さまに生きようとしても、、後には戻れない

だから、、だからこそ
仏の声が耳にあり
仏の右手が胸にあり
仏の左手に醍醐を授けようと
準備されているのです


戦争を終わらせる呪「新月に毒蛇」

2022-03-05 15:41:10 | 日記
我を殺せ
国を亡ぼせ
婆羅門の神、シバよ
霊あらば汝一閃の火
欲より成りしこの六合を焼き尽くせ

功名よ、利達よ
苦の種つきぬ人類を
殺戮し尽くせ、マーラーカーラよ
学校よ、軍隊よ、戦争よ
国土焼け、燃やせ、アナラよハラよ
その灰に身をあたためよう

愛に迷う
我を殺せ
世を焼き払う
我を殺せ
小なるこの身を殺せ
汚れしこの世
焼かれて足れり
笑って死のう
この胸を刺せ
喜び燃える
この世火にせよ

我、我を刺そうとするたび
しかもその剣なきを嘆く
我、我が世を焼こうとするたび
しかもその火なきを憂う

黒面の神、シバ
額に新月、頚に毒蛇
その三つの眼に火の矢を射よ

ああ汝は我が力、我が光
殺戮者、破壊者、業火の炎
火神パイラーパー



真宗の僧侶による日蓮像「自分を賛嘆できない僧侶は、仏法に対して傲慢である」

2022-03-05 15:09:30 | 日記
真宗大谷派・暁烏敏(あけがらすはや)の日蓮上人論

★主義の人

★自重の人
「法華経を弘める者は日本国の一切衆生の父母なり。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅宗・真言師等の師範なり。又君主なり」
このための自重(自分の振舞に気をつけ品位を保つ)ができて、始めてこの確信あり。日蓮上人は世の一切に頭を下げなかったけれども、法華経の前には低頭した。日蓮上人は宇宙の根本義を説く法華経を拝した。ゆえに日蓮上人が狂気のように自賛するのは、傲慢なのではなく法華経を信じる篤きによる。日蓮上人が自ら賛嘆するのは、法華経を賛嘆すること
今の金、人、位に頼って自己を賛嘆する人は、日蓮上人の自賛の真意は知らない
親鸞も「如来の御代官を申しつるばかりなり」と言われ、自賛している
自賛ない人は仏法の前に傲慢な人である

★鋭刀の人
凡人、これを持てば自ら傷つくことあり

★薔薇の人
棘はあるが、その花は華麗にして、香りは美なり

★改革の人
日蓮は猛然と「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」の格言を発表し、身命を賭けて宗教を破滅しようとした。政府とも争った
日蓮は大胆、勇敢、凛冽(厳格)、峻峭(厳しく酷い)にならなければならなかった真意は、、

★今の世に日蓮あれば
「念仏無間、題目阿鼻、真言亡国、禅天魔、キリスト教国賊」と叫ぶだろう
※外国資本に頼って宣伝する、我が国のキリスト教徒は国賊あらずして何ぞや

※三密加持を利器として、現世祈祷に余念なき今の真言は、国を滅ぼす者にあらずして何ぞや

※口に題目を唱えながら、題目の内容を知らず、衆徒らに宗祖の言葉を真似してその真意を知らず、妙見や稲荷を祀り、安産難病の加持を行う、今の日蓮宗は阿鼻に堕せずして何処へ行くべき

※念仏を称えながら信心なく、信心を勧めながら弥陀の慈悲を知らず、悪人正機を盾にして罪悪に余念なき今の念仏者は、無間に堕せずして何処へ行く

日蓮去って600年、今一人の日蓮あるか。大破壊をもって宗風とする血涙ある宗教を宣伝する者はいないのか
血をもって世を洗う改革者は出ないのか
日蓮上人の精神は永遠なり。必ず天の一方よりこの改革者起こらないかな


仏の口はあなたの耳にあり

2022-03-05 14:00:52 | 日記
眠るのが好き
起きて妄念に乱されるより
眠って無心の境地にいたいから

仏の教えによれば、眠るは菩薩の行を怠る事であり、多く眠るは不徳である。眠を貪るは罪悪である

そのように知っても
多く眠るという悪から去り難い
自らの過ちを知るといえど
改めるのは難しい
智恵の誤りは改め易く
習慣の誤りは改め難い

信心の眼を開き、仏心を見奉るを得れば、日の光は仏の光明に縁し私を照らす。そして眼を覚ました刹那「起きて働こう」と一念が生まれ
体も動くのであった
そこには何ら自分の計らいはない

そして「あら、不思議」と計らいなしに信に入るのです

仏の頬はあなたの横にあり
仏の口はあなたの耳にあり
仏の左手はあなたの胸の上にあり
仏の右手はあなたに与える醍醐を持つ
覚めよ!覚めて共に醍醐を受けよう
光はあなたの働く所に満ちわたる




あら不思議と信じることに計らいなし

2022-03-05 13:29:24 | 日記
愚かな私は
喜ぶを信仰と思い、泣くを信仰と思うような、あさましき身である
「感動で涙落ちることは、信が起きていることだ」というのは、戯言である。疑を除くを信と申す

愚かな私は知るを信と思い、覚えるを信心と心得る。これはあさましい思いである
知るというのは計らいである
凡夫の計らいで仏を知ろうとする、あさましさよ
「ただ『不思議』と信じることは、計らいはない」
計らいをもって仏に向かう者は
船の内にいて、船を押すに等しい