るるの日記

なんでも書きます

有無の破壊

2022-03-27 13:00:17 | 日記
■有るは、存在すること
花、草、煩悩、行為、、

■有るは自性を持っていると見る
自性とは本質(他と差別)
自性とは実体(存在の決定)
自性とは存在の内容
自性とは存在の背後の存在
自性とは識別できにくい

■具体的な存在の見方
花には花の
怒りには怒りの
喜びには喜びの
それぞれが他とは違う働きを持つ
それぞれが他とは違う姿を持つ
だからそれぞれが識別でき、存在が認識できる
そしてその具体的存在の、自性は有ると認識している

■ルルがいる
ルルにはルルの
(相)姿、働きがあり
(性)内容、宿業が有り
存在という意味が出てくる

■有ると見るは計らいだった
自性があるとするは計らいだった

■無いも計らい
自性の滅失である
「煩悩を滅して涅槃を得る」
の思想は有無の計らいがある

有無の計らいを棄てたら
「煩悩滅さず涅槃を得る」である

■有無も計らい
存在は生じ、滅しつつあり、滅するという事実があり
その事実はすべての存在の共通性だと見える

生じた→今まで無かった存在が、今有り始めた【本無く、今有る】

滅しつつある

滅する→今有る存在が、有ることを終息して無に還る【有りおわって無に還る】

生滅の見も、有無の見から成立

■生滅を滅するではなく
不生不滅の中道がいい
ルルは実は生まれてもいないし
滅してもいない状態
それは過去から未来まで変わらない
みたいなかんじ

■私の煩悩は自性ではない
宿業の束縛という因縁から、煩悩は発生したから自性ではない
自性は因縁で発生しない
因縁で発生したら自性ではない
だから変わる

■存在は無自性
だから実在しない
存在寂滅すれば因縁寂滅する

ルルは自性という特定された本質が無いから、どうとでも変わる
ただ、、今ルルは自分の存在を寂滅していないだけ、、それもどうとでも変わる

存在に自性有りと計らうから、生滅も存在する。だからがんばらなきゃならないが、やはり
生じも滅しもしないの中道がいい

生ずるとは有自性の存在が、どこからか来ること
滅するとは、どこかへ去り行く
生滅は來去に変わるだけ

■常住に仏まします。ルルもまします
寂滅法性法身の常住不壊
仏は色身で見るべからず
仏は來去せず。不動なり

無生は來去なし
無生は仏
無滅は來去なし
無滅は仏
空は來去なし
空は仏

ルルも過去からずっとそうだった
未来もずっと

■有我を棄てたから
自己についての來去も棄たる
一如の世界に入れば、もうただ
不退を決定させていただくのみ
全くの仏凡夫一体
「如来の自性は衆生の自性
如来は無自性。衆生も無自性」

有るは常住
無いは中断
有無にこだわるな
不常不断の中道を示す
有無の見の破壊

■周囲との関係について
一異を考えず関係を観察する
一異は有無の見
存在に自性があると見ることは
存在の別を見る
自他差別

何者も他との関係から離れられない
関係を考えるとは、他との別異でない証拠
全く別ならば別という意識もない
全く同一でも関係を考えない
関係を考えるということは、一切存在の同一性を感じているからだ










煩悩を敵にして戦うのは疲れる

2022-03-27 10:56:43 | 日記
無明とは、大癡暗(道理がわからない)。分別する思い
人は大癡暗な分別心によって、さまざまな虚妄の計らいをして、その結果煩悩が起こる
煩悩の一つ一つが
無明の因縁で働いている
無明な人は無明な答えを出す

ただ無明が晴れればいいだけ
無明がどうして晴れるのか
ただ如来の大慈悲に遇って、如来智慧をいただくから、無明の因縁が解かれる
ルルの場合は、暗い煩悩はあるが、如来の光明が明るくて、眩しくて、気にならなくなる境地

煩悩を敵にして戦うのは疲れる


心は煩悩に束縛され、煩悩は宿業に束縛され、宿業は無明に束縛され、無明は光が当たってないだけ

2022-03-27 10:30:48 | 日記
■【無明縁起】

無明に縁して宿業あり
宿業に縁して意識あり
意識があるから苦悩に満ちた身が集起している

無明の消滅から宿業の寂滅あり
宿業の寂滅から意識の寂滅あり
意識がないから苦悩に満ちた身が寂滅する

これは有無の分別ではわからない
実際に有る自分の意識が無くなるって、わけわかんない。死ぬってこと?と迷いにはまる

人間は分別意識を持つ
仏智は如来から賜り、人間の分別意識からつくり出すことはできない
人間は仏智を計らうことはできるが、仏智をつくり出すことはできない

人間の計らいの根本にある計らいを
「有無の見」と名づけ
「有無の見を破す」ことが
中論(中道)

如来の光明に照らされると
有無の見が棄たる

■有るって何だ?

何かがある
私がある
あなたがある
コップがある
有るよね

有るのを存在という
私は存在するし
私は生きている

■私は煩悩を絶滅させないために生まれた

生きている私には肉体と
その内容である意と識があり
そこに無量の煩悩が渦巻き
意識は煩悩に盲目的に支配され
ぐるぐると回転し
しかも静止できない

煩悩に支配され生きていると一時的な業(煩悩による行いの結果)がつくられ
その一時的な業が薫習され、宿業(煩悩の塊みたいな)となる

一つ一つの心の動きが宿業をつくる結果となる
心は煩悩に操作されている
心は煩悩をつくるマシーン
心は煩悩に束縛されている

そしてその煩悩の黒幕は宿業で
煩悩は宿業に操作されている
煩悩は宿業をつくるマシーン
煩悩は宿業に束縛されている

そしてその大元は無明

つまりルルは三重に束縛されている


■私は死ねない

こうした私が全て死んで無になれば楽だろうが、専門的煩悩の塊である【宿業】は、肉体が死んでもずーっと生きている。一つ一つの煩悩妄想は死なないから、それに関係した意識も死ねない。なので束縛された意識は、煩悩と相互に関係しながら存在しなければならない。再び人間に転生させられ、再び煩悩作成マシーンとして生きる

■「離してくれ!」

だから、この世に煩悩具足悪人の私という存在が生まれたのは、業によるむくいであり、煩悩具足悪人の私が再び煩悩による宿業を作り固めるためである
煩悩側としては絶やしたくないのだ

こうしてぐるぐる、ぐるぐると
輪廻転生する
業果の身からは同じ罪業の枝葉が現れるという必然
宿業

煩悩妄想は、宿業に束縛されている
宿業は無明から生まれる
よって私は三重の束縛を受けている

■「悟りましたが。だから何か?」みたいな気に止めない境地

の束縛は絶対に解くことはできる
如来光明によって一切の心身的存在は死ぬ。死ねる。やっと放される
一切の心身的存在が死ぬとは、物理的死ぬんじゃなくて、煩悩が無くなるんじゃなくて
煩悩具足のルルと、そこを離れたいルルを超えたルルに成ること
その境地は
有る無いを超えるというか
なるほど煩悩も如来の計らいだと思えて、必要なんだなという思いになるというか、煩悩があったから、煩悩が無くなったからそれがどうかしましたか?みたいな境地になる