るるの日記

なんでも書きます

概念だけだった仏が実在になった時に、帰命の一線が越えられるか?

2022-03-23 14:07:07 | 日記
ある日、自分のすべてが崩壊し
罪悪深重煩悩の自分の、傲慢の頭が下がったとき、「そのままの自分が今、尊い慈悲の中に生かされているのだ」ということを思わされた
そして「尊い慈悲の中に生かされているのだ」と独り言を言った

その時、その尊い慈悲が、そこに輝いた。そしてその尊い慈悲に感応されて「百年の迷夢」を、一時に思い知らされ、涙に暮れた
過去のすべてが、慙愧と感謝に溶けた涙だった
そして「今日こそ死ぬときが来た。時が近づいた」と自然に思わされ、そう独り言を言った

それからは、すべてを投げ出し、泣き伏しさえすればよかった。それですべてが済むのだと感じた。それは理屈なしにそう感じた。その結果はどうなるのか、まるでわからなかった

ただ、自分を投げ出す
そうしさえすればよい
ことを直感した

しかし、慈悲に感応されている中で
「自分は今、夢から醒めかかっているのだ」と感じた。そして恐れた
「この慈悲の感激が無くなったら大変だ」

そして、とうとう恐れていたことがやって来た「慈悲の光も消え、感激も醒めてしまった」
木の木阿弥の自分だ
そのときの絶望、焦燥、闇
全体的な根本的な無明の闇を初めて感じた。今まで感じていた苦悩の闇にはまだ余裕があったと思い知らされた
全体的な根本的な無明の闇は、もうどうにもならない、絶対的なものだった

なぜそのような闇を感じたか?
その直前に光明に近づいたからだ
光に触れてのみしか、感じることのできない闇

また、こうした闇が痛感されだしたときは、知らずうちに光明が近づいているのである。あとはただその光明と一つになりさえすればいい
そうすれば即座に救いであり、解脱であり、闇は去って、光は再び消えない
ただ、一つになるという踏切が肝要なのである。そこに一線がある

私の場合は、まだ光に身も心も投げ出して、「南無」と、死にきる踏切がつかなかった。まだ己の残骸を抱いて仏の光明と対立していたのだ。だから光は消え、闇の自分に突き落とされた

「南無」と帰命する心も、自分の中から発することはできないもので、仏の大悲と、心魂が一つに徹するところに生まれるものである

肝腎の仏さまは、確かにあるに違いないと疑い無く思われたのであった
仏に近づいて感情が高揚したときは、歓喜もあり、念仏も出るものであるが、それだけでは歓喜は消える。歓喜は消え元より増した寂しさが来る

【南無と帰命する一念】が熟成すればすべては解決されますが、それは自分の力や、他人の力など人の力では越えることはできない一線で、因縁が熟するのを待たねばならない

仏の存在は、火に触って熱いと感じるように、明瞭確かに実感する

2022-03-23 12:47:53 | 日記
私の「仏」とか「如来」という言葉は、ただ概念でしかなく、その言葉を念ずれば「ある情緒」は感じた
だが、それは自分の情緒
自己の観念所産の仏、如来
本当の仏、如来ではない

真実の仏に遇ったときは、観念は消えている。火に触って熱いと感じるように、明瞭確かに仏さまの実体を実感する。そのときに今までの迷妄な自分は死んで仏凡一体の新たな存在として生まれ替わる

仏教は結局、この体験が我々に興りえることを眼目としている。経典はこの体験を得た人が、どうにかしてこれを言い表そうとし、どうにかして同じ体験を叶えさせようとして書かれたものである

念仏を称えると「問題にする私」という立場が消える。だから問題が無くなる

2022-03-23 12:31:42 | 日記
人の今の環境は、業縁に束縛されて起こってきた。だからなかなか捨てることはできない

一切の業縁の束縛という障害を消して、仏の一道に転じてしまうのが念仏である。厭い捨てるもののない境地

苦を捨て、楽につき
悪を捨て、善につき
邪を捨て、正につき
穢を捨て、浄につき
「捨てて、つく」とするところに問題がある。問題にする立場そのものが消されて、もっと広々とした光明の広海に浮かび出したところに念仏がある

問題にする私の立場が消え、あとは仏の大きな本願が一つ仰がれてくる
「この世のこと、みな虚事、たわ言、まことあること無し。ただ念仏のみまこと」になった世界である

他の教えはみな、この境地になって初めて味わうことができる。これが不可思議の功徳に満たされた仏世界である

念仏は始末つけるべきことを、始末つけられた結果出てくる

2022-03-23 12:10:59 | 日記
真宗の教えは、常に物足りなく思っていた
「私は自分が念仏を称えられるかどうかは問題ではなく、自分の抱えている問題を、問題にして欲しい。自分には念仏が称えられなくても問題ではない」という気持ちだったからだ

現実の心や行為をどうにかしたかった。充実感を得たかった。それでそうした問題を扱ってくれる教えを他に求めた
禅宗、密教、スピリチュアルなどなど、、、私は迷った
救われるために、「自分の個性」に合う教えを探るにつれ、自分の個性の曖昧さがはっきりした。何も得れず、それでいて何も捨てることができない曖昧さがはっきりしてた

結局私は私であるよりほかはなく、様々な教えに触れても、内の煩悩の消えない自分がどこまでも存在するしかなかった、、、

「行に迷い、信に惑う、心暗く、さとり少く、悪重く、障害多い私」なのです

そんな自分の上に仏の慈悲は
甚だ近く垂れてあったのです
「煩悩具足の私は、どの行をしても、苦悩を離れられない。それを憐れみ願を起こされた仏の本意は、悪人成仏のため。他力をたのみ奉る悪人は、往生の因」

念仏を称えられるかどうかは、自分の持っているすべての苦悩の解決を意味する
【念仏は始末つけるべきことを、始末つけられた結果出てくるもの】だった
だから、ただ、念仏がありがたく称えられるようになりさえすればいい

昭和10年に発行された「仏教聖典を語る本」【やっと念仏を称えられるようになりました】

2022-03-23 11:34:07 | 日記


今の私の仏教に対する気持ちは
「私もやっと念仏を称えられるようになりました」です

「念仏を称えられるようになる」
その意味を知っている人なら
ただその言葉だけで、すべてが了解されるはず、、、

「念仏を称える」ということは
口に南無阿弥陀仏と出ることですが、その念仏は自分から称えてみようという気などはなかなか起きないし、称えてみる気になっても容易に出ないものである。なんだか、おかしいような、恥ずかしいような気がして口に出せない、、、
念仏は称えたい気が起こるまでが、なかなか難しい

内に動機があり、外に縁があって、意識して信仰を求めるようになり、だんだん称えられるようになる。そうして念仏を称えると気が安らかになるとか、何となく有り難い心持ちになるとか、念仏の功徳を経験する

念仏が称えられるようになるということは、仏に催されて自分が変化を受けたことの、自らの表現である
つまり、称えることに意味を見いだしたり、心が変化することを目的とした念仏行ではない

なぜなら人の業は、念仏を行として実践しても深い業障を負っているから、人の修行ではどうにもならない

深い内省を伴う深い信心からの念仏は、おのずからの現れとしての自然なのである