るるの日記

なんでも書きます

必死に仏道を求めている人の最後の問い「仏を信じられない。どうしたらよいでしょうか?」

2022-03-23 17:45:43 | 日記
■必死に仏道を求めて出る最後の問いの中の一つを、ある婦人に問われた

「私もみなさんのように、お念仏を称えて喜びたい。しかし私はどうしても称えられない。信じたらよいのだけれど、何を信じてよいのかわからない。目に見えるようなものなら信じられるのだけれど、仏さまのお慈悲と聞いても、自分はそれを身に感じることができないし、どうしても信じることができない。どうしたらよいでしょうか」

この人はたいへんよい所に気づいている
この人が「どうしても信じられない」というところから出発されたのは、自分をごまかすことができない、はっきりしたものが自分の心にあるわけだし、実際、この方は機縁も熟しておられた

■たいていの人は「信じているつもり」になっているのだ
信仰の対象も意識の中でつくって、いい加減に安心している
こうして自分の中で作った信仰は、臭いものに蓋をしたようなもので、無明業障の根が断ち切られていないのだから、絶えず動揺を免れないし、「見定めるところはどこか」となったとき、消えてしまう
そして一度真の闇に堕ちてから、真実の光明に救われる。こうしたことが臨終近くに来る人さえある

■どうしても信じることができない人に、ただ「信じよ」、ただ「念仏を称えよ」と教えられるのでは困る。信じることも、称えることもできないのが本当だからである

ただ「信じよ」、ただ「 称えよ」と説く教えは、場合によると危険なもので、信じることも称えることもできない自分を忘れてしまって、信じよう、称えようとすると、いつか自己欺瞞に陥って、本当に救われるのとは似て非なる方向に行ってしまう

■真実の教えは、信じよでも称えよでもない。まず、【自分の力では信じることも、称えることもできないのだ】と教える。そうすると、信じよう、称えようと背伸びする心の無理が取れる

■信じて喜びたい、救われた喜びが欲しいと思っているのは、現実に切羽詰まった苦しみがあるからだ。それは宿業で現れた結果で、何とも致し方ない

そして、信じ称えることができないどころでなく、実は信じようとも称えようともしていない罪障の身であることに気づかされる

万策尽きたところに伸びているのが如来の慈悲の手だ
そうした人間苦が奇縁になって、人は如来大悲の胸を叩くことになる

■苦しみそのものは、愚痴と迷いの塊であって、何も価値はないと同時に、大悲を求めて救われる因になる。だから人間苦は法界の真実
苦聖諦だと言われる『
だが、真実は如来大悲が尊いので、その光が届くところがすべて尊くさせられるのである

■真実の行き詰まりは、「どうしても信じることができない」という自力の限界でたじろぎ、何時までも夜が開けないからだ

「どうしても信じられない」という宗教的悩みは尊いもので、人世苦と比べれば、これが本当の苦聖諦というべきかもしれない
最初は人生苦と宗教的悩みとがこんがらがっているのであるが、宗教的悩みが解決されると、すなわち信仰がいただけると、同時に人生苦も消えて、救われた喜びの世界に生まれ出る

■自力の立場にある限りは、信仰の喜びを求める心の底に、それによって現実の苦悩をはらしたい思いがある。つまり、煩悩を克服する力が欲しい、、などであるが、それこそ仏を、自分の生活のために利用しようとする所有得心(功利心)で、人間の大きな我欲の現れである

■苦しみを感じるところには、必ず
環境に対する不満
人々に対する憎悪・怒り
己を賢善とする傲慢
人より勝りたい勝他心
人から悪く思われたくない名利心
有り得ない煩悩具足の自分を忘れた驕慢心
因果を忘れた愚痴
などが結びついている
(善も悪なのである)
それら貪瞋痴煩悩、悪見邪心の
不可思議な集合体が、苦しみの感情である

■その苦しみに自分から同情し、囚われて、苦しみを重ねていくのが、無明の姿で、憐れなのである
★苦しみを感じる心そのものが迷い
★苦しみから逃れたい思いが二重の迷い
逃れたい思いは苦しみに愛着している
★更にそのために信仰を力にしようとするのは三重の迷い
★信仰を喜びたいと思っている心そのものが、三界に執着している流転の心になる

■他力の教えは
逃れる苦しみも、罪悪もなくなる
そして自分の生きていたこと全てが、虚事になって、死骸と化し去る
今までは自分の方から仏に手をだして何かを求めていたが、「ただ、ただ、おたすけください」と、突如として、不可思議に、念仏をを賜わるのである
この最後のところは、これ以上説明のしようがない

■「信じられない」と質問した人は、自分の言うべきことを言ってしまったようで、しばらく黙っていた。私はあとは弥陀におまかせするしかないと思った
突然彼女は「すっかり、間違っていたのです、、何もかも間違っていたのです、、」と涙にくれられた

私は
「棄てましょう。ただ念仏のみがまことにございます」
と、言おうとした瞬間に、その方の口から念仏があふれ出た
あとはただ、涙と念仏であった

やがて、御縁があったことを喜んでお別れしたのだが、私が考え違いがあったことが、後でその方からもらった手紙によってわかった

彼女の「何もかもが間違っていた、、」という言葉に私は、過去のすべてが、懺悔と感謝に溶けてゆくような、光明に包まれた心境になられたと思った、、
しかし、その人は「何もかも間違っていた。ここに来た事も、、だから私は、もう帰ります」と言うつもりだったと言う。まるで反対だったのだ
「もう帰ります」と言おうとしたのは
最後に残った大きな我執である
もし、その言葉が口から外に出たならばもうダメだったかもしれない

そこに如来の手が延びた。私の言葉や心では、どうすることもできなかった

すべては念仏の力であった

私は自分の邪心に気づいた
それは自分の意識のどこかで、自分がよく話してあげたのだ!という思いの影の邪心だった

質問された彼女の本心を私は知らなかった
私が何を考えていたのかも、彼女は知らなかった
お互いが、お互いを知らなかったのに、、、

すべては、ただ念仏の力であったと知らされた



計らうのは、まず自分を1番に計算に入れているから

2022-03-23 16:51:27 | 日記
「すべて、よろづの事につけて
往生には、かしこき思いを具せずして、ただほれほれと、弥陀の御恩の深重なることを常に思いだし参らすべし。しかれば念仏も申され候
これ自然なり
我が計らわざるを自然と申すなり
これすなわち他力にてまします」

苦楽、善悪、世間、仏法、地獄、浄土、、すべての「囚われ」「計らい」がことごとく棄たれ、満身に慈悲の御恩の深重なことが、ただほれほれと喜ばれるようになったところから、自然に念仏も申される

こうした境地になかなか至れないというのは、持ち前の「計らい」が残っているからである

計らいがあるのは
計らわねば気のすまないものが
いろいろ目前に見えるからである
自分と世間
男女
貧富
生死
煩悩

生きること自体いろいろあるから、計らう
ひとたび光明に遇っても、まだ長い間、迷いの夢の熏習が消えないからである。だから廻心歓喜して初歓喜地に上った菩薩には、次いで尚、計らいの障りと、煩悩の障りを断つことが要求される

障りになるものは何も無くなったという実感がくるまでは、めいめい自分の中に何か障りになるものを実感する

この計り知れない障りを身に備えていたことが、本当に知らされて
ひとえに御恩であったと喜べてこそ、それが障りの断たれている姿だが、
障りとなるものを取り除きたい、仏に近づきたいと思う、その自力心が大きな障りになっていることを自分で気づかないので苦しむ
だから、障りを自力で除くということはあり得ない

光明が障りのすみずみにまで行き届いてくるとき、自然に一切の障りが消え、一切の悩みがはれて、ただ慈悲の御恩を喜ぶ心一つに定められる

自分というのも、自分のものというのも何も残らない


仏に遇えば「迷えぬ」ことになっています

2022-03-23 16:13:01 | 日記
仏に遇えば「迷えぬ」ことになっています。人生の苦しみにも悩めなくなります

同じ環境のもと、同じ悪感情を抱きながら、悩もうとしても悩めなくなり、円満な喜びと安心に包まれている

罪を思っても、罪悪感が慈悲の涙に融合する
人と打ち解けられないという拘り(コンプレックス)が、ぬぐいとられて、人と打ち解けられなくても、豊かな心持ちで温かに微笑める

その不思議な心持ちの変化は
慈悲光に感応している
慈悲光はどこから、いかにして来るかを知らないが、どこからともなく来る。それと共に自然に念仏が口に顕れてくださる

今まで有るように思えていたことが消え
今まで見えなかったものが顕れ
今まで善く思えたものが善くなく
今まで悪く思えたものが悪くなって
最初はいろいろとまごつくが、
それも次第にあるべき所におさまって、自然な調和に到達する

覚る前に、覚りを思うことなかれ。【覚りに自力は禁止】

2022-03-23 15:55:00 | 日記
【仏法を、人が知ることはない
故に凡夫として仏法を覚ること無し
ひとり仏に覚られるのみ
ゆえに「唯仏与仏、乃能究盡
(ただ仏と仏のみが、諸法実相を究め尽くしている)」という】

諸法実相を究め尽くすとき、、
凡夫は、究め覚る前から「覚りとはこのようなもの」と思いえがく
するとその思いと、覚りは同じになり
その思いと違う覚りは無くなる
覚りとは、おぼえるものでもない

覚りより先に、思う覚りは、覚りではなく様々な思い
本当に覚っているときさえ、思いが邪魔をし、さかさまに思って、覚りでは無いと思ってしまう
また本当の覚りが消える

覚りより先の思いを力としない
自力をはるかに超えて来る覚りとは、一筋に覚りの力にのみ助けられる、無上菩提の人にてある
これを仏という

仏法を凡夫が知ることはできない
凡夫として仏法を覚ること無し
だから、凡夫の思いで覚ること無し
本体仏と凡夫の自受用身が一つに合わさって覚る


ただ仏(凸・久遠実成の本体仏)と、仏(凹・凡夫の持つ自受用身)のみが諸法実相を究め尽くしている

仏だけでも、凡夫だけでも成り立たない

念仏の奥に何事があったのかを初めて知った

2022-03-23 15:01:05 | 日記
光明から離れてみると、あれほど師匠に向かって勇んでいた足が、もう、一歩も進まない。師匠の前に出るのが畏れになった
「あぁ、自分はダメだ
友人にそくされるまま、重い足をトボトボと師匠の方に向かった

師匠の寺についた。だが、師匠に会わす顔がなく、仏前に坐って『二時間前のような、慈悲に感応された心持ちになりたい』と祈り、最後のもがきを試みた。しかし不可能だった

二時間前、慈悲の光明はすぐ手が届きそうでいて、それを自分のものにすることができなかった。また光明へ行くこともできなかった。この体験は自力の極限を知った。自分は自分を救えないし、自力で仏を掴むことはできない

もがく力も尽き果てたとき思った
「慈悲に感応された心持ちになってから師匠の前に出たいというのが、自分の我ではないのか」

「慈悲に感応された心持ちにならなければ師匠の前に出にくいというのは、まだ『師匠によく思われたい、自分を師匠によく見せたい』という心があるからだ。あさましい愚かな我愛だ」

「そうだ。自分で慈悲に感応された心持ちになれないのなら、師匠にならせてもらおう」
と思った。そう決意した。まさしく決意であった。フラフラと立ちあがり師匠の部屋へ行った

障子を引き開けて、師匠の温顔に接した刹那、二時間前に啓示されたあの不可思議な慈悲を胸に打ちつけられ、如来が師匠となって現れたように見え、何も言う言葉もなく、何も聞かれる言葉もなく、そのまま師匠の前に体を投じて「有難い」とか「悪かった」とか、切れ切れに言いながら、慙愧とも感謝とも知れぬ世の中に、しばし己を忘れた
身体で経典を読まされていた
暫くして我に返ったときは、光明の海の中だった。自分の口からは念仏があふれ出て、十方に響き渡っていた。念仏の奥に何事があったのかを初めて知った

師匠が「みな、如来のお手引きですぞ」と言われるのが聞こえた。自分は師匠と同じ国に住んでいた。不思議な霊威に包まれたときの境地は、経典に描かれているとおりの荘厳なものだった

ふと立ち上がったとき
立ち上がった動作とともに、不思議な力を身内に感じて、文字どおりの踊躍歓喜が来た。私はその時から救われた

師匠とは京都善照寺の横田慶哉師
昭和5年7月26日の宵のことだった


念仏と歓喜のなかで、「これが仏さまだった。これが信仰だった。これが仏教だった」ということを何の計らいもなく知った。これこそ求め求めていた全てだったということ知った。それは自分の意識で想像もしたことがなく、思いもよらないものだった。こんなものとは知らなかったという感じだった

自分の方から求めるより先に、自分が求められていたのだったと思わされた