るるの日記

なんでも書きます

法然は特殊能力があったとしか思えない

2022-03-27 17:22:30 | 日記
■法然の学問
天台の奥義
密乗
大乗律
三蔵の聖教

天台
法相
三論
華厳
真言
諸宗派にわたり
それらの経文で、読まないものはなかった。蔵にある一切経は5度読んだ
法然が書を読まなかったのは只一日きりであった。それは木曽義仲が京都に討入りした日で、あまりにも騒がしいので、さすがの法然も書を手にすることが出来なかった

■ある時、法然は師の叡空と議論を闘わせた。どちらも論を譲らずにいたが遂に叡空が立腹して枕を法然に投げつけた。法然は静かに師の前を立った。叡空は数刻後、法然の部屋に来て陳謝し「汝の説の方がやっぱり深い。本意であるらしい」と言った

■法然24歳、嵯峨の清凉寺に七日間参籠。参籠が終わって南都へ下り法相宗の蔵俊僧都のもとに至り法談を交えた。自宗の義理に法然があまりにも明るいので僧都は感嘆した

■醍醐に三論宗の先達を訪ねた。そして所見を述べると律師は無言のまま内に入り、秘蔵の書物を手にして法然に授けた

■華厳宗の僧も弘法大師の十住心について議論して、法然の知識に感嘆した

勢至丸が出家して法然になるまで「明確な目的を持った少年」

2022-03-27 16:52:03 | 日記
勢至丸の叔父に観覚という僧があって、勢至丸をこの叔父の弟子にして出家させた

観覚は勢至菩丸の稀な器量を見て田舎に埋もれさすのは惜しいと、比叡山で修行させることにした。
勢至丸15歳

勢至丸が京の都に登りついた時、摂政・藤原忠通の行列に行き遇った。勢至丸は馬から下りて道の側によけた
忠通は勢至丸を見て、車を停めさせて「何処の人か」と側近に尋ねた
「美作の国より出家修行の比叡山に登る童子たちであります」と答えるとた忠通は丁重に会釈して通りすぎた

後で忠通が言うには「今日、路で会った童子の眼から光を放っていた。いかにも只者ではないと思ったから会釈をして過ぎた」と
ちなみに忠通の子息兼実が後に法然に帰依が深かったのも何かの因縁であろう

比叡山で勢至丸は
★源光の弟子(15歳)となるが
勢至丸が只者ではないので
★阿闍梨皇円のもとに入室させた
★更に西塔慈眼坊叡空の庵に(18歳)
そして初めて法然坊源空と号した
源空は源光の源、叡空の空を合わせたのである

叡空は瑜伽秘密の法に明かな名師であったが、法然は名利を捨て只ひたすら出離の道を求め精進した

法然には明確な目的があったからである。それは生死を超えること。すべての学問はそのために他ならなかった






法然の父の遺言

2022-03-27 15:52:36 | 日記
■勢至丸が法然になった原因

法然
1133年4月7日
美作国久米郡稲岡ノ庄生まれ
幼名は勢至丸

父は漆時国は稲岡ノ庄預り所として赴任。源定明と意見が合わなかったので憎しみをかっていた
源定明はついに時国を夜襲。時国は致命傷を受けた

勢至丸はこの時9歳。隙間から定明が庭で矢を引いて立っていたのを見た。勢至丸は小弓をとり定明に向かって一矢を放った。矢は定明の眉間に当たりそのまま逃げた

瀕死の父・時国は勢至丸に仇討を止めるように言った「自分がこのような非業の死を遂げるのも先の世の宿業である。敵を恨んであだを結ぶ時には、あだはあだを引く宿業となる。お前は私の仇討をしようと考えはず、早く俗を逃れ、出家して私の菩提を弔ってくれ。またお前自身の解脱を求め、生死を超えるよう心がけよ」

父を襲った源定明は眉間の傷が証拠になるので土地を逃げ、罪を後悔して念仏に帰した

勢至丸は
一を聞いて十を知り
西方の壁に向かって坐る癖あり

一枚起請文と歎異抄

2022-03-27 14:51:58 | 日記
一枚起請文は法然上人が自ら書かれた。歎異抄は親鸞聖人の述懐を弟子が書き留めておいた覚書だ。この2つは浄土門信仰の極致を示す文献となる

しかしながら法然や親鸞でも、最初から純一無垢な混じり気のない一念の境地にいたわけではない
分別、迷い、さまざまな複雑面倒な世界を通りすぎて後、そういう単純な、ひたすらな境地に達したのである

誰しも人間はその通りである
迷い、苦しみがあればこそ至心一念の信仰に帰入するようになるのだろう

■一枚起請文

【朝、、もろもろの智者の申さる観念の念にもあらず。また学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず
ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申し疑いなく往生するぞと思いて申す外には別の仔細あらず
、、
たとえ一代の法をよくよく学すとも、無智のともがらに同じうして智者のふるまいをせずして、ただただ一向に念仏すべし】

■動機
★法然は時代の宗教的革命家であり、その時代に一般に行われていた仏教諸宗派とはまったく別の教えを旗揚げした。法然にとってはハッキリとその立場を明らかにしておきたかった

★法然は世間には非常に博学な智者としての名声がひろがっていたから、尚更、学問と信仰のまったく相違することと、そして法然の信仰は、学問(と信仰の矛盾)からまったく自由になっていることをハッキリさせておく必要があった

物知りは【素直な貧しい心】になって往生することは、針の穴をくぐるより難しい