るるの日記

なんでも書きます

人の生涯は分裂自我と(自我)と総合自我(大我)が連続する自我史

2022-03-07 11:24:41 | 日記
■分裂自我
西に向かいたいと欲する時に
東に向かいたいと欲する

酒を飲みたいと思う
だが酒を飲んでは体に悪いから飲まないでおこうと思う

これを分裂自我という
2面に分裂してその決断に苦しむ

■総合自我
2面に分裂することなく、西に向かう時は全心西に向かう
そのような自我をいう

Aという概念起きる
反して非Aという概念起き
Aと非Aの2念を総合したBという概念が成る時の自我を総合自我という

Bという概念に対してやがて非Bなる概念の並起する時にまた分裂自我となり、やがてCなる概念の出来たる時に総合自我となる

人の生活は分裂自我と、総合自我とが互いに起きて連続する自我史である

■分裂自我を主とした生活は
相対的生活を送る
善を見る時は善だけ。片面の悪は見えない。悪を見る時も同じ

★道徳
善悪二方面の分裂自我

★芸術
美醜二方面の分裂自我

★学術
真偽二方面の分裂自我

■総合自我を主とした生活は
絶対的生活を送り、宗教的
善悪両面を見、善悪一如を観ずる

善悪一如
美醜一如
真偽一如

■自力門は分裂自我に傾く
他力門は総合自我に属す
よって宗教が宗教としての本能を果たし得る宗教は、他力門の宗教である

■分裂自我は自力妄執し破滅を謀る自我である
ゆえに苦痛、迷いある
苦痛、迷いは自己破滅の苦痛、迷い

■総合自我は自我拡大の自我
矛盾総合の自我
自我といえど大我である
仏心、如来相、他力信仰
ゆえに安心、希望
自己永続の安心、希望

自他
主客
善悪
美醜
真偽
総合の自我、絶対、仏心

■総合自我に頼る生活が、時に退いて分裂自我に入っても、相対にして相対に非ず。小我にして小我に非ず円融無礙(完全に溶け合って何も妨げがない)の真生活に入る


念念称名常懺悔

2022-03-07 10:17:35 | 日記
人の造罪は2種あり
★思わず罪を犯す(過失の罪悪)
★罪と知り罪を犯す(故意の罪悪)

既に信仰に入っていても、仏には成っていないから煩悩は起き、罪悪も犯すだろうし、信仰によって猜疑心がわくことさえある
御恩を忘れている時に罪を犯すが
御恩を思いながら、故意に罪を犯すことは有り得ない

だから、、念念称名常懺悔

人の一切の罪悪は忘恩より犯す

親鸞聖人も信仰後、常に清浄な暮らしをしたわけではない
「愛欲の広海に沈没し
名利の大山に迷惑して
聚定の数に入ることを喜ばず
(聚定・必ず仏になる位)
真証之証を快まず
(真証之証・疑う余地のない証)
恥ずかし傷む可し」

信仰しても、しなくても
いつもいつも浅ましく
助かる縁のないこの身は
「私に頼め!助けるぞ!」と誓われた仏の大願業力のみを頼る外はない

念念称名常懺悔
念仏しながら妄念止まらぬ凡夫です
いかなる罪業も犯しかねる悪人です
だけど本願に接してよりは、欲の起こる下から謝る気が起こるようになりました。常に仏の御催促によって「あさましい自分」に気づかせて頂く。それでも尚強情にあさましい心を貫通したいということも、なきにしもあらず、、、

前業の心あるから、いかなる事をなすかわからない
罪悪の中から仏の慈愛の広大なることを味わわさせて頂くほかは無い






「無」とは何も無いではなく、何も知らないこと

2022-03-07 09:10:38 | 日記
■信仰界隈の風潮
★「今を生きる」など、生の観察から出発して恩寵観に入り、そこに止まる気運である

現在の恩寵のみを仏となし、過去における仏の願行の恩寵あることを味わわず、未来に浄土に至る恩寵を味わわず、現在安住の信仰の名のもとに得意になる
このような信仰は、無常の打撃に会い破壊される

真実金剛の信心は、過去を否定せず、未来の往生を楽しむ信味を有して、現在一刻の一念に味わうこと。過去、現在、未来に貫通する仏の慈悲への安心・感謝。これを現在安住というが、、感謝がわかなくても「俺を頼れ!助けるぞ!」と呼ぶ仏がいることを信じれば、自然に感謝してしまうだろう

★無
仏の「この世は絵空事、戯言、夢
真あること無し」というのは、この世を否定した虚無思想ではない。これは人の無常を探知された言葉である。何も無いではなく、常が無い

虚無思想は、「何も無いを決め込む」思想。仏の広大な慈悲も無いと決め込む。真理は無いではなく「知らない」のだ。だから恩知らずともなる
仏の慈悲は広大にして、私たちの小さな胸ではとうてい味わい尽くすことはでいないが、、

わからないなりに
「この恩知らずの私を、赦して救ってくださっている仏」の存在を信じれば、仏の慈悲の恩が胸に溢れ、自然に感謝してしまうだろう