悲劇の跡というものは何かしら人を惹き付ける力がある。悲しみは笑いと違って、深く長いものであるからだろう
東京近郊の落城の跡を訪れるとしたら、八王子城址がよい。八王子市から一里強の地にある。目標は城山神社だ
城山は山頂の眺望がかなりいい。晴れた日には江ノ島が見える。巨杉があって山らしい趣をつくっている。何でも二本の杉の木で、2階建の家を建ててもまだ木が余った程の巨杉がまだ山にはいくらでもある
天正18年6月23日八王子城落城
攻撃軍は豊臣秀吉方の上杉景勝と前田利家で1万5千人
八王子城は小田原北条方で2千
戦いは未明から朝にかけて
濃霧だった
上杉は大手を、前田は搦手を攻めた
大手に向かった上杉先鋒隊は、谷を渡って三の丸を攻める
三の丸の主将【狩野一庵】の善戦の功もなく、風上に火を放たれて城兵遁走。狩野一庵は戦死
三の丸が敗れた
攻撃軍はすぐ本丸に突入
本丸の主将は横地吉信
二百騎の決死隊を率いて奮戦したが敗北。落ち行く途中で殺された
中の丸は中山勘解由(かげゆ)によって保たれていたが、三の丸と肝腎な本丸を抜かれているので、戦死の他道はない
300人が16人になるまで、敵の渦中にあって奮闘した中山勘解由嫡男・中山左門は16人の生き残りの中の、血で赤くなっていた18歳の美少年だった。白馬に乗り武器は一丈二尺柄の槍
父・中山勘解由、その子左門が刺し違えて果てた(お互いに相手を刺す)のを見て、残る14人も自殺した
中山勘解由の妻は、夫と子の死を見届け、自害しようとしたとき、城に入った者二名があった。八王子城方の武士で攻撃軍の前田利家に捕らわれた二名だったが、前田利家は中山を惜しみ、いかにしても命を助けよと前田利家に命じられた者である
中山の妻はその二名の目前で、二人を罵り、短剣を口に含み自殺した
これで八王子城は滅びた
7月、八王子城主北条氏照は小田原開城後の11日、兄氏政と共に自殺した
元来、八王子城の全身は瀧山城
南多摩郡加住村にあった。瀧は落ちる。落ちるとは城にとって禁句だというので神護持山(今の城山)に移した
その時、瀧山城下の三宿である横山・八日市・八幡を移した。その後だんだん発達して12宿ができ、今日の八王子市は人も知るとおりである
このような事柄を心に留めて
城山神社に詣で、落城悲劇のあとを弔う事は、一日の旅としてそんなに悪くないと思う