誰もが自分の罪は、ほんのわずかで、死後はいくらなんでも地獄には堕ちない程度の善人であると思い込んでいる。。しかし、小さな草の芽のその根が、深く、広く張るように、私たちの罪もまた同じである
その罪は法律の鍬には当たらないにしても、その根は深く、広く張っている。。
仏はこれに胸をいため
救いの声をあげている
善人であると思い込んでいる私たちは、その底にひろがる罪の深く、広がる根に気づけない
私たちは真実に反する見解を持ち、物事を逆さまに見ているので
罪を罪だと認識しない
世の罪や自分の罪を語るとき
人は罪に馴れる
また事細かに罪を沙汰していく時、は大きな罪を忘れる
物事を正しく見た時に、自分だけが自分の罪を強く、細かに、明らかに感じつつある。。
これは辛く苦しい
真実に反する見解をもって生きた方が楽だと再び、逆さまに生きようとしても、、後には戻れない
だから、、だからこそ
仏の声が耳にあり
仏の右手が胸にあり
仏の左手に醍醐を授けようと
準備されているのです