るるの日記

なんでも書きます

自力作善心「念仏にわが計らいを加える心」そうでないつもりでも、そうなってしまっている

2022-03-25 15:33:45 | 日記
細の定心
念仏にわが計らいを加える心
如来から賜わる念仏に「こうして念仏を称えれば救われるのだ」などとわが計らいをさしはさむ
最も微細な計らいで最後にならないと気づかない
「他力信仰によって私の善根を育てる、、などと申す念仏は自力」

自分ではそうでないつもりでも、そうなってしまっていることは、まことに畏るべきことである
そのとき有り難き光明の因縁により
その己の姿を知らされると共に
身も心も南無阿弥陀仏となりえる
、、これは自力か?他力か?

念仏は行者のために非行・非善なり
わが計らいにて行ずるに非ざれば
非行という
わが計らいにてつくる善に非ざれば、非善という
ひとえに他力にして自力を離れたる故に、行者のためには非行・非善なり

自力の計らいが除かれたのは結果であって、そのときの意識面の事実としては、ただ同じ念仏を称えていたに他ならない
みなその念仏のお力だった

自力作善心「精神統一を欲する心」

2022-03-25 14:40:02 | 日記
■定善心
精神統一をする三昧心は、信仰の無い場合には慰安になり、無限の喜びを感じさせてくれる。そしてこれを続けていけば「本当に救われた境地」に達するように思わせてくれるが、実はそれほどでもない
塵に満ちた意識に、小さな安楽の地を作るのだから、三昧心で始末のつかない業は遠慮なく涌いてくる

無明業障の根を断ち、信仰の開かれたときは、三昧は光を失い、三昧に興味が無くなる。心に太陽が登るからだ
ところが信仰の喜びが薄れていくと、再び三昧心が動き出す
信仰によって心の本質は変わり、すでに信仰でなければ満たされぬようになっているので、この三昧心が元のままの形で動くと必ず矛盾を感じる
それで三昧心は、念仏を喜ぶ助縁という従属的位置におさまることになる

■矛盾問題
信仰と学問の関係には、矛盾する問題がある。学問に向かう心を反省してみると名利とつながる。学問は分別である。信仰上は棄てなければいけないように思うが、実際は棄てることができない
名利ばかりではなく、定心が生きているからだ。学問によって三昧が体験できるのだ

そこに与えられたのは「念仏の助業」として活かされる道だった
法然上人から
「一念三千の理(法華経)も念仏の助業としてなら為してもよい。為さぬに越したことはないが」のおうせを受けた
そして念仏の心に立ちつつ、精神統一をすることが、念仏を喜ぶことに必要のように思った。その時は煩悩が多少始末されていたので、幾分かは念仏を喜ぶ助縁になり得た

しかし、助縁あることは隔たりがあること。助縁が必要だと思うのは自我の計らいで、信仰にそれが混じる故に真の喜びとは隔てられている

この定心は歎異抄三節、十三節を読んだとき、除かれた
「法は妙なれども機が及ばねば力無し」「全く自見の覚悟をもって他力の宗旨をむさぼることなかれ」
二つのおうせを聞いたことが直接の機縁になって【定・三昧・精神統一】が要らなくなった
定の自力心こそは・浄土まいりには及ばぬ機であって、大慈悲によって迷いを醒ましていただかねばならなかったのである
この事については後にもう一度書きたいと思う





自力作善心「仏教的道徳心による厭離心の発生」

2022-03-25 12:19:22 | 日記
仏教的道徳心【厭離心】

自他との世間的な存在関係を見る
その意識そのものが、迷いである
ということが知られ
世間的善心がすべて虚仮不実であることがわかって
貪瞋癡邪義に満ちた自分の煩悩具足の姿が見えてくる

そこで「たまらない、、」という思いを持つのが【厭離心】である
信仰のない場合に、これが表面に出てくると、自己破壊をされるばかりだから、ごまかすことも必要
ごまかすことができなければ遂には自殺に行くより他はなくなる。芥川龍之介の死の前の心境にはそれがあったように思われる

信心の中にこれがまじっている場合は、今まで世間的生活に向いていた心が転じて、唯念仏の一道に向かうようになる
周囲の人や組織に対しては、煩悩具足の邪義に満ちた自分を、念仏の道に進ませてもらう助縁として受け入れていくようになり、また受け入れようとする

縁ある人は、自分の欲を満たすために縁があるのではなく、社会も自分の名利を満たすためにあるのではなく、只自分が念仏して救われていく助縁として受ける存在

■なぜ、そんなに救われたいか?
信仰をいただいたら、細かな煩悩気づいてしまい、それに悩まされ、喜びが出てきたときでさえ、「自分は喜んでいる憍慢」と悩まされ、この始末できぬ煩悩についての痛心を厭離心が伴う
この痛心厭離心そのものが己の雑毒であって、如来大慈悲をもって救っていただくより他はないのである

この痛心厭離心が消えたのは、ある因縁があって、歎異抄三節と十三節を身読したときからであった。そのときから善悪の念が消えて、煩悩具足の自己に気づくたびにすぐ他力の本願を仰ぐことができるようになった

煩悩は厭離するものではなく
如来の御慈悲を喜ばせてもらう
助縁になり、遠くの浄土を欣求する心も消えて、そば近くにおいでになる大慈悲を頂くばかりになった
「他力の悲願は、私のため」と
頂くところに信心の要がある

自力作善心「世間的道徳心と責任感・義務感」という迷い

2022-03-25 11:33:41 | 日記
自力作善心

■世間的道徳心
必ず愛欲・名利の念と相対する

自他の存在を肯定し、その関係のなかで、身・口・意の三業の悪をやめて、善になろうと意識する
廃悪修善心

廃悪修善心だけをとりだしてみれば、善い世間的人間関係をつくるために成り立っている
善い人間関係を意識することが、すでに迷妄であり、善い人間関係を想像して、自分の内にわく楽しさや嫌悪、善悪も迷妄で、とりとめなく迷妄することになる

信仰をいただくと、他力信心の中に人間関係の廃悪修善が設定され、心全体は信仰の喜びに向く。悪に気づくと、如来の前に廻心懺悔。信仰の喜びが回復され喜び、善心が芽生えることに喜び、如来に感謝する

■責任感
責任感は確かに善心だが
裏には「地位を思う」意識に結びつくことがある
信仰の世界には地位は存在しない
みなが煩悩具足の凡夫
それを忘れて瞬時でも「地位を思う」のは、己の名利相対する幻
その上に出る責任感も義務感も幻
念仏の世界には如来の大慈悲があるのみで、責任感や義務感は無い

現世の人間関係を意識するならば、その意識自体が「愛欲の海に沈没し、名利の大山に迷い惑う」姿である。だからそこから出てくる一切の善心はみな幻、不実、邪偽
しかしそれに気づかないところに自力心が働いている

自力について「自我を愛し、自我にたより、自我に囚われ、自我の真相を知らない」

2022-03-25 10:54:43 | 日記
自力心とは
自分に値打ちをつけたい我愛
自分をたのみとする我慢
自分の真相を知らない我癡
自分の考えに囚われる我見

自分の悪に気づけば、それをやめて善くなりたいと欲する。それで絶えず善し悪しに囚われ、善くなれないと思っては悩み、悪がなくなってきたと思っては喜ぶ
修善を志すことが信仰の行のように思えてならない
これが【自力作善心】【定散心】

こうした心が一杯満ちている中で
念仏を称えさせてもらうが、如来の本願を仰ぐ心に成れていないから、喜び少なく、甚だサッパリしない
義務の念仏


「仏恩を念報することなし、業行を作すといえども心に憍慢を生じ、常に名利と相対するが故に、人我自ら覆うて同行・善知識に親近せざるが故に、好みて雑縁に近きて、往生の正行を自障障他するが故に」

自力心を持っている私は
いろいろな葛藤をやるわけです
自分の中の悪業人は、念仏に救われたことを喜ぶが
自分の中の自力人は、まだ我を張って威張っている。自分を善くしたい、善く見られたい。自分は愚か者ではない。憐れみなんかいらない。同情はいらない。
この迷い心は、無始以来具足し、根が深く、自分で取り除けはしない

念仏は、悪業人のみが救いを必要とするのではない。この現世でわく迷い心を具足した凡夫めあてに賜わっているのだ

自力心が「迷い」と気づかされ、自力心の「身のほど知らずのあさましさ」に気づかされたとき
「南無阿弥陀仏」におまかせするしかなくなる
そうなれば自力の執心が棄たり、自力の執心を棄てていただけた弥陀の御恩を喜ぶ心一つに定められる

自力の心が棄たり切るから、自分のすべては死にきって、ただ念仏になる
念仏は真如の海。凡夫の心水を、功徳の潮に転化する