るるの日記

なんでも書きます

人に対する時「人から良く思われたい」虚栄心の悪魔に近づき、仏に対する時虚栄心の起きる余地は無し

2022-03-10 16:49:47 | 日記
「人から良く思われたい」
私の苦悩は虚栄心の泉から湧く
虚栄心よ去れ
虚栄心は苦悩
虚栄心に捉えらるときは
悪魔が身を襲うに等しい

しかし

時にこの虚栄心の悪魔に近づきたくなり、悪魔に従い楽しむ
虚しく栄えよ、、、と

虚栄心無くしただ
「有るように有れ」
あなたらしくあれ

わかっているけど、つい無意識に虚栄します、、、

私たちは人に対する時
虚栄心が起きる
仏に対する時
虚栄心が起きる余地は無い
だから常に常に常に
仏に対する心で世に生きよ
苦海に誘う虚栄心の悪魔は
自然にその影を隠す

無いものを有るように振る舞う事が恥。無いものを無いに振る舞う事に何の恥があるか?
あなたの全ての思いは仏が与えてくれている。それを恥じるのか?



他力の力でしかマジで救われない私の思い癖「人から嫌われたくないと、人間関係で身構える心」

2022-03-10 16:18:16 | 日記
私の人生は
人に束縛され
物に束縛され
時に束縛され
空間に束縛され
客観に束縛され
主観に束縛され
~の為に束縛され
眼は色に束縛され
耳は声に束縛され
鼻は香に束縛され
舌は味に束縛され
身は触に束縛され
意は法に束縛される

人生は実に牢獄である
私は囚われ人
自由を奪われた身
極悪深重の大罪人

私を束縛するのは
自身の意想にあり
牢獄を自ら造り
束縛の縄を自らかけた

牢獄の中の囚人の私は
牢獄の中しか知らなかった
牢獄の中は美しく、その餌がとても美味しいと感じていたから
牢獄以外に世界はなく
囚人しか見ていなければ
さしたる苦悩も感じなかった

だけど
牢獄の外の、自由に満ちた空を知った瞬間、自由自在を赦された人を眼にした瞬間に、私は、自己の牢獄の窮屈さを感じてしまった

いっそのこと
牢獄の中しか
知らなければよかったのかもしれない
牢獄だけを愛すればよかったのかもしれない

しかし、牢獄の外の光を知ってしまった。牢獄の暗闇に光がさしてしまった。そして私は囚われ人だと知ってしまった。囚えている人の正体も認識した。自分が作った牢獄に、自分で、自分を囚えていた

牢獄の外の光は
牢獄まで届きますが
まだ私はただじっと外を眺めている
錯覚の牢獄にまだ居座っている
そして
南無阿弥陀仏、、を称えてみる

束縛とは
依存である
依存とは頼りにして生きること
それがなければ生きていけないとの無意識な思い込み
「人に嫌われたら生きていけない。だから人から嫌われたくない」
人が好きだから依存するのではなく、好き嫌い関係なく「人から嫌われたくない」という煩悩で、自分を守りたいのです。だから人間関係で身構える。嫌われないようにしようって

身構えようが、身構えなかろうが、好かれる時は好かれ
嫌われる時は嫌われるんだ
というのが、他力の自由
自分の束縛からの自由
自分で何ともできないのが自由

為す時は
計りなく全力で為して
後は野となれ、山となれ
どうせ無常。流れさる
良いも悪くも流れ去る

たから救ってくださいませ
滞りがちなこの思いもどうか
思いも流れ去らせてください
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
他力の力でしかマジで救われない















仏教研究「罪悪感が苦しいのです」

2022-03-10 13:34:42 | 日記
この無常な世界に
無常な自分が今まで生存してこれたのは、まったく自分の力で無く、他力の力である。その他力を受けている自分は、はたして受けるだけの事をしているか?という事を考える
御恩が当たり前であるとはいかないからソワソワしてくる
しかし私は親孝行もできねば、人を疑い、嫉妬し、、人間の道も守れないあさましい悪人
罪悪感が苦しいのです

仏は言う
そもそも、あなたは本当に仏の慈悲を、仏の他力を信じていますか?
罪悪感の苦痛は疑惑により起きます
仏の心を疑うから種々の苦悩を招くのです
根本の無明は仏の心を疑うにある
実際受けている仏の慈悲を、そう感じず、自分の力で生きていると思っていませんか?あなたは仏の慈悲の功を盗んでいる。そのような思いは幾多の罪悪感の苦しみを招く。実際受けている仏の慈悲を無きものにして、自分の力だとする迷妄から罪悪感は起きる

あなたは御恩、他力を知っていても、本当に有難いと思っていませんね。なぜならあなたは横着だからである。自分がいい気になっているからである。当たり前だと思っているからである

このような
自己省察の結果、自分は人としての義務をはたせ尽くせない者であり、仏をまだ信じきれず、仏を疑っていることに気づいてはじめて、仏に接することができる。仏を疑う罪悪感は、仏恩を一層切実に感じさせる。仏恩感は罪悪感を一層強くさせるけど。ここに宗教的信念が発芽するのです


仏教研究・無我「利己心は他力の必要悪」

2022-03-10 11:57:06 | 日記
仏教の根本は無我
無我は自分が無いということ
無い自分が、自分と意識している
これが他力の力です

人間は利己的であるが、利己心も自分の力によって出来たものではない。道理に反するように仕向けた他力による人間の性質である
この利己心が色々な苦痛を起こす

人は利己心によって苦悩するから、ある時機「無我になりたい。自分を無くしたい」という思いにもなる
いわば利己心は他力による必要悪

仏はこの利己心を、迷いの根本だと退け、無我の大道の平安を示されました。しかし人は平安を求めるために逆に利己心に固執するという間違いも犯す。それは利己心を知らないから。自分を知らないから

「私は無い。私は無我。だからこの身は他力に助けられ五蘊の体を保っている。他力によって生きるしかない」
この事がわかると、自然に他力の慈悲を観知せざるを得なくなり
「他力の慈悲の中にある自分」だと気づき、他力慈悲の恩を思わずにはおられなくなる

恩を知ることは本を知ること
本を知ることは真実に今の自分を知ること。今の自分が明らかになって、始めて進むべき道も明らかになる
「真実の今の自分は他力慈悲の恩から外に一歩も出る事ができない身である」ことを味わえば、感謝の情は自然に起こる

他力の慈悲は仏の心
世の一切に、仏の慈悲を見る者は、仏の手につかまれ、仏の懐に抱かれている

仏教研究・あぁ無常「この世のすべては頼りにならなくて苦しい。だから苦も頼りにならなくて快感」諸法皆空の悟り

2022-03-10 11:37:33 | 日記
■普通に思い悩む人だった釈尊

釈尊は幼い頃から、何となく物思いに沈む癖があった
「私は若いままではいられない。人間は老いてやがて死ぬ。人生の前途には青春の楽しみではなく、悲哀の老死が待っている。人生の歓楽は夢のようにはかない。この苦海から逃れたいと」、釈尊は思い悩んで出家し、求道の道に入った

■安楽道を発見した釈尊

釈尊は生死以上の天地を発見し
そこに安住し、人類にこの道を説き示してくれた。それが仏教である

釈尊は丁寧に人生の実相を説き表して「いつまでも若くはないぞ、いつ病気になるかわからぬぞ、いつかは絶対死ぬぞ。恐ろしくはないか?」
と教えて下さる

そして、こんなもろい人生であるから、この世の事物の上では安住できない。ゆえに生死以上の常住の力に依らなければならない
【常住の姿を、無常の人生の中で見よ】教えて下さった

■無常を沈痛に明確に観察する

人はみな、無常観をおぼろげながら感じているが、一層沈痛に明確に観知する必要がある。そうでなければ本当の道に入る事はできない

沈痛に無常を観知することで
家族
財産
肉体
精神
すべて頼りにならない事を知る
安住する所なんてないと知る
そこに不安という黒い影がつきまとう
だから、だから、、大なる安住を求めたいと強く願う

★一方無常観は
お金で苦しんでいる人は
お金の無常を観じてみよ

家庭で苦しんでいる人は
家庭の無常を観じてみよ

人間関係で苦しんでいる人は
自他の上の無常を観じてみよ

事業で苦しんでいる人は
事業の無常を観じてみよ

名利に苦しんでいる人は
名利の無常を観じてみよ

この苦悶が軽められるのを感じないか?肩の荷が下ろされるのを感じないか?

この無常観が解脱に入る門なのです
無常に触れると苦しむが、明らかに無常の実相を観知したときは快感に入る
ここに諸法皆空の悟りがある
無の悟りがある

■悟っても人は常住に安住できない

人はこの無に安住することができない生きもの(本質)だから、
無常にいて常住の天地を求めるたいのだ