■定善心
精神統一をする三昧心は、信仰の無い場合には慰安になり、無限の喜びを感じさせてくれる。そしてこれを続けていけば「本当に救われた境地」に達するように思わせてくれるが、実はそれほどでもない
塵に満ちた意識に、小さな安楽の地を作るのだから、三昧心で始末のつかない業は遠慮なく涌いてくる
無明業障の根を断ち、信仰の開かれたときは、三昧は光を失い、三昧に興味が無くなる。心に太陽が登るからだ
ところが信仰の喜びが薄れていくと、再び三昧心が動き出す
信仰によって心の本質は変わり、すでに信仰でなければ満たされぬようになっているので、この三昧心が元のままの形で動くと必ず矛盾を感じる
それで三昧心は、念仏を喜ぶ助縁という従属的位置におさまることになる
■矛盾問題
信仰と学問の関係には、矛盾する問題がある。学問に向かう心を反省してみると名利とつながる。学問は分別である。信仰上は棄てなければいけないように思うが、実際は棄てることができない
名利ばかりではなく、定心が生きているからだ。学問によって三昧が体験できるのだ
そこに与えられたのは「念仏の助業」として活かされる道だった
法然上人から
「一念三千の理(法華経)も念仏の助業としてなら為してもよい。為さぬに越したことはないが」のおうせを受けた
そして念仏の心に立ちつつ、精神統一をすることが、念仏を喜ぶことに必要のように思った。その時は煩悩が多少始末されていたので、幾分かは念仏を喜ぶ助縁になり得た
しかし、助縁あることは隔たりがあること。助縁が必要だと思うのは自我の計らいで、信仰にそれが混じる故に真の喜びとは隔てられている
この定心は歎異抄三節、十三節を読んだとき、除かれた
「法は妙なれども機が及ばねば力無し」「全く自見の覚悟をもって他力の宗旨をむさぼることなかれ」
二つのおうせを聞いたことが直接の機縁になって【定・三昧・精神統一】が要らなくなった
定の自力心こそは・浄土まいりには及ばぬ機であって、大慈悲によって迷いを醒ましていただかねばならなかったのである
この事については後にもう一度書きたいと思う