【弥陀の誓願不思議に助けられて往生を遂げると信じて、念仏申すと思う心が起こるとき、すなわち摂取不捨の利益をあずかりたまう
弥陀の本願は人を選ばず
ただ信心を要とする
そのゆえは罪悪感深重、煩悩燃盛の衆生を助けるための願にてまします
しかれば本願を信ぜれば、他の善も要にあらず。念仏に勝る善なきゆえに。悪をも恐れるべからず。弥陀の本願を妨げる程の悪なきゆえに】
■弥陀の誓願不思議
浄土真宗信者にとっては
弥陀の誓願は我々の心の産物ではなく弥陀の誓願は我々より先にあった
これを疑うことは可能であるが、我々は自発的に疑うことを欲しない
疑ってはつまらないから疑う必要はない。突発的、無条件的臨在なのだ
だからこそ弥陀の誓願不思議という
この突発的、無条件的、第一原理の臨在を肯定するのが信仰の意識だ
信仰心はそういう要求だ
弥陀の誓願は、浄土真宗のすべての法悦が流れ出てくる大源泉である
弥陀の誓願は、直視することの出来ない光明である
だから不思議なのだ
弥陀の別名は不可思議光
■摂取不捨
「光明あまねく十法界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てず」
観無量寿経の摂取不捨
■思い立つ心の起こるとき、すなわち摂取不捨
【発起決心する我らの心と、間髪を入れず摂取される】
であるから、回数や集中力や継続力などは不要
一念にある
信仰の発起決心も、助けとする力も誓願の方にある。仏から賜った信心なのである
「思い立つとき、すなわち」の機は多念より、思い立った一念にある
純に真の信の心は一念にある
浄土宗には一念、多念の諍論が起きた。法然は行としての称名が混じり、称名の数を積む功徳や、三昧の功徳によって仏を見たり、といった風だった。これはどうしても法然の不徹底であって、浄土宗に一念、多念の諍論の起こる原因であった
また機は一念だが、一念かぎりの念仏というのもあまりない
救われたいといった乾きがあって申すのであるから、その乾きがある以上は自ずと乾きが無くなるまで、時間の許す限り称えずにはおられない。ただ「多念で称えなければ救われない」という意味の多念は間違いです
誓願を頼んで念仏申すその一念に
間髪入れず摂取されることを宣言します