るるの日記

なんでも書きます

平家物語・「平清盛は慈恵僧正の生まれ変りである」→清盛は悪業を積んで、悪業の罪深さを衆生に知らせ、衆生に利を与えた

2022-03-03 19:22:03 | 日記
🔶古老が言われた。「平清盛は乱暴者だと思うが、じつは慈恵僧正の生まれ変りである」

■摂津国に清澄寺という山寺がある。その寺に【慈心房尊恵】という僧がいる。この僧は、もとは比叡山の学僧で、法華経を受持し読誦した者であるが、道心を起こし比叡山を去って、この清澄寺に来て年月を過ごした

■承安2年(1172)12月22日夜、脇息(脇に置いてもたれかかる安息用具)に寄りかかり法華経を読誦していたが、午前2時、浄衣に烏帽子をかぶった男が書状を持って来て
「私は閻魔王宮からの御使いである。閻魔王の宣旨があります」
と言って、書状を尊恵に渡した

■書状
「御招待する
南閻浮提大日本国摂津国清澄寺の
慈心坊尊恵
右は来る二十六日、閻魔城大極殿において、十万人の持経者をもって、十万部の法華経を転読されるはずである。それゆえ参ってお勤めなさるべきである。閻魔王の宣旨によって、まげておいでを請うこと右のとおりである
承安二年十二月二十二日 閻魔庁」

尊恵ためらう事なく承諾を書いて奉った、、ところで夢から醒めた
尊恵はまったく死んだ気がして、住職に話した

■尊恵は25日夜、いつも念仏を唱える仏前に行って、脇息に寄りかかって念仏読誦をする

0時になって非常に眠くてたまらないので、部屋に帰って伏した
午前2時、前のように浄衣装束の男が二人来て「さっさとおいでなさい」と勧める。閻魔王の宣旨を辞退するのも畏れ多いので、王宮に参ることにした

法衣は自然に身にまとわり
二人の童子
二人の従僧
十人の下僧
七宝で飾った車
が門の前に現れ、尊恵は喜んで車に乗った。車は西北方に向かって空を走り、間もなく閻魔王宮に到着した

■尊恵はその日の法会が終わり「めったに参れないところだから、ついでに死後の世の事をお尋ねしよう」と思って、大極殿へ参った

いつの間にか二人の童子が傘をさしかけ
二人の重僧が箱を持ち
十人の下僧が列をつくっている

閻魔王宮に近づく時、
閻魔王、冥官、冥衆は、神殿から下りて迎えた

多聞天、持国天が二人の童子となって現れ
薬王菩薩、勇施菩薩の二人は老僧となって現れ
十羅刹女は十人の下僧となって現れ、世話をなさった

閻魔王は尊恵に尋ねた
「ほかの僧はみな帰ったのに、あなたがここに来たのはどうしてか?」

尊恵
「死後の世界で生まれ変わる所をうかがうためです」

閻魔王
「極楽に往生するかしないかは、その人の信仰・不信仰によるのだ」
などといろいろな話をする
それから
「あなたの作った行を記した文箱が、南方の宝蔵にある。取り出してその文を読んで聞かせましょう」
と、ことごとく読んで聞かせた

尊恵は悲しみ、嘆き涙を流して
「ただ、ただお願いです
私を憐れみ、生死の苦しみある世界から離脱する方法を教え、大きな悟りを得る近道をお示しください」

閻魔王は憐れみ種々の偈を口ずさんで、尊恵を教化した。冥官は筆をとってこれを書いた

妻子王位財眷属
死去無一来相親
常随業鬼繁縛我
受苦叫喚無辺際

(妻子、王位、財産、一族、家臣も
死ねば何一つ来て親しむものはない
常に従うのは業鬼
我を束縛し、責め苦を受け、叫び、わめくこと果てし無い)

閻魔王はすぐその文を尊恵に授与した
尊恵は喜び
「日本の平清盛と申す人が、摂津国和田の岬を選定して、十余町四方に家屋を造り、法華経の持者を大勢召請し、説法・読経をさせ、丁寧にお勤めをされました」と申した

閻魔王はたいへん喜び感嘆して言った
「あの清盛はただの人ではない。慈恵僧正の化身だ。天台の仏法を護持するために、日本に再び生れたのだ。ゆえに自分が毎日三度、清盛を礼讃して読む文がある。この文を持ち帰って、清盛に差し上げよ」

敬礼慈恵大僧正
天台仏法擁護者
示現最初将軍身
悪業衆生同利益

(慈恵大僧正に敬礼する
慈恵は天台仏法の擁護者である
再誕の清盛は最初将軍の身となって現れ
悪業を積んで、その悪業の罪深さを衆生に知らせ
慈恵と同じく衆生に利をあたえた)
【反面教師?】

尊恵は生き返った
尊恵はこの文を持って、西八条へ参り、清盛に差し上げたところ、清盛は喜んだ

それで清盛は慈恵僧正の再誕だと、人は知ったのであった





平家物語・清盛【あっち(熱さ)死ぬ】遺言「頼朝の首を私の墓にかけよ」

2022-03-03 16:41:35 | 日記
3月2日清盛の妻は熱くて我慢できないほどだったが、清盛の枕上に寄って言われた
「様子を拝見しますと、日増しに全快の望みがないように見えます。現世に思い残される事がありましたなら、少しでも物のわかる時に、おっしゃって下さい」

清盛は苦しい息の下で言われた
「私は現世の望みはすべて達せられ、一つも思い残す事はない。。
ただしかし、思い残すことは伊豆国の流人、頼朝の首を見なかった事で、それこそ何よりも心外だ。自分が死んでしまった後は、仏堂仏塔を建てたり、仏事供養もしてはならぬ。すぐさま討手を遣わし、頼朝の首を斬って、私の墓にかけよ。それが何よりもの供養であるぞ」
と、言われたことはまったく罪深いことであった

3月4日
平清盛は悶え苦しみ、息が絶え
とうとう「あっち死に」された
64歳
清盛が日頃作っておかれた罪業ばかりが迎えに来たであろうから、清盛はまことに感無量な事だろう

平家物語・閻魔庁からの清盛迎えの車【無】という文字が書かれた札の意味

2022-03-03 16:16:50 | 日記
■清盛の妻が見た夢
猛火が盛んに燃え上がっている車を、門内に引き入れた

車の前後に立っている者は、馬の顔のような者や、牛の顔のような者だ

車の前には【無】という文字だけの鉄札が立ててあった

そして馬の顔のような者や、牛のような顔の者が言った
「閻魔庁から平清盛を迎えに参りました。この札は清盛が盧遮那仏を焼き滅ぼされた罪によって、無間地獄の底に落ちる由を閻魔庁で定め、無間の無の字だけ書き、間の字をまだ書いていないのです」

■灼熱地獄
昔、法蔵僧都が閻魔王の招待を受け、地獄に赴いて亡き母の生まれ変わっている所を尋ねたとこれ、閻魔王は法蔵の孝心を憐れまれて、地獄の使いをつけて、母の生まれ変わった灼熱地獄へ案内した

法蔵が鉄門の中に入ると、炎が空へ立ち上り、高さ何千里、何万里に及んだ

平家物語・清盛発病

2022-03-03 15:53:20 | 日記
治承5年2月23日、地方の反逆者がいっせいに蜂起したので、公卿の評議が行われた

27日、宗盛は源氏追討のため、東国へいよいよ出発するはずだったが、清盛が病気ぎみだというので、取り止めた

28日、清盛が重病にかかったというので、京都中「それゃあ、やった事だよ」とささやいていた

清盛は発病してから、水さえ喉に入らない。体内の熱いことは火のようである。休んでいる所から4、5間以内は熱くてたまらない。
清盛の言葉は「あた、あた」とだけである

比叡山から千手井の水を汲み、浴槽にその水を満たし、清盛がそこに入って身体が冷えると、水は沸き上がり湯になってしまった

筧の水を引いて清盛の身体に流しかけると、焼けた鉄に水をかけたように、水がはじいて身体に寄り付かない。まれに身体にあたる水は炎となって燃え、渦巻いて上った




平家物語・争乱中は深酒禁止

2022-03-03 15:24:41 | 日記
木曽義仲が謀反の挙兵を挙げたと聞いた平家の人々は「遠くの東国が背いたのさえ大変だったのに、近くの北国まで背くとは、どうしよう」と騒いだ

清盛はあわてず
「越後国には、余将軍(平維茂)の子孫の、城・太郎助長、城・四郎助茂がいる。これら兄弟は大勢の兵を持つ者だ。命令を下したなら、楽々と討ってくれることだろう」と言われたが、「さぁ、どうなることか」と内々にささやく者も多かった

2月1日
木曽義仲を追討するためのはかりごととして、まず、越後の城太郎助長は越後守に任じた

7日
兵乱を鎮定する祈りのため、大臣以下の家で、尊勝陀羅尼・不動明王を書写し仏事供養を行う

9日
■河内国
武蔵権守・源義基の子息で
河内国、石河郡の石河判官代
源義兼が平家に背いて源頼朝に心通わし、東国へ落ちて行きそうだということなので、清盛はすぐ討手を遣わした。軍勢三千騎

源義兼の城内は百騎

数時間、力の限り戦った城内の武士たちは討死する者が多く、父の源義基も討死。義兼は生捕りにされた

12日
■九州から飛脚到着
宇佐大宮司が申して来た
「九州の者どもは、緒方、臼杵、戸次、松浦に至るまで平家に背いて源氏に味方した」

16日
■伊予国から飛脚到着
去年冬から河野四郎通清ら四国の者どもが、すべて平家に背いて源氏に味方した
備後国の西寂は深く平家に心を寄せていたので、伊予国へ渡り河野四郎通清を討った
子息・河野四郎通信は、安芸国の叔父の所にいた。通信は父を討たれたので「西寂を討つ」と機会を窺っていた
寂滅は四国の混乱をしずめ、備後へ渡り遊女を呼び集めて、遊び戯れ、酒盛りをし、正体なくなるほど酔って寝込んでいた
そこに、河野四郎通信が決死の者ども百人で押し寄せ、西寂を生捕りにして、伊予国へ渡り、父の討たれた高縄城へひっさげて行き、ノコギリで首を切った
その後、四国の武士どもは皆、河野四郎通信に従いついた

■こうして
東国、北国、南海、西海はみな平家に背き、地方の反逆者がいっせいに蜂起した