るるの日記

なんでも書きます

私の思いは有ってはならないという自己否定→そんなに偉いんかい?

2022-03-26 17:20:01 | 日記
自分の存在のすべてを否定する方向に心が向けられたとき、他力信心の菩提心が起こりました
もうどうにもならないんだもの
「南無阿弥陀仏、たすけたまえの他は、思うも言うも障りなりけり」
私が思うことも、言うことも
すべては自分を快適にするため
人を利用したり
人に役立つことをしたり
人に嫉妬したり、、
私の思いのすべては有ってはならないものだと感じる自己否定は、やがて0という無に帰す

仏の慈悲には否定がなかった
ルルにとっての有ってはならぬなどのもんは、仏の慈悲の前ではとるにたらないもんであった

私の思いの有無を離れ
俯瞰の海に浮かんだら
やはり
「自己否定なんて、カッコつけてる。私はもともと悪人なんだわ」とまた開き直りました

あなたは寂しいの?仏の光明の世界をあなたに伝えたいけど、、

2022-03-26 13:13:41 | 日記
人間の暗さには同感します
お笑い芸人にも暗さが必要
暗い人を笑わせるために

周囲を見渡すと、私をふくめTPOに合わせた振舞をします
普通は人が2人以上いたら無言では気まずいし、集団でいたら自分だけ取り残されたアウエー感は辛いですよね

人は、自我に執着して「暗い人」には見られたくなくて無理をするときがある。だけど自我執着している時は、明るく振る舞っていても根暗。なぜなら自我というのは無明業障を背負っているから暗い。湧く思いの本源である自我は闇。自我は自力自家発電で明るくしているが、一人になるとどっと疲れ果てる。ルルの本心は一人が大好きなの

他力信心に出会ってからのルルは
他力におまかせ、自我の計らいなしの気分は気楽だから、無明業障を背負いながらも光明で照らされて仏的な明るさを得た「暗くてもいいや」みたいな気楽さ

しかし気をつけないと、「そもそも、明るさや暗さって何やねん。みんな取り繕って!本当は根暗なくせに」という怒りが生まれた。すぐに自我はこのように表現したがる。これを放っておくと人嫌いになり、世が嫌になり、世棄て人になる
「こんなまやかしばかりの人や世界は嫌だ」という気分ね
オウム真理教信者はこのような気分だったのではないか?

たからルル信仰の前提は
自我にはきちんと気づくことなんだが、
「そもそも、人間的明るさや暗さって何やねん」までは他力だと思うの。自分と周囲の共通する救いの言葉

当時はその思いしか浮かばなかったが、今この記事を書いているうちに気づく「そもそも、明るさや暗さって何やねん」の後には「そんなこと(自我)に執着すんな」が隠されていたことを

なのにルルはそこを気づかずに
曲がった
曲がったその先には
「みんな取り繕って!根暗なくせに」という自我を顕した。自己と他人を対立させ、自己を上に置いて、上から目線ね。すっごく傲慢だし

そうして言わなくていいことを
人に言って傷つけてしまいました
罪悪感半端なかったが、罪悪感と別に
「それでも、まだいい人に見られたい」思いと「だって本当のことじゃん。私がきづかせてあげたんだから、ありがたく思え」という思いがあった
罪悪感と、いい人に見られたい思いと、上から目線な傲慢な思いがぐちゃぐちゃになりました
もう、嫌だ

ナニガナンダカワカラナイ
トニカクスッキリシタイ
この一心で念仏をした
結果は
すんなり私は謝罪でき、今はなぜか気になる存在になっている。なんでも気になるかって?
その人の暗さに同感してしまい
できれば私が光明になりたいという気になったのです
なぜか、その人を見ると
「可哀想で可哀想でたまらなくかる」のです
その人は元気に明るくしているのですが、どうしてもルルは
「なんでそんなに寂しいのか」
という思いになります

ここでまた「ルルのこの思いは傲慢ではないか」という問題が浮かぶが
「そもそも、傲慢とか謙虚って何やねん!そんな自我には拘るな」って気楽になる
否定から入るのは自我の自力なのかな?

と、このように
光と闇は共存します
気づかせは
絶対他力だと思います

そして仏の計らう出来事は
なるべくしてなる
あの出来事があったから
今このような思いになる

無明業障の自我を背負い
如来の光明他力に包まれて
ルルはただ行為と一念のみを
繰り返すのでしょう
そう有りたいものです



不思議だなあ。仏の計らいの文章が書けた【自動書記】

2022-03-26 11:43:50 | 日記
真実は単純明解
不実は複雑多岐
という真実がある

物事を人に教えたり、伝えるのが上手な人は、わかりやすい単純明解な言葉を順序よく並べて、人にわかりやすく伝える。伝えようと努力する

経文を見ると難しい漢字が並ぶ。しかし書いてあることは単純明解なんだろう

仏教全般を学ぼうとすると複雑多岐の枝分かれであるが
仏教を信じることは単純明解「救ってください。たのみます。おまかせします」。そして救われるという一直線

ルルはなんで救われたんだろー?
仏ってなんだろう?
という単純明解な疑問には84000の解釈を学ぶことになる
それはそれで面白い
まるで、人を見て法を説いた釈尊になった気分
(信仰と学問は矛盾するというが、ルルは善悪を超えたからいいんだ~)

仏教が複雑多岐にわたるのは、一直線に「仏にたのみ、おまかせすると、救われる」ことを信じれない自我を持つ人々に合わせて、釈尊が法を説いたから
結局人はこの単純明解なことを信じ難いから、釈尊は人の機根に合わせた理屈をつけて、人々を信に導いたのね

ルルが会社で悩んでいる人にいきなり「念仏を称えたら救われるよ」と言ったらどうなるかを想像すると釈尊の気持ちがわかる
でも法を弘めるには念仏はそんなに変ではない。なぜならわが集落には浄土真宗の家が多く、90%は仏壇が家にあり、お坊さんが家に来てお経を年に二回はあげていかれる行事もあるし、お寺で催すお参りもある。ただそれは信仰ではなく季節の行事的習慣なのだが、、

はっ!いつのまにか
仏の計らいで「法の弘め方」を考えるルルになっていた

前半の文章につながった
法を弘める意識は棄て(自力執着)、人とは、わかりやすい単純明解な言葉で会話をしよう。計らいない一念で。




南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経は究極は1つなんだね

2022-03-26 11:03:14 | 日記
「一切をおまかせしきれた」
ところに一切の苦悩は湧かなくなる
苦悩がまだまだ湧いてくるのは
宿業ではなく、ルルが一切をおまかせ切れていないからだ

宿業に責任転嫁して
開き直ることができなくなった

迷いは自力の執着
宿業のせいではない
他力の救済力に一切をたのみ、おまかせするしかない、、のに

自力で他力に一切をたのみ、おまかせすることは不可能だから
意識にのぼることなくスルスルと行うのみとなる
いや、一念の意識を真実とし、そこから連鎖的に湧いてくる雑念を自力とするか、、

となると

一念三千の南無妙法蓮華経も
念仏の南無阿弥陀仏も
等しくなるんだけど

一念は、南無妙法蓮華経
一念は、如来他力

やはり信仰は俯瞰してみると
自力の教えっぽくても他力
すべては他力のみ
「人は誰もが仏性があり、仏になれる可能性をひめている」は、他力の方便であり
「人は仏にたのみ一切をおまかせしきれたら救われる」は、人には仏性があり仏になれる可能性があるの方便

ただ、人は誰でも仏になれる可能性があるという教えは、憍慢な自力自我を刺激し、「自分は仏だ!」と自惚れやすいから、苦悩はするだろう

ふむ、、

ルルのパターン

2022-03-26 10:35:10 | 日記
自分の真実に出逢うことは恐ろしいことだ
「ほんの小さな慈悲もない自分」だったんだからね。知らない方が楽だよ
だけど真実の自分が、自分の意識にひょっこり顕れ、それを自分が恐ろしいながらも誤魔化さずに自覚できたということは、如来の計らいでしょ
ルルに真実の自分を受けとめる準備ができたときに、ひょっこり顕されたということ

驕り高ぶったルル、その罪悪感で、恥ずかしさで、穴があったら入りたい、、あ~あとため息
私と因縁あった人たちには可哀想なことをしてきたと、本気で頭が下がる。どんだけ傷つけてきたのか
ごめんね、ごめんね、
自然と「ごめんね」という気持ちが、慈悲みたいな心もちにつながってる

南無阿弥陀仏
ごめんなさい

仏教は自分を知っていく道というのは、こうゆうことだったのね
自分ではどうしようもないこの人間性を、如来他力で救われ、
「宿業だから仕方がない」
「悪人だから仕方がない」
「いい人ぶっても仕方がない」
もう、どーでもいい
と、自我が崩壊し
そして前に進むのです