■必死に仏道を求めて出る最後の問いの中の一つを、ある婦人に問われた
「私もみなさんのように、お念仏を称えて喜びたい。しかし私はどうしても称えられない。信じたらよいのだけれど、何を信じてよいのかわからない。目に見えるようなものなら信じられるのだけれど、仏さまのお慈悲と聞いても、自分はそれを身に感じることができないし、どうしても信じることができない。どうしたらよいでしょうか」
この人はたいへんよい所に気づいている
この人が「どうしても信じられない」というところから出発されたのは、自分をごまかすことができない、はっきりしたものが自分の心にあるわけだし、実際、この方は機縁も熟しておられた
■たいていの人は「信じているつもり」になっているのだ
信仰の対象も意識の中でつくって、いい加減に安心している
こうして自分の中で作った信仰は、臭いものに蓋をしたようなもので、無明業障の根が断ち切られていないのだから、絶えず動揺を免れないし、「見定めるところはどこか」となったとき、消えてしまう
そして一度真の闇に堕ちてから、真実の光明に救われる。こうしたことが臨終近くに来る人さえある
■どうしても信じることができない人に、ただ「信じよ」、ただ「念仏を称えよ」と教えられるのでは困る。信じることも、称えることもできないのが本当だからである
ただ「信じよ」、ただ「 称えよ」と説く教えは、場合によると危険なもので、信じることも称えることもできない自分を忘れてしまって、信じよう、称えようとすると、いつか自己欺瞞に陥って、本当に救われるのとは似て非なる方向に行ってしまう
■真実の教えは、信じよでも称えよでもない。まず、【自分の力では信じることも、称えることもできないのだ】と教える。そうすると、信じよう、称えようと背伸びする心の無理が取れる
■信じて喜びたい、救われた喜びが欲しいと思っているのは、現実に切羽詰まった苦しみがあるからだ。それは宿業で現れた結果で、何とも致し方ない
そして、信じ称えることができないどころでなく、実は信じようとも称えようともしていない罪障の身であることに気づかされる
万策尽きたところに伸びているのが如来の慈悲の手だ
そうした人間苦が奇縁になって、人は如来大悲の胸を叩くことになる
■苦しみそのものは、愚痴と迷いの塊であって、何も価値はないと同時に、大悲を求めて救われる因になる。だから人間苦は法界の真実
苦聖諦だと言われる『
だが、真実は如来大悲が尊いので、その光が届くところがすべて尊くさせられるのである
■真実の行き詰まりは、「どうしても信じることができない」という自力の限界でたじろぎ、何時までも夜が開けないからだ
「どうしても信じられない」という宗教的悩みは尊いもので、人世苦と比べれば、これが本当の苦聖諦というべきかもしれない
最初は人生苦と宗教的悩みとがこんがらがっているのであるが、宗教的悩みが解決されると、すなわち信仰がいただけると、同時に人生苦も消えて、救われた喜びの世界に生まれ出る
■自力の立場にある限りは、信仰の喜びを求める心の底に、それによって現実の苦悩をはらしたい思いがある。つまり、煩悩を克服する力が欲しい、、などであるが、それこそ仏を、自分の生活のために利用しようとする所有得心(功利心)で、人間の大きな我欲の現れである
■苦しみを感じるところには、必ず
環境に対する不満
人々に対する憎悪・怒り
己を賢善とする傲慢
人より勝りたい勝他心
人から悪く思われたくない名利心
有り得ない煩悩具足の自分を忘れた驕慢心
因果を忘れた愚痴
などが結びついている
(善も悪なのである)
それら貪瞋痴煩悩、悪見邪心の
不可思議な集合体が、苦しみの感情である
■その苦しみに自分から同情し、囚われて、苦しみを重ねていくのが、無明の姿で、憐れなのである
★苦しみを感じる心そのものが迷い
★苦しみから逃れたい思いが二重の迷い
逃れたい思いは苦しみに愛着している
★更にそのために信仰を力にしようとするのは三重の迷い
★信仰を喜びたいと思っている心そのものが、三界に執着している流転の心になる
■他力の教えは
逃れる苦しみも、罪悪もなくなる
そして自分の生きていたこと全てが、虚事になって、死骸と化し去る
今までは自分の方から仏に手をだして何かを求めていたが、「ただ、ただ、おたすけください」と、突如として、不可思議に、念仏をを賜わるのである
この最後のところは、これ以上説明のしようがない
■「信じられない」と質問した人は、自分の言うべきことを言ってしまったようで、しばらく黙っていた。私はあとは弥陀におまかせするしかないと思った
突然彼女は「すっかり、間違っていたのです、、何もかも間違っていたのです、、」と涙にくれられた
私は
「棄てましょう。ただ念仏のみがまことにございます」
と、言おうとした瞬間に、その方の口から念仏があふれ出た
あとはただ、涙と念仏であった
やがて、御縁があったことを喜んでお別れしたのだが、私が考え違いがあったことが、後でその方からもらった手紙によってわかった
彼女の「何もかもが間違っていた、、」という言葉に私は、過去のすべてが、懺悔と感謝に溶けてゆくような、光明に包まれた心境になられたと思った、、
しかし、その人は「何もかも間違っていた。ここに来た事も、、だから私は、もう帰ります」と言うつもりだったと言う。まるで反対だったのだ
「もう帰ります」と言おうとしたのは
最後に残った大きな我執である
もし、その言葉が口から外に出たならばもうダメだったかもしれない
そこに如来の手が延びた。私の言葉や心では、どうすることもできなかった
すべては念仏の力であった
私は自分の邪心に気づいた
それは自分の意識のどこかで、自分がよく話してあげたのだ!という思いの影の邪心だった
質問された彼女の本心を私は知らなかった
私が何を考えていたのかも、彼女は知らなかった
お互いが、お互いを知らなかったのに、、、
すべては、ただ念仏の力であったと知らされた