真実は単純明解
不実は複雑多岐
という真実がある
物事を人に教えたり、伝えるのが上手な人は、わかりやすい単純明解な言葉を順序よく並べて、人にわかりやすく伝える。伝えようと努力する
経文を見ると難しい漢字が並ぶ。しかし書いてあることは単純明解なんだろう
仏教全般を学ぼうとすると複雑多岐の枝分かれであるが
仏教を信じることは単純明解「救ってください。たのみます。おまかせします」。そして救われるという一直線
ルルはなんで救われたんだろー?
仏ってなんだろう?
という単純明解な疑問には84000の解釈を学ぶことになる
それはそれで面白い
まるで、人を見て法を説いた釈尊になった気分
(信仰と学問は矛盾するというが、ルルは善悪を超えたからいいんだ~)
仏教が複雑多岐にわたるのは、一直線に「仏にたのみ、おまかせすると、救われる」ことを信じれない自我を持つ人々に合わせて、釈尊が法を説いたから
結局人はこの単純明解なことを信じ難いから、釈尊は人の機根に合わせた理屈をつけて、人々を信に導いたのね
ルルが会社で悩んでいる人にいきなり「念仏を称えたら救われるよ」と言ったらどうなるかを想像すると釈尊の気持ちがわかる
でも法を弘めるには念仏はそんなに変ではない。なぜならわが集落には浄土真宗の家が多く、90%は仏壇が家にあり、お坊さんが家に来てお経を年に二回はあげていかれる行事もあるし、お寺で催すお参りもある。ただそれは信仰ではなく季節の行事的習慣なのだが、、
はっ!いつのまにか
仏の計らいで「法の弘め方」を考えるルルになっていた
前半の文章につながった
法を弘める意識は棄て(自力執着)、人とは、わかりやすい単純明解な言葉で会話をしよう。計らいない一念で。