マクロス外伝大本営 新統合軍極東太平洋軍管区司令部

マクロスやロボット大好きなブログです。二次創作などを主にやります。

公式ではなく非公式です。

赤松政秀

2018-06-18 13:42:19 | 戦国武将・戦国姫図鑑
赤松政秀
【諱】
政秀
【苗字】
赤松
【朝臣】

【生没】
1510年ー1570年
【父親】
赤松村秀
【母親】
不明
【兄弟】
平井祐利
川島頼村
【正室】
赤松晴政の娘
【子息】
赤松広貞
斎村政広
赤松祐高
足利義昭侍女
【解説】
播磨龍野赤松一族の当主赤松村秀の子として生まれる。
本家赤松家から分かれた一族であり、浦上氏の家臣となっていた。
父の村秀は祖父で当主で赤松政則の庶子であると由緒正しき家柄である。
智勇に優れた人物であり本家赤松氏で義父である赤松晴政を保護し。
晴政の嫡男である赤松義祐を擁立している浦上政宗を討伐し。
赤松本家の復興に貢献している。

ただ嫡男であり義兄弟である義祐とは仲が悪く。
義父晴政が死去すると対立し、織田信長や足利義昭と同盟を結び争った。

浦上氏の同盟者でもあった小寺政職や浦上宗景.別所安治らとも対立。
小寺氏との青山・土器山の戦いで小寺家臣黒田孝高の策略で大敗し降伏。
翌年に浦上宗景の手の者に毒殺された。
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大島光義

2018-05-11 23:17:57 | 戦国武将・戦国姫図鑑
大島光義
【諱】
光義
【苗字】
大島
【朝臣】

【生没】
1508年ー1604年
【通称】
新八郎
【父親】
大島光宗
【母親】
不明
【正室】
不明
【子息】
大島光成
大島光政
大島光俊
大島光朝
娘(蒔田広定)室
【養子】
大島吉綱
【解説】
美濃国山県郡に生まれる。
一族は清和源氏源義国流新田氏の一族である大島氏。
父光宗が山県合戦で多くの家臣と共に戦死、縁者大杉弾正に育てられる。
美濃国人の戦いでは弓矢で多くの武将を討ちとり、光義は弓矢に優れた武将になる。
美濃斎藤氏一族長井道利に仕え佐藤忠能.佐藤忠康ら加治田衆と織田軍の援軍斎藤利治(斎藤道三の息子)との関・加治田合戦に従軍。
斎藤家滅亡後、織田信長の家臣になり姉川の戦いや志賀の陣で戦功をあげ。
江北、越前、長篠の戦いでも活躍し、安土城の築城に関わる。
射芸をもって数度戦功の賞として100石の領土が与えられる。

本能寺の変が起きると安土城にいた光義は一揆勢を討ち破り脱出。
その後斎藤利堯(斎藤道三の息子)に味方し森長可と加治田・兼山合戦で戦い勝利。
賤ヶ岳の戦いに丹羽長秀配下として従軍し8000石が与えられ。
秀吉に召し出され6000石が与えられ出世コースを歩む。
小田原征伐と朝鮮出兵に参陣。
この頃に大名になっていた。

関ヶ原の戦いでは嫡男光成と共に参戦。
なんと93歳での出陣であり、家族を人質に取られながらも東軍として戦い戦功をあげる。
功績として1万8000石が与えられ豊後国臼杵城主に推挙されるが光義は辞退される。
関ヶ原の戦いから1年後、徳川家康に堀尾可晴、猪子一時、船越景直らと共に呼び出されると。
長年の昔話をしたと言われている。

1604年に死去、97歳と言う長寿であった。
生涯戦いに挑んだ回数は53回、41通の感状が与えられたと言う。
家督は光成が継いだが息子達に分配した結果大島氏は大名として消滅する。
養子である大島吉綱は大島流槍術を創設している。
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河窪信俊

2018-04-30 20:19:38 | 戦国武将・戦国姫図鑑


河窪信俊
【諱】
信俊
【苗字】
河窪
【朝臣】

【生没】
1564年ー1639年
【通称】
与左衛門
【父親】
河窪信実
【母親】
染土河内守の娘
【兄弟】
小笠原長巨室
【正室】
松尾信是の娘
【子息】
河窪信雄
河窪信世
河窪信房
河窪信宅
河窪信次
河窪信通
河窪信本


【解説】
河窪信実の嫡男として生まれる。
武田信玄は伯父で、武田家の後見人武田勝頼は従兄弟の関係にある。
信玄に信頼されていた伯父松尾信是が死去し、娘婿となり遺領を相続する。
9歳の時に父が戦死、松尾領と共に相続する。
18歳の時に従兄弟勝頼が自害し武田家が滅亡した。
徹底的に武田一族を殲滅しようとした織田信長の残党狩りをやり過ごす日々を送る。
本能寺の変で旧武田領土が政治的空白地になると徳川家康の家臣になり。
北条氏・上杉氏・真田氏の思惑が交差する天正壬午の乱で柴田康忠配下になり。
佐久郡前山の戦い.蘆田小屋の戦い.小諸城の戦い.岩尾城の戦いで一番やりとして活躍。
功績が認められ甲斐国に新しい領土が与えられる。
小牧長久手の戦いで羽柴軍の首を3つ討ちとり、小田原征伐.岩槻城の戦いに参戦。
北条氏房の家臣伊達房実(大和田伊達氏で伊達政宗と遠縁の一族)配下である。
山口平内を討ちとるなど貢献、関東移封には武蔵国比企郡.加美群に領土を移す。
九戸政実の乱に岩出山城まで出陣。
関ヶ原の戦いや大坂冬の陣.夏の陣に参加するなどの大戦に参加。
伏見城大番頭として出仕し、1600石の旗本しての余生を過ごす。

子宝に恵まれ信雄が旗本になったのを始め紀州徳川家.水戸徳川家に仕えており。
孫である河窪信貞が武田姓に復している。

【武田姓について】


信長の忍び第12巻から第13巻に登場する父河窪信実は何故か武田姓になっている。
武田信実と言う人物は同じ武田一族である安芸武田氏武田元光の次男である。

甲斐武田氏の武田信実は甲斐国河窪村の領土を与えられ河窪姓である。
武士は独立性が強く、同じ兄弟でも殆どが違う苗字になっている場合がある。
伯父にも松尾姓や一条姓がいる程。

重野先生は歴史に関して素晴らしい物であるが。
これはきちんとした方がいい。
武田信実は戦国時代に二人いるので混合しないためにも河窪姓にした方がいいです。

なお信実の曾孫信貞が武田姓に復姓したのは34歳の時である。
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森忠政

2018-04-13 12:53:40 | 戦国武将・戦国姫図鑑
森忠政
【諱】
忠政
【苗字】

【生没】
1570年ー1634年
【父親】
森可成
【母親】
えい
【兄弟】
森可隆
森長可
森成利
森長隆
森長氏
うめ(関成政室)
碧松院(中川清秀室)
【正室】
チボ
【子息】
森重政
虎松
森忠広
黒(森長信室)
菊(鳥居忠恒室)
宮(池田長幸室)
郷(関成次室)
法光院(本多忠義室)
【養子】
森長継
【解説】
森可成の6男として生まれる。
河内源氏一族源義家の4世孫の森頼定を祖とした一族で、同じ一族に毛利良勝がいる。
父は忠政が生まれた年に討ち死にする。
石山合戦で講和条件で森家ゆかりの者を僧籍に入れるという事で僧籍に入るが。
関成政の子竹若丸が代わりに入り還俗している。
織田信長の小姓として3人の兄と共に出仕するが、同僚の梁田河内守にからかわれ激怒して信長の前で扇子で殴る事件が起きる。
幼いともあって美濃国の母えいの元に帰り、後に本能寺の変で巻き込まれずに済む事になる。
兄長可が小牧長久手の戦いで戦死、森家の生き残りは忠政だけになったので家督を相続する。
本能寺の変で安土城を脱出の際に助けてくれた甲賀忍者伴惟安とその息子惟利を仕官させ。
各務元正や林為忠の両家老がつけられた。
富山の役にて1500名を率いて出陣、これが忠政の初陣となる。
羽柴姓を名乗る事が認められ、羽柴忠政と称した。
小田原征伐に参加し、朝鮮出兵では名護屋城に参陣。
豊臣秀吉の死後、徳川家康に接近し東軍に参加した。
小早川秀秋の死で津山藩が改易されると領地の川中島から転封する。
領地に入るが宇喜多秀家の旧臣や在郷土豪が反発。
元小早川家臣難波宗守が率いる一揆勢が忠政を津山に入らせないため国境を封鎖する。
忠政は鎮圧を進め、難波の自害で終息する。
しばらくは津山藩は荒れており、家老達の殺し合いが起き。
大塚丹後守の裁量により落ち着くが、忠政は激怒し3家老は領地没収した。
こうした事もあり、新たな家の支えが必要となり。
兄長可と不仲になり家を出て幕府旗本になっている叔父森可政の津山藩入りを希望。
幕府はそれを認め、可政に津山入りを認め4男の森可春に3000石を与える。
可政の津山藩入りの後、藩政は落ち着くようになる。
大坂の陣では池田忠継ら西国の大名の軍勢に従軍する。
大坂城に近づくも銃撃され、軍令を犯してしまう事態が発生。
軍監の城昌茂に制止されたり水野勝成に叱責される。
1616年に13年かけて建築した津山城が完成する。
美濃職人町や大坂・尾張の職人を呼んで新職人町の作製する。
しかし後継ぎ問題が起こり、森忠広が子無く亡くなり。
下手すれば改易する危険性があったが、関家継を森長継として養子に迎える事に成功する。
堀尾忠晴が子なく亡くなり改易されるとその領地に入る話が入る。
乗り気ではないが話を了承する。
しかし、正式な会合の前に忠政は食中毒で亡くなる。
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山県昌景

2018-04-12 12:59:18 | 戦国武将・戦国姫図鑑
山県昌景
【諱】
昌景
【苗字】
山県
【朝臣】

【生没】
1529年ー1575年
【通称】
源四郎
【父親】
飯富道悦
【母親】
不明
【兄弟】
飯富虎昌
【正室】
不明
【子息】
山県昌満
山県昌久
山県昌重
山県信継
三枝守友室
相木昌朝室
横田尹松室
【養子】
山県定昌
山県太郎右衛門
【解説】
飯富道悦の次男とされ飯富虎昌の弟とされるが、出自には謎が多い。
安芸武田家家臣で安芸山県一族(山縣有朋らがいる)の山県重秋の子とされるが定かではない。
甲陽軍鑑では武田信玄の近習として仕え、伊奈攻めで初陣を果たしたと言う。
その功績もあり侍大将に抜擢され・・・・

「源四郎赴くところ敵なし」

と言われるほどの猛将になったと言う。
順調に出世コースを進み譜代家老衆という役柄の大将までに成長する。
1564年に飛騨国へ侵攻し江間氏や三木氏などの一族を降している。
そんな中である。

今川義元が桶狭間の戦いで戦死し武田信玄ら主派が今川攻めを計画する。
それに不満に思ったのが今川義元の娘婿で信玄の嫡男武田義信。
兄虎昌は義信の傅役であり、信玄を祖父武田信虎のように追放しようとする事が発覚し成敗される。
信玄は昌景に信虎の代に断絶した山県氏の家督と虎昌の赤ぞ備え部隊を存続する事を許される。

西上野侵攻
駿河侵攻
相模北条氏との抗争などに参加。
1569年に駿河国江尻城城代に任じられる。

武田信玄による大規模な遠江・三河国侵攻では山家三方衆(奥平氏・長篠菅沼氏・田峰菅沼氏の3氏)を服属させ。
西上作戦では別動部隊を率いて信濃国から三河国に侵攻し浜松城を圧迫する信玄本隊へ合流。
三方ヶ原の戦いでは徳川軍に苦戦するが義信に代わって後継者になった武田勝頼に助けられた。

信玄没後の明智城の戦いでは織田信長率いる3万人の部隊に対し山岳を利用し6000人の兵で撃退に成功した。
長篠の戦いでは内藤昌豊・馬場信春・原昌胤・小山田信茂らと共に撤退を進言するが、勝頼の側近長坂光堅や跡部勝資ら主戦派の意見を採用し決戦を行う事になる。
決戦が始まり昌景は戦いの中で戦死、家臣志村光家により首を奪われないようにさせる。
【人物】
◆赤備え
赤備えは後世に影響を与え、徳川家の井伊直政や真田家の真田信繁らにより採用されている。
◆容貌
武勇に優れるが身長は130cmの小柄で、兎唇の醜男だったとされる。
【逸話】
◆一騎討ち
川中島の戦いで上杉家の猛将鬼小島弥太郎と一騎討ちを行っている。
義信が苦戦しているのを見て救援に向かうため勝負を預けたいと言うと。
小太郎は承諾、昌景は・・・・

「花も実もある勇士」

と弥太郎を評した。
◆白い猿
飛騨攻めで披露で士気が低下していると突然現れた猿が昌景を導き。
そこにあった温泉に入って披露回復をしたという。
その温泉は平湯温泉だと言われている。
なお昌景の子信継の子孫は山県館という温泉旅館を経営している。
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津軽為信

2018-04-10 19:52:03 | 戦国武将・戦国姫図鑑
津軽為信
【諱】
為信
【苗字】
津軽
【朝臣】
藤原?
源?
【生没】
1550年ー1608年
【通称】
不明
【父親】
大浦守信
【養父】
大浦為則
【母親】
不明
【正室】
阿保良
【子息】
津軽信建
津軽信堅
津軽信枚
冨(津軽建広室)
娘(兼子盛久室)
【解説】
津軽為信の生まれは大浦氏であるが、謎に包まれている。
久慈氏の出とも、大浦守信の子とも言われている。
大浦為則の養子になり、大浦城主になる。
南部家に仕えていた大浦一族だが、自分の支城堀越城から出撃し。
石川城の工事に装いながら、南部一族石川高信を自害に追い込み独立する。
それだけではなく浪岡御所・北畠顕村をも自害に追い込んだ。
更に言うならば石川高信は南部家を継いだ南部信直の実父であり後に問題を起こす。
南部家の家督問題で為信は九戸実親を支持し、それが謀反を起こす危険性と。
討伐されるくらいなら独立してやると、南部家から独立する。
信直は討伐しようとするも、実親の兄九戸政実が不満に思っており。
為信討伐ができず、為信は津軽地方を易々と奪い取ってしまう。
義弟の溺死や浅利氏の妨害といろいろあったが、安東氏の秋田実季と和睦し。
体制を整えると、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣し所領安堵される。
石田三成とは親密となり、後に関ヶ原の戦いで三成の子である重成を保護している。
南部氏は為信の独立する事を認めず後に現在も続く因縁が生まれる。
関ヶ原の戦いでは東軍に参加、石田三成の遺児重成らを保護している。
信建の看病のため上洛するが、会う前に死去。
それから2ヶ月後、為信も死去する。

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八戸政栄

2018-04-09 12:55:10 | 戦国武将・戦国姫図鑑
八戸政栄
【諱】
政栄
【苗字】
八戸
【朝臣】

【生没】
1543年ー1610年
【官位】
薩摩守
【父親】
新田行政
【養父】
八戸勝義
【母親】
不明
【兄弟】
新田政盛
【子息】
八戸直栄
八戸直政
【解説】
南部一族八戸氏の庶流新田行政の子として生まれる。
本家八戸勝義に男子がなく、養子となり八戸氏の家督を相続する。
八戸氏の本家南部氏の当主南部晴政が亡くなり、その後息子南部晴継が立て続けに亡くなる。
政栄は本家当主にしようとする声があったが同じ南部一族である北信愛に説得され。
以後は南部氏を存続した南部信直の右腕になる。
と言っても、信愛の父北致愛は本当なら家督相続した立場であり。
八戸信長により、当主になれなかったので復讐とも言える。
豊臣秀吉の小田原征伐では信直に小田原征伐に参加するように求めたと言う。
1610年に亡くなるが、盲目とは言え驚異的存在で。
信愛が置かれる程の大物的存在だったと言う。

なお後年の南部八戸藩の南部氏は政栄の子孫ではない。
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北信景

2018-04-06 22:40:29 | 戦国武将・戦国姫図鑑
北信景
【諱】
信景
【苗字】

【朝臣】

【生没】
1575年ー1615年
【通称】
十左衛門
【父親】
桜庭光康
【養父】
北信愛
【母親】
不明
【兄弟】
桜庭直綱
所佐エ門
桜庭光忠
【正室】
不明
【子息】
北十蔵
【解説】
宇多源氏一族の流れを組む桜庭光康の子として生まれる。
北信愛の養子になり、南部信直に仕える。
伊達政宗が関ヶ原の戦いに乗じて扇動した岩崎一揆では苦戦する養父信愛を救援に向かっている。
白根金山を発見しその奉行となって盛岡藩の財政を支えるが南部利直とは仲が悪く。
ある時、南部利直の食事に大豆サイズの小石が混ざり魚の骨がある事件が起きた。
利直は激怒し信景の元服直前の子十蔵に料理人を殺害するように命じる。
無事に料理人を殺害に成功するが十蔵は怪我が元で亡くなる。
信景はショックで閉じこもると利直は激怒閉門処分にし。
信景は出奔し豊臣家に仕える。
大坂の陣では南部十左衛門信景と名乗って派手な甲冑を身に付けて活躍した。
その事から南部の光り武者と呼ばれる。
戦いの後、伊勢で捕らえられ利直の手で処刑される。
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北信愛

2018-04-05 22:05:16 | 戦国武将・戦国姫図鑑
北信愛
【諱】
信愛
【苗字】

【朝臣】

【生没】
1523年ー1613年
【通称】
剣吉彦太郎
【父親】
北致愛
【母親】
不明
【兄弟】
桜庭光康室
【正室】
南氏の娘
【子息】
北愛一
北秀愛
北直継
北愛邦
種市愛久
【養子】
北信景
【解説】
北致愛の嫡男として生まれる。
父は南部本家当主南部信義の嫡男であった。
しかし、祖父の死後の次の日で生まれ八戸信長の進言もあり相続せず。
祖父の弟である南部政康が本家を相続した。
そんな環境下で生まれ信愛であるが・・・本家を奪う気なく・・・・
屋裏の変で南部晴政から不信の目で持たれ暗殺の危機に陥っている田子信直(南部信直)を助け晴政と対立し。
死後、晴政の子晴継の烏帽子親として加冠の儀を執り行っている。
晴継が早世し相続問題が起こり、信愛は信直の側近として仕えるようになる。
そして、前田利家に謁見し鷹を献上し豊臣秀吉に南部家が追従する意思があると伝えている。
上記の通りもあってか、信愛は南部家における外務担当官であったと伺える。
花巻城代を勤めていた次男秀愛が亡くなり花巻城代8000石を有した。
1599年に信直が亡くなり歳もあってか隠居しようとするが。
南部利直に止められ剃髪して松斎と称しながら仕える。
背景には八戸氏に対抗する人物がいないとされるからである。
関ヶ原の戦いでは南部家が東軍に参加したに伴い花巻城を守備する。
しかし、同じ東軍である伊達政宗が扇動した和賀忠親が一揆勢が攻めてくる岩崎一揆がおこる。
東北の関ヶ原とされる慶長出羽合戦で南部軍主力が南部領内から出払っており。
一揆勢1000名に対し僅か数十人しかいなかった。
柏山明助の通報により信愛は迎え撃つ態勢を整え。
二ノ丸、三の丸陥落を受けるも自らの策を駆使して撃退に成功する。
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細川忠興

2018-03-31 05:26:11 | 戦国武将・戦国姫図鑑
細川忠興
【諱】
忠興
【苗字】
細川
【朝臣】

【生没】
1563年ー1645年
【通称】
与一郎
【父親】
細川藤孝
【母親】
沼田麝香
【養父】
細川輝経
【兄弟】
細川興元
細川幸隆
細川孝之
伊也(一色義定のち吉田兼治室)
女(木下延俊室)
女(長岡好重(藤孝の実弟)室)
女(長岡孝以のち小笠原長良室)
【正室】
明智玉子
【子息】
細川忠隆=細川内膳家
細川興秋=細川興元養子
細川忠利=熊本藩細川家
細川立孝=宇土藩細川家
細川興孝=細川(長岡)刑部家
松井寄之=松井興長養子
おちょう(前野景定室)
こほ(松井興長室)
たら(稲葉一通室)
まん(烏丸光賢室)
【解説】
生誕
室町幕府13代将軍足利義輝に仕えた細川藤考の子として生まれる。
そして同族である細川奥州家細川輝経の養子となる。
足利義輝が暗殺されると父藤孝や明智光秀らと協力し。
足利義昭を織田信長を利用して15代将軍として擁立。
後に対立し父が義昭から離れ信長の家臣になると、自身は織田信忠の配下にされる。
織田家臣時代
1577年、14歳の時に紀州征伐にて初陣を飾る。
叛乱を起こした松永久秀の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父やその明智光秀と共に攻め落とし素晴らしい戦果を得たので感状を賜っている。
1578年に元服し信忠から忠を賜り忠興と名乗り、同年明智光秀の娘玉と結婚した。
信長の命により九曜を定紋にし家紋になるが、以前に信長の小刀に描かれていた九曜を忠興が気にいったためそれを覚えていたからと言われる。
父と共に丹後守護大名である建部山城城主・一色義道を滅ぼし。
その功績で父は丹後南半国の領主になる。
織田権威の軍事パレードである京都御馬揃えにも若年ながら妹婿一色満信(義定)ら共に参加。
この時信長が着た「蜀紅の錦の小袖」は、忠興が京で探し求めて信長に献上した物だと言う。
本能寺の変
義父明智光秀が織田信長に対し本能寺を強襲し自害に追い込み。
続いて忠興の主君であった織田信忠を二条城で自害に追い込んだ。
光秀は娘婿であった忠興を理由に味方に誘われるが父と共に拒否。
玉を幽閉する事態になっている。
結果光秀は敗北、同じ光秀の婿であり内通を疑われ殺害された津田信澄と異なり。
連座処分になる事はなかった。
父の隠居で丹後宮津城主となり、妹婿であり光秀側に付いた満信を殺害し。
その功績で羽柴秀吉から丹後全域の領有を許された。
その際に妹伊也が戻ってくるが、怒りが原因で傷を負わされ。
以後、その傷は周りからの忠興関連のタブー視される事になった。
豊臣政権下
小牧・長久手の戦いに参加、従四位下・侍従に叙任し秀吉から羽柴姓を与えられ七将に数えられた。
ちなみに七将とは・・・・・・豊臣秀吉子飼いの猛将7人を指し構成された人物は・・・
福島正則(尾張清洲城主)
加藤清正(肥後熊本城主)
池田輝政(三河吉田城主)
細川忠興(丹後宮津城主)
浅野幸長(甲斐甲府城主)
加藤嘉明(伊予松山城主)
黒田長政(豊前中津城主)

となっており、後に全員は関ヶ原の戦い直前に石田三成らと対立し東軍に付く事になる。
その後九州征伐や小田原征伐に従軍した。
朝鮮出兵では第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取った。
秀次事件で豊臣秀次ら一族が粛清されると、忠興は秀次に借金があり追及される。
家臣松井康之が奔走し、金子を用立て秀吉に返納するがそれに力を貸したのが徳川家康である。
秀吉が死去すると他の七将の面々と共に政敵石田三成邸を襲撃。
同年、家康の力により後国杵6万石が与えられ松井康之・有吉立行を置いた。
関ヶ原の戦い
徳川家康からの「味方につけば丹後の隣国である但馬一国を進ぜよう」と言われ東軍に参加した。
妻玉と父藤孝が京におり、今後どう影響するか注目されていたが。
忠興が東軍参加表明に豊臣恩顧の大名に影響与えたと言われている。
大坂城内の玉造の細川屋敷にいた妻の玉が西軍の襲撃を受け、自害する悲劇に見舞われている。
護衛であり稲富流砲術の開祖稲富祐直が敵方に弟子がいたので助けられ逃げ。
嫡男忠隆の正室千世が実家前田屋敷に逃亡し、その2件で忠隆は激怒し。
稲富を殺害しようとしたり、忠隆に離縁を求め拒否されると廃嫡する。
稲富は家康に仕え、難を逃れ。
妻と離縁し嫡男熊千代を失った忠隆とは25年間親子の縁を切り、和解したのは32年後の事であった。
忠隆の子忠恒、忠春は熊本藩一門家臣として仕える。

話を戻し関ヶ原の戦いでは丹後田辺城に籠城した父藤孝と弟幸隆は懸命に奮戦するが。
幽斎の討死と古今伝授の断絶を恐れていた八条宮智仁親王やその兄後陽成天皇が開城する勅命を出し合戦前に開城し。
飛び地領地の杵築城が西軍側である大友吉統に攻撃されたが、松井康之と有吉立行が防戦に尽くし黒田如水の救援により守り切り。
本戦では忠興は136の首を討ちとったという。
戦後
転封され豊前国中津33万9000石と杵築合わせ39万石の大名になる。
なお前の領主である黒田長政によって年貢が持ち去られており年貢の返還をめぐって筑前商人を抑留するトラブルが発生している。
弟幸隆を竜王城の城主として同じく弟の孝之を香春岳城の城主などと領内の防衛強化を図る。
徳川政権
1611年に伏見城の徳川家康の元へ祗候するために上洛をした時に持病に倒れる。
本多正純を通して漢方薬の万病円を忠興に遣わし、快復しその日のうちに家康に礼を述べた。
1615年に大坂の陣に参加、次男興秋が大坂方につき戦後に切腹させている。
三男の忠利に家督を譲って隠居し出家する。
隠居して分割された領地は細川立孝が入り、死後宇土藩が設立している。
なお立孝の子孫は細川本家に養子に入っている。
83歳で亡くなるが、臨終の際に「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」と最後まで戦国武将としての心意気を失っていなかったと言う。
【人物】
性格
『茶道四祖伝書』によると「忠興は天下一気が短い人で、反対に気が長いのは蒲生氏郷である」と短気な人物であったと言われる。
光秀から丹波平定の際に「降伏してくる者を無闇に殺してはならぬ」と戦場でも非人道的行為していた可能性が高い。
事実、丹後の同じ足利一門であり妹婿満信を騙し討ちにし敗残兵を虐殺した。
そのせいか、身内の者にも容赦を加えない苛烈である事から弟興元とは不仲であり、妹の伊也が夫を殺害された事を恨み斬りつけられる程である。
晩年は丸くなっていた様子。
文化人であるためいろんな人と交流関係を持ち、幕府重鎮の土井利勝や遠戚関係にあった春日局など交流関係を持っていたと言う。
【子孫】

(竹田宮恒徳王)

(北白川宮道久王)

(朝香宮孚彦親王)
東久邇宮信彦王を含めこの4人の親王殿下は明治天皇の孫であるため細川忠興の子孫である
明治天皇
大正天皇
昭和天皇
今上天皇
竹田恒泰
東久邇信彦
細川護熙(内閣総理大臣)
細川護久(義族議員)
など
などと日本の権威である№1と№2がいる。
数々の皇族方が子孫におられるが、中でも今上陛下や細川護熙総理が一番有名であろう。
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末次元康

2018-03-13 19:29:59 | 戦国武将・戦国姫図鑑
末次元康
【諱】
元康
【苗字】
末次
【朝臣】
大江
【生没】
1560年ー1601年
【通称】
七郎兵衛尉
【父親】
毛利元就
【母親】
三吉氏娘
【兄弟】
女子
毛利隆元、
五龍局(宍戸隆家正室)
吉川元春
小早川隆景
上原元将室
二宮就辰
穂井田元清
毛利元秋
出羽元倶
天野元政
毛利秀包
【正室】
杉原盛重娘
【子息】
毛利元宣
【解説】
毛利元就の8男として生まれる。
末次城を与えられ末次元康と名乗った。
吉川元春に従い因幡国宮石城を攻め初陣を飾る。
四国攻めの時に南条直秀に伯耆国河原山城を奪われ奪還し功績を得る。
朝鮮出兵で甥毛利輝元の名代として出陣。
1000人余りを討ちとり秀吉から感状を賜っている。
王子山城を築城しそこを本拠とし、息子毛利元宣が生まれている。
秀吉の死後に起こった関ヶ原の戦いでは西軍に属し伏見城の戦いに参陣している。
大津城の戦いに参加するが、西軍は敗北。
減封に伴い1万石の領土を与えられる。
翌年に死去。
子孫は厚狭毛利家として一門家老として毛利本家を支えた。
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毛利秀包

2018-03-13 05:53:36 | 戦国武将・戦国姫図鑑
毛利秀包
【諱】
秀包
【苗字】
毛利
【生没】
1567年ー1601年
【通称】
藤四郎
【朝臣】
大江
【父親】
毛利元就
【母親】
乃美大方
【兄弟】
長女
毛利隆元
五龍局(宍戸隆家正室)
吉川元春
小早川隆景
二宮就辰
穂井田元清
毛利元秋
出羽元倶
天野元政
末次元康
三女(上原元将室)
【正室】
桂姫
【子息】
毛利元鎮
毛利元貞
小早川能久、
女(毛利元景正室)
於佐手(吉田壱岐守室)
【解説】
毛利元就の9男として生まれる。
国人・大田英綱が死去し、家臣である平対馬守と渡辺河内守に懇願され大田元綱と名乗る。
その後、母が小早川氏の庶流乃美氏の出身のため兄の養子になり小早川元総と名乗る。
兄から椋梨景家・亀門景信・横山景義などの家臣がつけられる。
人質として甥の吉川広家と共に大坂の羽柴秀吉の下に送られた。
その際に秀吉から「秀」の字を賜り、秀包と改名した。
小牧・長久手の戦いや5月の竹鼻城水攻に羽柴軍として参加するが。
母が早期に戻るように嘆願する程心配された。
容姿に秀で秀吉に優遇され雑賀討伐に参戦。
長宗我部元親の家臣花房親兵衛を討ち取り大名として取り立てられる。
久留米城を築き、居城とし本拠とする。
肥後国人一揆で鎮圧軍として立花宗茂と共に戦功をあげ義兄弟の契りを結ぶ。
朝鮮出兵に参加。
。碧蹄館の戦いでは隆景、立花宗茂と共に明軍を撃破し功績で加増され筑後守に任ぜられる。
秀吉が死去し撤退することになるが、味方が孤立していると知り。
島津義弘らと水軍を編成し救援に向かっている。
関ヶ原の戦いでは西軍につき、京極高次が守る大津城を攻めている。
黒田如水、鍋島直茂率いる軍勢に居城を攻められ。
戦後改易になり小早川秀秋の裏切りの風を避けるべく毛利姓を名乗っている。
35歳の若さで病死。

子孫は吉敷毛利家として毛利家に仕えた。
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穴山信君

2018-02-17 19:13:07 | 戦国武将・戦国姫図鑑
穴山信君
【諱】
信君
【苗字】
穴山
【朝臣】

【生没】
1541年ー1582年
【通称】
彦六郎
【父親】
穴山信友、
【母親】
南松院(武田信玄姉)
【兄弟】
穴山信嘉
穴山彦九郎
【正室】
見性院
【子息】
武田信治
武田信親室
【解説】
甲斐武田氏の一族穴山氏当主穴山信友の嫡男として生まれる。
武田信玄の姉の娘なので、信玄から見れば甥である。
河内地方を統治し、甲斐武田氏とは異なる体制下を作っていた。
第四次川中島の戦いでは本陣を守り、義信事件で弟信嘉が義信に連座し自害する。
内通を試みた今川家臣や徳川氏の連絡係として活動。
山県昌景の後任として江尻城代になり支城領としての「江尻領」を形成する。
長篠の戦いでは決戦を主張する勝頼に異を唱え。

決戦になり敗色が濃くなると、戦線を離脱。
それを聞いた高坂昌信が同様に離脱した武田信豊と共に切腹を勝頼に要求している。

その後、何も特に記録はないが。
その間に勝頼から寵愛を受けていた長坂光堅、跡部勝資らを憎み。
織田信長に内通。
織田信忠の甲斐侵攻に際して人質を解放し、織田・徳川に降伏。
息子信治を甲斐武田家滅亡後の当主にする決まりを取りつけた。

戦後、御礼言上のため家康に随行して上洛。
織田信長に謁見し堺見物を行うが、本能寺の変が勃発。

家康らと分かれ別ルートから本拠地に戻ろうとするが。
農民に殺害される。
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仁科盛信

2018-02-11 15:34:44 | 戦国武将・戦国姫図鑑

仁科盛信
【諱】
盛信
【苗字】
仁科
【朝臣】

【生没】
1557年ー1582年
【父親】
武田晴信
【母親】
油川夫人
【兄弟】
武田義信
海野信親
安田信之
黄梅院
見性院
武田勝頼
真竜院
葛山信貞
武田信清
松姫
菊姫
【子息】
仁科信基
武田信貞
仁科晴正
仁科信久
督姫
【解説】
武田信玄こと武田晴信の5男として生まれる。
安曇郡を領する仁科氏の養子となり、仁科盛信と名乗る。
同じく信濃豪族諏訪氏の養子になっていた兄勝頼と違い、葛山氏を継いだ信貞と共に通字信を名乗っている。
父信玄が存命している間は信濃と越後国境警備に務めている。
勝頼が継ぐと父存命時と同じく国境警備に務める。
織田・徳川の軍事再編成し、武田領侵攻に備えを開始し、小山田昌成.昌貞兄弟と共に防戦態勢を取る。
甲州征伐が始まると織田信長の嫡男織田信忠5万人の兵力が包囲。
降伏を勧められるが、盛信は軍使である僧侶の耳をそぎ落として追い払い籠城を決める。
猛攻が始まり、奮戦し玉砕する。

首は京の一条通の辻に武田勝頼・武田信勝・武田信豊らと共に獄門にさらされるが。
領民から慕われ、手厚く葬られ、2018年現在も献花が絶えないという。

【子孫】
子孫は旗本になったり、郷士になるなど存続している。
現在、唯一岩間家と並び信玄の男系血筋を伝えている家である。
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伊達政宗

2018-02-08 18:06:55 | 戦国武将・戦国姫図鑑
伊達政宗
【諱】
政宗
【苗字】
伊達
【朝臣】
藤原
【生没】
1567年ー1636年
【父親】
伊達輝宗
【母親】
義姫
【兄弟】
伊達政道
秀雄
千子姫

【正室】
愛姫
【子息】
伊達秀宗
=宇和島藩初代藩主
伊達忠宗
=仙台藩2代目藩主
伊達宗清
=吉岡伊達氏当主
伊達宗泰
=岩出山伊達氏初代当主
伊達宗綱
=岩ヶ崎伊達氏初代当主
伊達宗信
=岩ヶ崎伊達氏第2代当主
伊達宗高
=村田伊達氏当主
伊達竹松丸
=早世
伊達宗実
=亘理伊達氏第2代当主
伊達宗勝
=一関藩主
亘理宗根
=栗原郡高清水城主
五郎八姫
=松平忠輝室
牟宇姫
=石川宗敬室
岑姫
=涌谷伊達宗実室
千菊姫
=京極高国室
津多
=原田宗資室
【解説】
生誕から元服まで
伊達輝宗と最上義守の娘義姫との間に生まれる。
5歳の頃、天然痘を患い死にかけてしまう事が起きた。
なんとか死の底から抜けるが、その代償に右目を失い。
愛してくれた母義姫から疎遠される。
父輝宗は政宗に立派な後継ぎになってもらいたいと、片倉景綱などの様々な家臣を送り養育される。
11歳の時に元服、伊達家中興の祖伊達大膳大夫政宗と同じ伊達藤次郎政宗と名乗る。
元々は足利義昭から一文字を貰い名乗るのだが、織田信長に追放されできなかった事もある。
その後、田村清顕の一人娘愛姫を正室に向かえ。
初陣で相馬氏と戦う。
家督相続と父の死
輝宗の隠居にともない家督を相続している。
政宗は若さを理由に断っているが、伊達家一門や重臣に勧められ相続するに至った。
小浜城主・大内定綱は二本松城主・畠山義継と手を組み、政宗の正室愛姫の実家田村家の支配から脱しようとした。
政宗は軍を進め、大内領小手森城にた女子供.動物を含めた撫で斬り(虐殺)を実行。
恐れいった畠山義継は降伏するが、所領没収の件で不満を持ち輝宗を拉致している。
政宗はこの時鷹狩中であり、報を聞いて義継一行を発見。
父もろとも射殺した。
この事件に関しては政宗の陰謀説があるが定かではない。
伊達政宗の危機
法要を済ませた政宗は父の仇二本松城を攻める。
その隙をついて鬼義重の異名を持つ佐竹義重率いる南奥州諸侯連合軍と戦う事になり。
人取橋の戦いで大敗を喫し重臣鬼庭良元を戦場で失う事になる。
豊臣秀吉による惣無事令を無視し戦闘続行する。
大崎氏の内紛をつき1万人の兵を進めるが、黒川氏の造反と大崎氏の抵抗で敗退。
叔父最上義光が義光の義兄・大崎側に立ち、交戦。
母義姫が仲介に立つと言う事態になる。
伊達政宗の逆襲
相馬義胤により苗代田城を落とされる。
一門伊達成実により大内定綱兄弟を寝返らせ反撃開始。
蘆名義広を摺上原の戦いで破り結城義親・石川昭光・岩城常隆らが従属し。
蘆名義広は黒川城を放棄し、須賀川城の二階堂氏を滅ぼし奥州最大の大名になる。
豊臣秀吉への追従
天下統一を目指していた豊臣秀吉は小田原城を本拠にする北条氏政・氏直父子を攻めた。
輝宗の時代から後北条氏と同盟関係にあり参陣するかどうか迷っていた。
豊臣政権の浅野長政から小田原参陣を催促され、上杉景勝の国越後から信濃・甲斐を経由してようやく参陣した。
会津領土を没収されるが、家督相続時の領土は安堵される。
ただ、伊達綱村が作らせた伊達治家記録によると。
母義姫から毒殺されそうになり、母の代わりに弟政道を成敗したと言う。
蒲生氏郷とともに葛西大崎一揆を鎮圧するが、政宗が裏で操っており。
天下取りの野望は諦めていなかった。
釈明する羽目になり58万石ぐらいまで領土を没収される。
豊臣政権下
文禄の役に従軍、軍備は豪華絢爛な者であり。
この事により伊達軍のように派手な装いをする者を人々は伊達者と呼んだ。
浅野長政が取次として豊臣政権下において政宗と交渉するが。
政宗は長政の態度が不愉快で絶縁状を送りつけ関係を絶った。
また政宗は最後まで抵抗した大名として最後まで重用される事はなかった。
謀反の疑いをかけられた関白・豊臣秀次が切腹される。
秀次の側室になろうとしていた従兄妹の駒姫が処刑され、政宗は秀吉から伊予国へ減封されかける。
湯目景康・中島宗求の直訴の甲斐もあり放免、家臣19名にもし次叛意を持てば。
即座に政宗は隠居し、長男秀宗に家督を相続するように約束される。
徳川家康に接近
豊臣秀吉が死ぬと、家康は秀吉の遺言を破り天下取りの道を進める。
伯父義光と共に家康に接近し、娘五郎八を家康の6男松平忠輝に嫁がせる。
関ヶ原の戦いが起こると東軍側につき、上杉景勝と戦っている。
南部領内で発生した和賀忠親の一揆がおこり、政宗は白石宗直ら4000名に支援させる。
これにより政宗が希望した恩賞が却下され、近江国と常陸国の飛び地を得るのみになる。
伊達政宗人生最後の戦
伊達政宗は陸奥仙台に本拠を移し仙台城、仙台城下町の建設を始め仙台藩が設立する。
前田家・島津家に並ぶ大大名である。
徳川家から松平姓を名乗る事を許され、政宗は別名として松平陸奥守政宗とも名乗る事になる。
仙台藩とエスパーニャとの通商を企画し、支倉常長ら一行180名をヨーロッパへ送った。
江戸幕府成立後、幕臣との交際が多くなり酒宴・歌会・茶会・能見物等を懸命に開いた。
娘婿忠輝のために高田城を普請し、妻愛姫から手紙が送られている。
大坂の陣に参戦し大和口方面軍として参加した。
家臣片倉小十郎重長(重綱)が豊臣方の後藤又兵衛基次を討ちとる。
天王寺の戦いで友軍の水野勝成配下の神保相茂と同士討ちする事態になる。
功績により伊予10万石が与えられ、秀宗を置き。
真田信繁の子真田守信と長宗我部盛親の姉妹である阿古姫とその息子・五十嵐元成.柴田朝意が伊達家の配下になる。
この戦いを持って、政宗の人生における戦が終わったのである。
独眼竜の華麗な最期
伊達政宗は大坂の戦いの後、すっかり野心が薄れる。
以後は仙台領内の内政に励んでいたようである。
徳川秀忠と徳川家光の代まで仕え。
家光が参勤交代制を発布し、今後は諸大名を家臣として遇すと言う。
政宗は・・・・・

命に背く者あれば、政宗めに討伐を仰せ付けくだされ

と発言し。
周りの大名は家光に反対する事ができなくなり。
家光は政宗を信頼し尊敬した。
健康に気を使う政宗であるが1634年から食欲不振や嘔吐を繰り返すようになり。
かつての独眼竜ともいえないような無残な姿になっていたと言う。
母義姫を弔う保春院の落慶式を終えた城下を散策した政宗は死期を悟り経ヶ峰に杖を立て墓所を造るように言った。
江戸に参内し伊達家上屋敷に入った政宗に家光は態々自ら見舞いに行き。
政宗は無礼がないように行水し清め迎えたと言う。
だが、もう歩けるような体調ではなく杖を頼りに歩くようになっていた。
1636年5月24日、政宗は江戸で70歳で死去。
伊達男らしく愛姫ら家族に死に顔を見せなかったと言う。
防腐処置のため水銀、石灰、塩を詰めた上で駕籠に載せられ、生前そのままの大名行列で仙台に戻った。
殉死者は20名以上だし、将軍家光は嘆き悲しむなど大勢の人々に惜しまれながらの死であった。

曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く

【人物】
伊達政宗の趣味は料理である。
兵糧開発が目的とされ仙台味噌やずんだ餅など今では名物となる物をたくさん作っており。
料理以外にも様々な趣味があり、晩年は暇なく過ごしていたと言う。
また和歌の名手である。
伊達政宗が呼んだ和歌
馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何

【徳川家光との逸話】
3代将軍徳川家光は伊達政宗を尊敬していた。
家光が二条城に参上する際に御三家でも許されなかった紫の馬の総を与えられる程である。
政宗が死ぬ3日前に自ら見舞いに行き、亡くなったと知ると家光は父秀忠が亡くなった時よりも嘆いたと言う。

【愛姫との関係】

(愛姫)
愛姫とは当初関係が良くなく、一時は田村家から送り込んだ刺客など考えられており。
一番悪かったピークは政宗毒殺未遂事件で愛姫の侍女を殺害した頃と言われている。
その後改善され4人の子を産む程になる。
晩年政宗は愛姫に死にざまを見せるわけにはいかないと、愛姫の見舞いを断り。
その意思を感じ取った愛姫は死後、政宗の像を作るなど菩提を弔い。
運命なのか同じ愛姫は政宗と同じ命日に亡くなったと言う。

【エピソード】
明治天皇からの政宗の評価

(画像.伊達邦宗)
伊達政宗の直系子孫伊達邦宗が記した伊達家史叢談には。
明治天皇から・・・・

武将の道を修め、学問にも通じ、外国の事情にも思いを馳せて交渉を命じた。文武に秀でた武将とは、実に政宗の事である

と言う御言葉を賜ったとされる。
梵天丸茄子
山形県米沢市には梵天丸茄子がある。
窪田茄子と仙台長茄子を合わせた品種であり、病気に強く品質がよく。
漬物に漬けると色鮮やかな青になる。
米沢の夏の風物詩である。

【ヨーロッパ】
伊達政宗の家臣支倉常長はエスパーニャとの軍事同盟交渉する際。
時の国王・フェリペ3世に対して

政宗は勢力あり。また勇武にして、諸人が皆、皇帝となるべしと認める人なり。

と発言している。
その後ローマ教皇と謁見するが、これは日本外交史に残る特筆すべき実績と言われている。
この時、一部がスペインに残り帰化し現在でも末裔がいる。
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