るるの日記

なんでも書きます

ルルの疑問「如来は何に誓願したのかな?如来も信仰していた?」

2022-03-24 15:56:03 | 日記
選択の願海
如来が特に本願として、選ばれた誓いが5つある

★果遂の誓い

★光明無量寿命無量の誓い

★われらに無上仏果を与えようと
必至滅度の誓い

★仏果に至る因を与えようと
至心信楽の誓い

★仏果に至る正行を与えようと
称我名字の誓い

至徳に満たされた如来大悲心の中は
誓いの海だった
真実の信心と、真実の念仏を賜わりし刹那に、この願海の広大な喜びに満たされる

【果遂の誓い】にあったときは、まだ薄紙一重の障りがあった。それは無始以来の定散心(自力心)であった。そして果遂とは何を果たし遂げるかといえば、その薄紙一重の頑固な定散自力心を打ち破ることを、果たし遂げるの誓いであった

選択の願海に転入せしめられたときに、はじめて如来の計らいが知れるのである



如来はすべてを与えようとされるが、人は自力の執心を自然に棄てる時機まで仏を拒む

2022-03-24 15:12:26 | 日記
■定散自力の念仏の境地で、一生を終わる人も多い。それでも一種の
「すくわれ」である
これを【邉地懈慢往生(へんちけまんおうじょう)】といい
邉地懈慢界に住む

邉地とは真実の浄土の、かたほこりの地で、真実の覚りは開かれず、倦怠・憍慢という煩悩に囚われている境地
倦怠・憍慢は自力心の特徴

また、この境地にいるときは死という観念が消えないので、如来の光明は、臨終を介して仰ぐようになり、生きている現世ではまだ三界生死を離れた実感は来ない

親鸞聖人はこの境地を弥陀の第十九の誓いの顕れと味わわれ、この誓いを【方便の仮門】と名づけた
親鸞聖人が比叡山から吉水入室までの時機で、法然上人に遇われてから、この境地を離れられた

■果遂の誓いへの帰入
廻心歓喜から、真の信の決定までの時機。仏の大悲に遇って生死を救われたことを実感すると共に、念仏を賜わる

このとき、如来の方からすべてを与えようとされるが、人の方に自力の執心が残るから、全部を受け切らない
そこに自力の執心が棄たるまでの
成熟【おそだて】が要るのである
法は頓(にわか)で
機は漸(少しずつ導く)である

親鸞聖人の告白文を見ると
「方便仮門を永久に離れた」と、非常に強い調子で言い切ってあり、そこに際立った大転回があることが伺われる

この境地は、最後の真実に達する直ぐ前の門として用意されているものなので、方便門ではあるが、已に真如の一分を得ているので「方便の真門」という

不思議な他力の念仏を賜わって
念仏が「善の根本」「徳の根本」であることが実感され、自然と念仏一行を執って、自然と余の雑善雑行をさし置かさせられる

人の思い及び難い
往生【すくわれ】について
確信が与えられる

こうして「難行を棄て本願に帰する」信仰は定まるが、、

■念仏を修する心に、尚さまざまな
計らいが残っている
親鸞聖人はこの境地を弥陀の四十八願の中の、第二十の誓いと味わわれた「もし果遂しなければ正覚を取らない」の言葉である
この境地に入らせることを【果遂の誓いに帰入す】と名づける

そして「衆生を真実の浄土に往生させることを、必ず果たし遂げる」の願意を述べられている
これは真実の浄土に生まれる因(種)を与えること
真実の信心を与えること

ゆえに果遂の誓いとは
真実信心を与えることを
必ず果たし遂げる
の願意となる

果遂の誓いはどう働くかといえば
「自力の執心を打ち砕く」ことに
働かれる

そうして一切の自力の計らいが棄たって、何もかもおまかせし切れたところが、願海の転入。金剛信心の決定である

■今ここに、方便の真門を出て
選択の願海に転入し
速やかに難思往生の心を離れて
難思議往生を遂げることを欲す

このすぐ前までは、念仏を称えて、如来の光明を仰いではいても、隔たりがあった。往生浄土が約束されていることは疑いはなくても、思い及び難い遠方にあるような感じがして、遠くにあるので、また欣求の心がおこる。欣求の心があるから、往生が遠くに感じられる
これが前の【難思往生の心】である

隔たりがとれると、如来と自己とがまったく溶け合って、どこまでが悪業煩悩の自己やら、どこからが光明やら分からないようになり、往生も一またぎという実感が来る
とても考えようも、言いようもないように往生決定の身とされてしまうのである
これが【難思議往生】である

思って及び難い→難思
思い計りようがない満たされたところ→難思議








自分は善しとし、自分の罪を誤魔化しているうちは仏の大悲は仰げない

2022-03-24 13:35:51 | 日記

🔶三願転入の説は、親鸞聖人が全生涯の信仰的歩みの三つの時機
(1)定散自力の念仏の時機
(2)果遂の誓い帰入の時機
(3)真如門転入、以後

★一面には、親鸞御自身の信仰経路の告白
★一面には、弥陀の誓いが衆生の上に顕れていく経過を明かした
それは大抵の人の上に、同じように顕れてくるので、その説が真実なことが検証可能

【定散自力の念仏は、果遂の誓いに帰してこそ、教えざれども自然に真如の門に転入する】

■定散自力の念仏
★まだ他力(仏の大悲)が信受されておらず
廻心(心改め邪から正に入る)以前の境地

★果遂の誓い帰入
自分には仏の大悲が流れているという教えに遇って、次第に仏の慈悲に感応され、迷いの境地から引き上げられ、やがて大悲を信受せしめられるような【事情(体験)】により熏醸されつつある時

体験は三つの要素がある
★罪悪感、生死の悩みが色濃くなる
同時に無常を思う
罪悪感が深くなり、現実生活を肯定し得なくなってくると「後生の不安」が素直に出てくる。地獄の畏れである。罪悪感がつきつまるとこれが出てくる
そして現世の幸福を追う生活から心が離れて、ひたすらに罪障を消滅する道が求められる。それによってのみ後世の不安から離れられるのだから
この心は明らかな一つの菩提心。これが起こったときは、すでに生死を離れて仏道に入る一歩は踏み出されている

★それを克服しようとする定散自力の菩提心の起こってくる
これが起こると、罪業消滅の道として、何らかの行を修しようと願う。それに応じて与えられているのが、戒・定・慧の三学。八万四千の煩悩に八万四千の法門がある。そのうちの若干の行が自分の機根と因縁に応じて自然に選ばれる。そうして何かが選ばれたら、その一行をやりぬいてみるがよい。結局はいづれの行も及び難い、煩悩の塊の自己に気づかれることになってくる
いよいよできない姿が見えてきたとなったら、この教えの用は済む

※行は定善と散善に分かれ
【定】→三昧(精神統一)
精神統一して妄念・妄想を斥け、澄んだ心に映ってくる妙境を観じようとする修行

【散】→散動
行動することで煩悩を調伏し、行為を善くしていく修行

【定散心】
悪を憎んで善を欲する心
誰もが自分の本質の中に持つが
我愛我慢と結びついていて、「自分は賢善である」「自分は正しい」という心になっている

自分を善くしたいと欲する奥には
自分は善くなり得るという認識が
無意識的に含まれている
これは自分を罪悪深重煩悩の塊の衆生だとは認めない!とする虚偽を含む心になる
自分の悪を誤魔化すから、仏の大悲は仰がれない
あくまでも【自らが身を善しと思い
身をたのむ】自力心である
ゆえに定散自力心といって、結局これは崩壊していくようになっている

いづれの行も及び難い我が身であり、いづれの行も生死を離れることはないという、自力の果てを知らしめる仏の方便である

だから、罪障度抜をめざした自力の菩提心は、定善にめ散善にも望みを失って、彼岸の光を罪障度脱のよりどころにと求めるようになる

★彼岸の光がほのかにさしてくる
ここに自ら念仏が出るようになる。
一切罪障度脱の彼岸がほのかに願われるようになる
定散自力の念仏との境である
自力の立場はそのまま残っている
自力の心はどこまでも自分を善しとし、自分を善くしたい心である

念仏を称えると
心が鎮まる
ありがたい気になる
怒りがやむ
謙虚になれる
などを喜ぶ
自己の徳を善くするために念仏を使う。自己の飾りに念仏を使う

そのうちに、いづれの行も及び難き罪障の身ということも次第にはっきりしてきて、その方が強く思われるときは、念仏は彼岸の光を願う便りになる

願う心には二面含まれている
※仏の力にすがる
臨終来迎をたのむ心境

※罪障の責を自己に負う
いつかは罪障は消えるだろう。そのときは救われる
一種のものわびしい安心感

方向は違うが、似た心境であって
これが出ることが念仏本来の徳を受けている姿である

ある人は
「自分は死ということを考えてもそれほど寂しくはないし、また喜ばしいこともない。現在を考えても格別苦しいこともないし、そうかといって、そう有り難いこともない」
と言われた。光と闇の平行したような静かな心境だと思っていたが、やはり念仏を称えておられたのだった

どうやってルルに如来の光明が届くのか?【読む本の文字に如来が降臨し、私に感応する】

2022-03-24 10:40:31 | 日記
愚痴悪業な凡夫に、どうやって
大信心が、如来の智慧慈悲の光明が、届いて来るのか

ただ、【よき人(善智識)】に遇って、ひたすらその仰せを聞かせていただいたからである

よき人とは
現実に生きている人の場合もあれば
よき故人の文を通じての場合もある
その場合にも最後の瞬間には、故人は生きた人として現れ、如来の化身として自分に向かわれた人になり、姿を見れば人、声を聞けば如来の直説という境地となり、信仰は届いてくる
よき人に向かうこちらの心持ちは、全身的な信頼

こうした心持ちには、自分でなろうと思ってもなれないし、また、なろうとも思わないが、時機が来たとき如来の本願心にもよおされ、この心が発起され、自然と善智識のもとに引き寄せられる
邪見憍慢の者が、そうまでならされる奥には、大きな不思議があるわけである

そうした境地に立ったとき
【善智識は一切種智に入る門】となり、【善智識の中に於いて仏の想を生ずる】のである

念仏は人が求め願うものではなく、如来の方から届けている

2022-03-24 10:10:05 | 日記
迷いと苦しみの中から、如来の本願力に牽かれて廻心に導かれる心的経過には、法則的なものがあって如来の計らいがうかがわれる

そして最後の信心の華が開けば
そこまで至った経過は消えてしまい
ただ念仏の光明海に浮かび出るのだが、
あえて、そこから信仰のいただかれた経路というものを新たに観じてみるとすれば、ひとえに阿弥陀如来の大悲より賜わったと言わざるをえない

求める心に応じて与えられ
与えたのは如来でも
求めたところに自分の力が入っているから、絶対他力ではないが
「ください」と出した手は、つき戻されて、求める心もなかったあげくに賜わった信心は「ただ救ってやりたい」大悲の方から届けられたもので、これが本当の他力廻向