ある日、自分のすべてが崩壊し
罪悪深重煩悩の自分の、傲慢の頭が下がったとき、「そのままの自分が今、尊い慈悲の中に生かされているのだ」ということを思わされた
そして「尊い慈悲の中に生かされているのだ」と独り言を言った
その時、その尊い慈悲が、そこに輝いた。そしてその尊い慈悲に感応されて「百年の迷夢」を、一時に思い知らされ、涙に暮れた
過去のすべてが、慙愧と感謝に溶けた涙だった
そして「今日こそ死ぬときが来た。時が近づいた」と自然に思わされ、そう独り言を言った
それからは、すべてを投げ出し、泣き伏しさえすればよかった。それですべてが済むのだと感じた。それは理屈なしにそう感じた。その結果はどうなるのか、まるでわからなかった
ただ、自分を投げ出す
そうしさえすればよい
ことを直感した
しかし、慈悲に感応されている中で
「自分は今、夢から醒めかかっているのだ」と感じた。そして恐れた
「この慈悲の感激が無くなったら大変だ」
そして、とうとう恐れていたことがやって来た「慈悲の光も消え、感激も醒めてしまった」
木の木阿弥の自分だ
そのときの絶望、焦燥、闇
全体的な根本的な無明の闇を初めて感じた。今まで感じていた苦悩の闇にはまだ余裕があったと思い知らされた
全体的な根本的な無明の闇は、もうどうにもならない、絶対的なものだった
なぜそのような闇を感じたか?
その直前に光明に近づいたからだ
光に触れてのみしか、感じることのできない闇
また、こうした闇が痛感されだしたときは、知らずうちに光明が近づいているのである。あとはただその光明と一つになりさえすればいい
そうすれば即座に救いであり、解脱であり、闇は去って、光は再び消えない
ただ、一つになるという踏切が肝要なのである。そこに一線がある
私の場合は、まだ光に身も心も投げ出して、「南無」と、死にきる踏切がつかなかった。まだ己の残骸を抱いて仏の光明と対立していたのだ。だから光は消え、闇の自分に突き落とされた
「南無」と帰命する心も、自分の中から発することはできないもので、仏の大悲と、心魂が一つに徹するところに生まれるものである
肝腎の仏さまは、確かにあるに違いないと疑い無く思われたのであった
仏に近づいて感情が高揚したときは、歓喜もあり、念仏も出るものであるが、それだけでは歓喜は消える。歓喜は消え元より増した寂しさが来る
【南無と帰命する一念】が熟成すればすべては解決されますが、それは自分の力や、他人の力など人の力では越えることはできない一線で、因縁が熟するのを待たねばならない