るるの日記

なんでも書きます

感謝できないのは「自分で感謝を作り出そうとするから」自力への執着心

2022-03-06 17:34:15 | 日記
有り難くて涙を流す
暫くすると有り難い心は去り、あの時の私は何が有り難くて涙を流したのか恥ずかしいと、自らを疑う心になる。私には2つの心があるのか?

有り難いと思うべき事を
有り難く思わないような恩知らずのしぶとい私が、たとえ暫くでも有り難いと、仏の御恩に目覚め、有り難くて涙を流す時、これ自分の発揮ではなく、仏の御心が私の胸を通られ、久遠以来、私の為に流していただいた仏の涙が、私の瞼から溢れ流れ喜びと感謝せざるを得ず

喜びは仏が私に与える。喜びを自ら造り出そうとするときは、私はいかにしても喜ばぬ、有り難がらぬ、しぶとい奴として残るのみ

世には有り難く思えない
喜べないと、嘆く人がいる
この人は自力の執心が取れていず
「自分で喜ぼう
自分で有り難がろう」
と思うがゆえに喜べず、有り難く思えない

自分は慈悲心などわからない
自分では喜べない
自分は与える力もなく
受ける力もない不埒な奴と気づく時
私を呼ぶ仏の御心を仰がずにはいられない。そんな時には喜びが溢れる

自力では何もできない
ただ他力を頼み奉る外はない








私に頼め!助けるぞ!苦悩は仏が引き受ける。あなたは仏の計らいに任せ、仏の力を頼り、安心してよろしい

2022-03-06 16:34:55 | 日記
信仰は信念の建立である

真の信仰とは「其の名号を聞いて信心歓喜する」ことである

其の名号とは「南無阿弥陀仏」の
六字のこと
聞くとは帰命の一念発得すること

真に聞くとは「頼め!助けるぞ!」との仏の召喚に、疑いの夢がさめること

人が人生の苦境を歩むとき、
胸中誰にも打ち明け難い秘密の苦悩を抱き、「世には私を助ける神も仏もいないのか!」と叫ぶような事態に遭遇したとき、

【私に頼め!助けるぞ!】の勅命が耳底に響き
「頼みます。助けて」の一念が発揮される
【頼む一念の信心】である
要するに信仰は頼む一念に極まる
信仰とは、頼み所なく窮する時に、頼むという願心にすがりついての助けてくださいの一念の外にはない

仏がたすけるとは、
【困りきっているあなたのその苦悩は、仏がすべて引き受ける。あなたは仏の計らいにまかせ、仏の力を頼り、安心してよろいしい】
という勅命である
困りきっている者にその召喚の勅命あり

頼るということが苦手な人や、自力我慢の根性の人などは、中心の心から、真に仏の救いを求める念が無いのである
要するにせっぱ詰まらず余裕があり、この世の苦は客観的な道理として見ている。他人事、真似事
種々の問題は余裕心の戯れ事

「頼め!助けるぞ!一心正念にして直ちに来い」の勅命は、「疑いなくすがれ」との御心である

仏とは
自分が助けてくれる仏を想い浮かべるのではなく、自分で作り出した概念でもない
自分は仏の本願(救い)の目的となっている身であり、自己は自己の自己ではなく、仏の自己なのだという自覚に入るべし
これ「仏の助けるぞ」の一念なり

人は仏を引き寄せる法身という磁石を持ち法身仏になれるが、罪は消滅しないので「私は仏だ!」と傲慢にはならない

2022-03-06 15:21:55 | 日記
このままの御助けとは
このままの外に御助けがあるのではなく、このままのそこに御助けがあること

このままというのは
罪のこのまま
このままの御助けとは
罪持ちながら御助けにあたること

人はみな
罪持ちながら
三悪の罪業を持ちながら
人間界に生を受けている身このまま
御助けがある法身なり
信ある人は法身仏なり

このままの御助けという言葉そのままが、仏の御心に帰入した信味なり
この境地が、このままの御助けという信なり
すなわち仏心凡心一体の一心なり

我らが仏を呼ぼうとする時
今、我らは仏に喚ばれ
我らが仏に近づこうとする時
今、仏は我らへ来る
我らが仏にすがろうとする時
今、仏は我らを引き寄せる

仏を観じる本は、宗教者の書く仏教解説本より、科学者の書く科学の本がいい

2022-03-06 14:39:11 | 日記
死ぬか生きるかの瀬戸際は
悠々なる議論を挟む余地はない
思案無し、推定なし、現実そのまま
信仰とは人生如実の相に当面し
仏の現実身に接触するときに
発せられる心情である

科学の本を読む時に、念仏自然に口にあふれ、仏教の本を読む時に、反って暖かい信仰心が破壊される心地

科学の本は着実に人間の本心を研究し、実相に近づいたものを書こうと勤め、宗教者の議論の多くは、経典の文句に執着して、活きた人生の問題に接触していない



絶対他力=私は絶対悪人で地獄からは助からない身だと気づくこと

2022-03-06 12:16:13 | 日記
我が心を眺めて「地獄には堕ちないであろう」の相見えたら、大いに痛んだ心である。悪魔外道に迷わされた心である
我が心を眺めて「地獄行きだ」と気づいたならば、既に光明中にあり

我が迷いの根本は、我が心を眺めて「善い所もある」と思うこと。この誤解から迷いは生じる
我は善い所もあるという思い上がる我が、我に善い所なしと気づくようになるのは、我れに仏が光明を照らしてくれたから

憍慢で頭下がらぬ身が、とても地獄からは助からない身と気づいて、頭下がるようになるのは、「我が心の善い所」ではない。下げさせてもらえる仏がおればこそである