るるの日記

なんでも書きます

絶対他力の信仰は、如来の選択した誓願成就のためである。つまり如来の願いを叶えているということ

2022-03-08 11:28:29 | 日記
私は火宅無常の世界に住む煩悩具足の凡夫だから、善と悪・正と邪などを見分ける智慧はありません

智慧あり、学力あり、一切の経文を理解し理路に達した人ならば、善・悪を見分けることもできるかもしれないけれど

このように間違いだらけの私でも、仏はもらさず救ってくださる
私の信仰によって自分を救うことはできません
私の虚偽の心のそのままに
如来に救われるのです

信仰の信念は浅くても、如来の本願は深いから、如来にたのめば救われます。如来の深い心に助けてもらうのです。私の浅い心のまま、如来の深い御心に助けられます

浅い心を深くしようとするのは、それは自力の執心。それは叶わぬため息で終わる

私たちは「助かりたい」の深い堅固な執心で助かるのではない。「助けたい。助けずにはおれない」の如来の永劫の執心により助けられるのです
だからこそ常に如来の救いは、私たちに降り注いでいます

信仰は如来が選択した誓願を
私たちの方から求め、聴聞して、仰ぎ、たのみ、すがること
この信心は他力の安心となり
間違いのまま、偽りのまま、浅いまま、変化するままに、他力の不思議に守られ導かれ、信楽を賜り、喜ばせて頂く
この心を絶対他力の信仰といいます





他力信仰は、如来自身が誓願成就したのですから、信仰を値踏みしない

2022-03-08 10:37:36 | 日記
信仰を得たか信仰を得てないか
値踏みをしないで

自分の信仰は正義かと
値踏みしないで

自分の信仰はまことか偽りかと
値踏みしないで

自分の信仰は深いか浅いかと
値踏みしないで

信仰を値踏みすることは
自力の信仰です

他力の信仰は、如来自身の誓願力が成就したものであるから、自分の心に落ち着くものではありません
今だこのことが信じられなくとも、苦慮して値踏みしないで下さい
ただ、「私に頼め!救うぞ!救わねば正覚は取らず」の御力を聞けば、信心あり、なしと思う余地なく、ただ「おたすけありがたし」と了納するだけ



未来の幸せを得るための信仰から、過去から幸せだったという感謝の信仰へ

2022-03-08 10:17:00 | 日記
厭離穢土欣求浄土
この世を嫌い、極楽浄土を求める
この志願は、必ず通過する門です

だから宗教的な話を聞こうと志す人は、いかにして現世の苦悩を解脱して、安住の境地に入れるかを問う

現世の苦悩を解脱できないと嘆くあなたよ。いかに現世の苦悩を逃れて安住しようとしても、あなたの力では不可能ですよ。あなたは不可能なことを望んでいる
あなたの力の及ばないのだから
あなたは、この世にある限り苦悩すると覚悟して下さいね

だけどこの世に苦悩する、力ないあなたには「大悲救済の誓願」を起こした仏の光明に、常に変わらず照らされています

安住を理想や希望として求めるところに安住は来ません
なぜならば安住を未来に置いているからです
自己と安住を対比しているからです
煩悩具足罪悪深重のあなたが、六根清浄の仏にはなれない。よって安住は得られません。それはあなたが一番わかっているはずです

安住は過去からあると知れば
間違いなく安住を得ます
なぜなら煩悩具足罪悪深重のあなたに、仏が過去永劫から既に安住を建立していますから


念仏は未来に浄土に生まれる種ではない。過去からの安住極楽に気づかせて頂く今のあなた一人のための念仏です。弥陀の誓願不思議に助けられて安住ください

仏法は「未来の安住を得る」というような目的ではなく
過去からの苦悩と隔たりなく、あらゆる功徳・安楽・極楽・安住が、仏によって準備され満ちていたことを知ることです

絶対他力「主観的仏から客観的仏へ」

2022-03-08 09:01:11 | 日記
宗教は主観的事実であるが、俯瞰して見れば、世の一切の事象は宗教的意味を有している

自己の主観的宗教的信念は、世の一切の客観的事象のために発起させられていることを自覚すると、その信念は客観的真理の活動となる

信じても、信じなくても
如来は客観的に霊存する
如来を知らない者の上にも
如来を誹謗する者の上にも
如来は霊存する

如来に頼る、頼らないとは
如来を信じる、信じないによって
如来を主観で味わうかどうかの違いであり、主観で如来を味わわない者の上にも如来は客観的に霊在します

信念あって如来があるのではなく
如来あるがゆえに信念は発起する
如来が前、信念は後
「信楽を獲得する事は、如来選択の願心より発起す」

無きものを有ると信じるのではなく
有るものを有ると信じるのが信念である
未だ無い如来を造り出すのではなく
既に有る如来に気づかせて頂くのである
私のために成仏した如来が
私の上にいらっしゃると目覚めることである

仏は私のために計らうと信じると同時に、仏は一切の生類のために計らうと信じるに至り
「一仏成道して、法界を観見れば、草木国土ことごとく皆成仏す」の客観的真理を味わう

私は「仏を信じる者」から
私は「仏から信じられ、救われる身である」
と、自己の信念は客観的真理の表現となる。この信に入って始めて、何物にも恐れず、何事にも動かされない信にはいる