🔶三願転入の説は、親鸞聖人が全生涯の信仰的歩みの三つの時機
(1)定散自力の念仏の時機
(2)果遂の誓い帰入の時機
(3)真如門転入、以後
★一面には、親鸞御自身の信仰経路の告白
★一面には、弥陀の誓いが衆生の上に顕れていく経過を明かした
それは大抵の人の上に、同じように顕れてくるので、その説が真実なことが検証可能
【定散自力の念仏は、果遂の誓いに帰してこそ、教えざれども自然に真如の門に転入する】
■定散自力の念仏
★まだ他力(仏の大悲)が信受されておらず
廻心(心改め邪から正に入る)以前の境地
★果遂の誓い帰入
自分には仏の大悲が流れているという教えに遇って、次第に仏の慈悲に感応され、迷いの境地から引き上げられ、やがて大悲を信受せしめられるような【事情(体験)】により熏醸されつつある時
体験は三つの要素がある
★罪悪感、生死の悩みが色濃くなる
同時に無常を思う
罪悪感が深くなり、現実生活を肯定し得なくなってくると「後生の不安」が素直に出てくる。地獄の畏れである。罪悪感がつきつまるとこれが出てくる
そして現世の幸福を追う生活から心が離れて、ひたすらに罪障を消滅する道が求められる。それによってのみ後世の不安から離れられるのだから
この心は明らかな一つの菩提心。これが起こったときは、すでに生死を離れて仏道に入る一歩は踏み出されている
★それを克服しようとする定散自力の菩提心の起こってくる
これが起こると、罪業消滅の道として、何らかの行を修しようと願う。それに応じて与えられているのが、戒・定・慧の三学。八万四千の煩悩に八万四千の法門がある。そのうちの若干の行が自分の機根と因縁に応じて自然に選ばれる。そうして何かが選ばれたら、その一行をやりぬいてみるがよい。結局はいづれの行も及び難い、煩悩の塊の自己に気づかれることになってくる
いよいよできない姿が見えてきたとなったら、この教えの用は済む
※行は定善と散善に分かれ
【定】→三昧(精神統一)
精神統一して妄念・妄想を斥け、澄んだ心に映ってくる妙境を観じようとする修行
【散】→散動
行動することで煩悩を調伏し、行為を善くしていく修行
【定散心】
悪を憎んで善を欲する心
誰もが自分の本質の中に持つが
我愛我慢と結びついていて、「自分は賢善である」「自分は正しい」という心になっている
自分を善くしたいと欲する奥には
自分は善くなり得るという認識が
無意識的に含まれている
これは自分を罪悪深重煩悩の塊の衆生だとは認めない!とする虚偽を含む心になる
自分の悪を誤魔化すから、仏の大悲は仰がれない
あくまでも【自らが身を善しと思い
身をたのむ】自力心である
ゆえに定散自力心といって、結局これは崩壊していくようになっている
いづれの行も及び難い我が身であり、いづれの行も生死を離れることはないという、自力の果てを知らしめる仏の方便である
だから、罪障度抜をめざした自力の菩提心は、定善にめ散善にも望みを失って、彼岸の光を罪障度脱のよりどころにと求めるようになる
★彼岸の光がほのかにさしてくる
ここに自ら念仏が出るようになる。
一切罪障度脱の彼岸がほのかに願われるようになる
定散自力の念仏との境である
自力の立場はそのまま残っている
自力の心はどこまでも自分を善しとし、自分を善くしたい心である
念仏を称えると
心が鎮まる
ありがたい気になる
怒りがやむ
謙虚になれる
、
、
などを喜ぶ
自己の徳を善くするために念仏を使う。自己の飾りに念仏を使う
そのうちに、いづれの行も及び難き罪障の身ということも次第にはっきりしてきて、その方が強く思われるときは、念仏は彼岸の光を願う便りになる
願う心には二面含まれている
※仏の力にすがる
臨終来迎をたのむ心境
※罪障の責を自己に負う
いつかは罪障は消えるだろう。そのときは救われる
一種のものわびしい安心感
方向は違うが、似た心境であって
これが出ることが念仏本来の徳を受けている姿である
ある人は
「自分は死ということを考えてもそれほど寂しくはないし、また喜ばしいこともない。現在を考えても格別苦しいこともないし、そうかといって、そう有り難いこともない」
と言われた。光と闇の平行したような静かな心境だと思っていたが、やはり念仏を称えておられたのだった