「どうして、、」と
愚痴の心が止まない
また、愚痴ばかり思って止まない自分自身が備えた罪の深さが思われて、未来も不安になる
せめて信仰をいただいて、この世は地獄でも、後生の安心を得たい】
というのが求心の動機だった
■身のほど知らずを知る
婦人は子に対しても、世間に対しても愚痴の心で、自分の罪悪感は少しも見えていない。心持ちが反対になって、今まで愚痴・憎悪の対象になっていた周囲のすべてが逆に自分の罪悪を思わせる縁になり、真に救済が必要な罪悪の凡夫は自分であるのだが、その身のほどを忘れて我を浄土に生まれさせたい、、
それが大きな間違いであったと
知れてきたときに、真実に本願の救済がいただかれて、往生決定の人となる
■愚痴や怒りの根本は愛欲
子息は母を仏法に導く善知識
罪の深いのは母であったと、子の前に頭が下がると、地獄的な怒りや愚痴からは救われる
愚痴や怒りの奥には愛欲があり、それが満たされないから愚痴となり怒りとなって現れる
愛を貪る煩悩は、自分に快感を伴うから、人間はこれを無くしたいとは決して思わない。それどころか増長させ満足させようとする。無意識的にそうなる
■愛欲は自分の根本
愛欲は「断じようと思う」こと、さえできない、、、美しい幻影のそばまで人を引き寄せて、途端に裏切り熱煩悩に沈ませる
その愛欲は自分というものの本質を形づくっているから、地獄は一定のすみかであるのは必然なのです
そんな自分を忘れて、浄土に往生できると思うのが大きな迷い
仏の慈悲を自分のために利用しようとする謗法の心である
そうした迷いを知らせるのが、見捨てぬ仏の慈悲。信仰しているではなく信仰に憧れているそのままが、罪悪深重の身であったと、真実に気づかされたとき、本願の大悲一つが、人の心魂に徹していただかれるのです
■婦人の嘆き
「何もかもが空になってしまった。今日まで何をして生きてきたんだろう。仏法も何もかもなくなってしまった、、どうしよう、、」
「よろずのこと、そらごと、たわごと、まことは無し。念仏のみこそ、まことにておられます。『すべてがそらごと』だと知れたのは、それは自分の知恵ではない。如来の智慧をたまわるからです。そらごと、をそらごとと知らないまま迷ってきたあなたは、今そのままで如来の御心に抱かれています」
■婦人自我からの最後の質問
「私は、迷いつづけて、苦しんできた。だからそれで、今まで通って来たところがすべて迷いだったと知ることができたと、どうしてもそう思われて仕方ありません」
五陰無我の教えを説く
「これは数珠です。しかし珠を糸でつないだものです。それと同じように、あなたは、、どこにもいないのです
珠を糸でつないだ全体が数珠
悪業煩悩の全体が自分
迷いも罪も苦しみも、そのすべての塊が自分です
だからそこに【如来大悲のおめあて】がある。ただ救うてやりたい如来心です」
久遠から悪業煩悩の数珠つなぎになったのが自分に、如来大悲のおめあてあがある