私は火宅無常の世界に住む煩悩具足の凡夫だから、善と悪・正と邪などを見分ける智慧はありません
智慧あり、学力あり、一切の経文を理解し理路に達した人ならば、善・悪を見分けることもできるかもしれないけれど
このように間違いだらけの私でも、仏はもらさず救ってくださる
私の信仰によって自分を救うことはできません
私の虚偽の心のそのままに
如来に救われるのです
信仰の信念は浅くても、如来の本願は深いから、如来にたのめば救われます。如来の深い心に助けてもらうのです。私の浅い心のまま、如来の深い御心に助けられます
浅い心を深くしようとするのは、それは自力の執心。それは叶わぬため息で終わる
私たちは「助かりたい」の深い堅固な執心で助かるのではない。「助けたい。助けずにはおれない」の如来の永劫の執心により助けられるのです
だからこそ常に如来の救いは、私たちに降り注いでいます
信仰は如来が選択した誓願を
私たちの方から求め、聴聞して、仰ぎ、たのみ、すがること
この信心は他力の安心となり
間違いのまま、偽りのまま、浅いまま、変化するままに、他力の不思議に守られ導かれ、信楽を賜り、喜ばせて頂く
この心を絶対他力の信仰といいます