るるの日記

なんでも書きます

歎異抄を知る「なぜ信じるのか?→疑ってはつまらないから、疑う必要はない」

2022-03-30 14:30:03 | 日記
【弥陀の誓願不思議に助けられて往生を遂げると信じて、念仏申すと思う心が起こるとき、すなわち摂取不捨の利益をあずかりたまう
弥陀の本願は人を選ばず
ただ信心を要とする
そのゆえは罪悪感深重、煩悩燃盛の衆生を助けるための願にてまします
しかれば本願を信ぜれば、他の善も要にあらず。念仏に勝る善なきゆえに。悪をも恐れるべからず。弥陀の本願を妨げる程の悪なきゆえに】

■弥陀の誓願不思議
浄土真宗信者にとっては
弥陀の誓願は我々の心の産物ではなく弥陀の誓願は我々より先にあった
これを疑うことは可能であるが、我々は自発的に疑うことを欲しない
疑ってはつまらないから疑う必要はない。突発的、無条件的臨在なのだ
だからこそ弥陀の誓願不思議という

この突発的、無条件的、第一原理の臨在を肯定するのが信仰の意識だ
信仰心はそういう要求だ

弥陀の誓願は、浄土真宗のすべての法悦が流れ出てくる大源泉である
弥陀の誓願は、直視することの出来ない光明である
だから不思議なのだ
弥陀の別名は不可思議光

■摂取不捨
「光明あまねく十法界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てず」
観無量寿経の摂取不捨

■思い立つ心の起こるとき、すなわち摂取不捨

【発起決心する我らの心と、間髪を入れず摂取される
であるから、回数や集中力や継続力などは不要
一念にある

信仰の発起決心も、助けとする力も誓願の方にある。仏から賜った信心なのである
「思い立つとき、すなわち」の機は多念より、思い立った一念にある
純に真の信の心は一念にある

浄土宗には一念、多念の諍論が起きた。法然は行としての称名が混じり、称名の数を積む功徳や、三昧の功徳によって仏を見たり、といった風だった。これはどうしても法然の不徹底であって、浄土宗に一念、多念の諍論の起こる原因であった

また機は一念だが、一念かぎりの念仏というのもあまりない
救われたいといった乾きがあって申すのであるから、その乾きがある以上は自ずと乾きが無くなるまで、時間の許す限り称えずにはおられない。ただ「多念で称えなければ救われない」という意味の多念は間違いです

誓願を頼んで念仏申すその一念に
間髪入れず摂取されることを宣言します







歎異抄を知る「親鸞の弟子が、親鸞滅後に起こった異義邪説を破るために書かれた」

2022-03-30 13:59:03 | 日記
■歎異抄は親鸞が弟子「唯圓」が書いた
動機は、親鸞の滅後、異義邪説が起こって人を惑わしたので、その異義邪説を破って親鸞の「教行信証」を守るために歎異抄を書いた

■歎異とは
「先師口伝に【異】なることを【嘆】き」の、歎異である

■なぜ意義邪説が生じるか
自分の分別思量で、他力の義を乱すから

他力は如来より賜るものであって、自分の分別思量を捨てるところに生じる
如来の不可思議智慧、廻向されるものを、ただ受けて信じるという態度になるところに他力信仰は生まれる
そこに徹していないためであり、その驕慢な態度で先師の説に対するからである

親鸞を知る「すべてが煩わしく束縛だった。ただ一人念仏を楽しみたい」

2022-03-30 13:29:13 | 日記
親鸞は稲田で教団の中心人物になって暮らしていた
親鸞は気づいた
★いい気になって、自分に甘く、反省のない自分
★内心の名利欲に引きづられそうな危険な自分
★自分の宗教生活には、もう一息ふんばるべき余地がある。今のままではいけない。教化から、念仏一念の生活に没入したい

親鸞にとってはやはり、家庭も教団も束縛だったのだ。親鸞は内面に法を味わい、法を楽しみ、法と溶け合う、念仏がしたかった

親鸞は入滅までの20幾年間、念仏、著述、訪ね来る人と法談、書の返事を書いたりして過ごした。寺も教団も作らず、積極的に人を集めて説法をするようなことはなかった

親鸞は生の流転に身をまかせきって、泡沫人のごとく生の流れに浮かんでは消えることに無限の法悦を感じ得るようになっていた
現実苦は現実苦としけ受けながらも、苦しみの底に直ちに悲願の如来の声を聴き得るようになっていた

親鸞は京都ではほとんど、人に知られず暮らした。誰も親鸞に目をつける者はいなかった。そして親鸞は90歳で長い生涯を閉じた

親鸞を知る「最高の瞬間に悪魔は囁く。その誘いに負けてはならない」

2022-03-30 13:00:37 | 日記
親鸞は流刑地の越後で5年住み、流刑赦免の宣示が下ったが、妻の恵信尼と5歳以下の子どもが3人おり、これを引き連れて京都に帰るのは容易ではなく、京都には何のあてもなく、越後には恵信尼の外戚関係もいたので、さらに4年越後に住んだ

合計9年の越後暮らし

ようやく常陸国の稲田に移った
この稲田時代に初めて親鸞は本当に【教化という使命】を自覚し、またその時機の熟していることを感じた
それは聖覚の「唯信抄」を読んで、いたく感銘したことが縁となって、
「自ら信じて、人に教えて信ぜしめる」という方面に献身した

体験が重なり、人に法を説くという自信も出来て、時機が熟した
親鸞は「弘法は報恩」と思い定めて、人々に教えを説いた。そうやって働いているうちに、自然に自分の周りには教団ができているのを見いだした。そして自分は知らず知らず「名利の大山に迷い惑う」危険な地位に来ていることを自覚する

親鸞は26年間住んだ稲田を離れ、妻恵信尼と別れ、はるばる京都に帰って行った。親鸞65歳だった
何のために京都へ帰ったかの真実の理由は親鸞しか知らないが、死期が近づくと真剣な宗教者は、もう一度人生に対する真実の反省が、一層の深みにおいて起こるらしい、、、


親鸞の多くの著述は、決心以後の仕事である。「教行信証6巻」もこの稲田時代の著作である。これは法然の浄土宗の真実義を伝えるものだ

親鸞を知る「法然も親鸞も念仏申せるように生きた」

2022-03-30 12:12:41 | 日記
後鳥羽上皇の寵愛する女官二人出家事件の処罰として
承元2年3月16日
法然は藤井元彦
親鸞は藤井義実
と名をつけられ配所に落ちた

親鸞は越後へ流され暮らしたことで全くの凡夫大衆の現実苦の中に同化し、親鸞は愚禿親鸞と名のった

妻は流罪前に一人目、流罪後に越後で二人娶って、第三人目の妻が親鸞と長く連れ添った恵信尼だった
子は7人以上あったが、父子との縁は薄く別れたり、絶縁などして、その家庭生活は悲惨で、一生の悩みの種だった

親鸞は「妻帯するなかれ」の意味を身にしみて実感した。妻子を持つことは煩い、悩み、束縛の種だったからだ。夢告は青春の甘い理想だった
しかし、その煩わしさの種になる、妻帯をせずにいられないのも親鸞だった。娑婆での人の命の種子が絶えぬのも業の報い、仏のはからいである
ならばその煩わしき業報を味わおう
業報の中での救済の自覚こそ浄土真宗の本質である

往生のためにわざと苦に汚れず
往生のために善を装う必要もない
宿縁にまかせたあるがままの姿に
弥陀の悲願は最もよく感得される

法然も親鸞も宿縁にまかせたのだ
親鸞からは、法然のように生活しなければならないのか?、、と思う
法然からは、親鸞のように生活しなければならないのか?、、と思う

親鸞はは親鸞の業報がある
「妻を持たねば念仏できない」
法然は法然の業報がある
「妻を持てば念仏できない」
【念仏申せるように生きればいい】

宿縁=宿業=業報