るるの日記

なんでも書きます

発想の逆転「人は神仏の都合で生かされている」

2022-03-11 18:55:49 | 日記
自己を深く知るということは
世の仕組みを知ることになります
なぜなら自己の仕組みは、全体の仕組みの縮図だと思うから

が、しかし

仏教や神道で登場する神仏さえも知らない領域があります
「根本仏とな何ぞや?根本仏の意志とは何ぞや?」という不思議です
これって考えたらきりがない

私は「根本仏も、その他の神仏も
元は人間だった」で終わらせました

根本仏から、その他神仏が生まれ、人は神仏の子という発想を逆転させると、人は神仏の都合で生かされ、神仏はその罪悪感にさいなまれ、だからこそ「凡夫をすべて救うまで、私は仏にはならない」と誓願したのではないか、、?





私は「努力」という言葉が大嫌い

2022-03-11 18:25:48 | 日記
私は努力という言葉が嫌いです
努力という言葉には「辛い悲壮感」というイメージがついて回るから嫌いなんです。これは私の主観です。努力という言葉を「楽しいことに没頭している」に変えたい、、長い?

「努力をしている」と自分で感じるのならば、その努力という言葉を
「修行」と置き換えたい
修行ならば辛い悲壮感は当たり前だし。修行は、修行した先の何かになるために行う

楽しいことに没頭している時って、その時に何かに成っている。経過している時そのものが「いいっ!」て感覚。辛さなど微塵も感じない


出る杭は打たれ平凡化する。出る杭を打つのは驕慢の人

2022-03-11 15:48:51 | 日記
驕慢は油紙の如し
どれだけ水を注いでも濡れず
仏の法雨をはじき返す
驕慢に固まる人は、何事にも何人にも感化されず、人格は変わらない

驕慢に固まる人格の人は
いかなる事物や人格に対しても感服せず、これを解剖し批評し破壊し平凡化する

「自分に道あり」と思うな
「自分は道にあり」と思え
自分に道ありと思うから
他に道無しと思い誤り
終わりには驕慢に陥る

自分は道にあり
他もまた道にあり
共に大道を行く


ボウフラは汚水を清める

2022-03-11 15:12:54 | 日記
蚊は人に害を与えるのみで、何にも益するところが無いと思うが、蚊がボウフラになって泥中にある時、その中の汚物を食とし、汚水を清めるの用をなす

世の一切の事かくの如く
私たちの智慧足らず、目暗いときは、事物、人を悪み嫌うことがある
智慧円満の境地に入れば世には益あるもののみで、悪み嫌うもの無し
仏の思いも悪み嫌うもの無し

世の事物や人に対して憎悪の念が起きる時は、自己の智慧が足らないないことを自覚し、仏の智慧に帰入したいと願いましょ

仏を信じるとは「仏から信じ愛されているという自覚」「仏の本願は自分一人のためという自覚」

2022-03-11 14:57:28 | 日記
私が仏を信じるというのは
仏に信じられている私であるという自覚である

信じるという家は
信じられている自覚の
基礎の上に建つ

私が信じる仏と
仏に信じられている私は
一致融合するに至る

例えばこの世では
私は天皇を信じているが
天皇は私を知らない
知らないから信じる以前の関係
天皇に信じられている個人はこの世でまれな人だろう

仏は無限の智慧であるから、私個人の心の奥底まで知っているし、知り誤ることは無い。
仏は無限の慈悲であるから、私個人を慈愛すること深く厚く、その慈愛はいかなる時でも変わらず、その慈愛は私を仏境地に引入させる

仏は永劫のその昔に本願を建てられた。種々の選択の中から、諸仏が出離の縁が無いと捨てた低下の凡夫を選択され「この凡夫を仏にするでは、自らは成仏せず」とまで誓われた
よって私が仏を選んで求めるのではなく、仏の方より私を選んで救おうと誓われたのです

「仏から信じ愛されている私」と自覚する時、仏救済のすべてが私一人の為と知るがゆえ、すべてを仏の計らいの手に託す
これを仏を信じるという

親鸞
「弥陀の思推の【願】をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなり」