マクロス外伝大本営 新統合軍極東太平洋軍管区司令部

マクロスやロボット大好きなブログです。二次創作などを主にやります。

公式ではなく非公式です。

平致頼

2018-03-23 05:20:30 | 長田義家の武士名鑑
平致頼
【諱】
致頼
【苗字】

【生没】
不明ー1011年
【父親】
平公雅
【母親】
不明
【兄弟】
平致秋
平致利
平致成
平致光
平致遠
入禅
平忠常室
有道維広室
【子息】
平致経
平公親
平公致
【解説】
桓武平氏一族平良兼の子公雅の子として生まれる。
同族の平維衡と伊勢国神郡において戦うなど対立しており。
見てもいられなくなった朝廷から出頭を命じられる。
維衡は非を認め過状を提出し軽い罰則を受けるが致頼は非を認めず。
重罰を受け追放されるが、後に放免された。
長徳の変が朝廷内で発生し、藤原伊周、隆家兄弟が藤原道長暗殺が噂が流れた。
弟致光が伊周の郎党として暗殺未遂計画に加担した検非違使に追われる事件が起きた。
一説では伊周が弟を通じて致頼と接触したのではないかと言われている。

結局、道長暗殺事件は起きず。
道隆系の一族の中関白家が排斥される事になる。
4年後に亡くなる。

子孫は長田氏.永井氏などがいる。
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源義家

2018-01-27 18:53:39 | 長田義家の武士名鑑
源義家
【諱】
義家
【苗字】

【生没】
1039年ー1106年
【通称】
八幡太郎
【父親】
源頼義
【母親】
平直方の娘
【兄弟】
源義綱
源義光
快誉
河野親清
快誉
平正済室
清原成衡室
【子息】
源義宗
源義親
源義忠
源義国
源義時
源義隆
増珍
【解説】
河内源氏棟梁源頼義の長男として生まれる。
山城国石清水八幡宮で元服し、八幡太郎義家と名乗る。
陸奥守に任ぜられ父・頼義が前九年の役で安倍氏と戦っていた。
数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験するが、その後出羽国の清原氏の味方を得て頼義は安倍氏を破った。

ある日義家は清原武衡の乳母の千任に

なんぢが父頼義、貞任、宗任をうちえずして、名簿をさヽげて故清将軍(鎮守府将軍・清原武則)をかたらひたてまつれり。ひとへにそのちからにてたまたま貞任らをうちえたり

と怒られてしまう。
この事から父頼義が清原氏に臣下の礼をして協力を要請した事が伺える。

義家は在京し美濃国において美濃源氏の祖・源国房と合戦している。
延久2年に義家は下野守となり、陸奥で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえている。

美濃で源国房と闘乱を起こした右兵衛尉・源重宗を追討する。
本官が無いため関白・藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。
護衛の帰りが夜となったので義家は束帯から非常時に戦いやすい布衣に着替え、弓箭を帯して白河天皇の乗輿の側らで警護にあたる。

陸奥守となった義家は清原氏の内紛に介入して後三年の役を引き起こす。
藤原清衡の軍と、出羽の吉彦秀武の軍で自軍を編成。
出羽金沢柵にて清原武衡・清原家衡を破り勝利する。
朝廷から私戦扱いになり恩賞が出ず、義家の領土から部下に恩賞を与えている。
そればかりか陸奥守を解任される。

義家の郎党・藤原実清と弟・源賀茂次郎義綱の郎党・藤原則清が所領争いを起こし両軍事を構える次第になるが武力衝突には発展しなかった。
しかし、義綱は兄より格上の美濃守に任じられる。
この事が後の悲劇の始まりになるとは知らなかった。
長年の努力により正四位下に昇進し、院昇殿が許される。



次男義親が反抗的な態度をとったり三男義国が弟義光と戦うなど苦労するような晩年に見舞われる事になった。

68歳亡くなる。

【子孫】
徳川家康
徳川秀忠
徳川家光
徳川家綱
徳川光貞
徳川頼宣
徳川頼房
徳川義直
徳川光圀
徳川綱吉
徳川吉宗
徳川家宣
徳川家茂
徳川慶喜
松平親氏
松平忠吉
松平定信
松平容保
松平忠直
松平直政
結城秀康
酒井忠次
酒井家次
酒井忠世
新田義貞
飯富虎昌
山県昌景
細川護熙
細川忠興
細川藤考
細川忠利
里見義弘
里見忠義
森可成
森可隆
森長可
森長利
森忠政
足利尊氏
足利義満
足利義教
足利義輝
足利義政
足利義昭
足利家時
最上義光
近衛忠輝
義姫
自称を含め多数
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武田信興

2018-01-18 11:23:34 | 長田義家の武士名鑑
武田信興
【諱】
信興
【苗字】
武田
【朝臣】

【生没】
1672年ー1738年
【通称】
虎之助
【父親】
武田信正
【母親】
内藤忠興の娘?
【正室】
大久保忠鎮の娘
【子息】
武田信安
【解説】
武田信玄の曾孫武田信正の子として生まれる。
父の死後、柳沢吉保の世話になり武田家滅亡118年後の1700年に幕府に召し出され幕臣になる。
将軍徳川綱吉に御目見し表高家衆に列し甲斐武田家を高家武田家として再興する。
生涯高家職にはつかなかったらしい。

家督は子息信安が継ぐが、次代で信玄からの血筋は途絶え。
以後は養子の家系に引き継がれる。
【系図】
天智天皇 - 志貴皇子 - 光仁天皇 - 桓武天皇 - 仁明天皇 - 文徳天皇 - 清和天皇 - 貞純親王 - 源経基 - 満仲 - 頼信 - 頼義 - 義光 - 義清 - 清光 - 武田信義 - 信光 - 信政 - 信時 - 時綱 - 信宗 - 信武 - 信成 - 信春 - 信満 - 信重 - 信守 - 信昌 - 信縄 - 信虎 - 晴信(信玄) - 信親 - 信道 - 信正 - 信興

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源義光

2017-11-27 12:05:38 | 長田義家の武士名鑑
源義光
【諱】
義光
【苗字】

【朝臣】

【生没】
1045年ー1127年
【父親】
源頼義
【母親】
平直方の娘
【通称】
新羅三郎
【兄弟】
源義家
源義綱
河野親清
快誉
平正済室
清原成衡室
【正室】
甲斐守知実の娘
【子息】
源義業
源実光
源義清
源盛義
源親義
源祐義
源覚義
【解説】
河内源氏棟梁源頼義の3男、兄に八幡太郎義家.賀茂次郎義綱がいる。
自身が近江国新羅明神(津三井寺新羅善神堂)で元服し源新羅三郎義光と名乗る。
後三年の役で出陣していた兄義家が清原武衡・家衡と苦戦していた報を受け、朝廷に応援に行く事を許可を願うが断られる。
痺れを切らした義光は当時の官位であった左兵衛尉を辞し応援に向かい、武衡・家衡を滅ぼす。
常陸介、甲斐守を官位を授かり常陸平氏一族と関係を持つが、兄の子であり新田氏・足利氏の祖となる源義国と争う。

最初は官位を辞して兄を助ける善人だが、次第に河内源氏の棟梁になる野心を抱き。
甥で棟梁の源義忠と兄義綱の子源義明に自身の郎党をそれぞれ派遣。
そして義忠に送っていた郎党で常陸平氏一族鹿島成幹に奪った義明の刀を与え義忠を暗殺する。

無論、疑いは兄義綱一族に向けられ一族は自害に追い込まれ義綱は源為義に討たれる事になる。
一方の成幹は口封じのため弟の快誉により口封じで殺害される。
だが若輩の為義が軍を率いる事はありえず、背後には義光がいた。

真相は闇の中へ消えるはずであり義光の野望は果たされるはずであった。

だが口封じされる事が分かっていた成幹が誰かにこの真相を話しており、義綱は免罪.義光が真犯人とされ。
それがバレると義光は常陸の国に逃亡。
最期は諸説あるが、義忠の子河内経国に討たれたという。

この事件の後、源義親などの乱もあり源氏は没落し。
後に順調に出世した伊勢平氏との戦いへと発展してく遠因となる。

【文化人として】
義光は大東流合気柔術の開祖で、そこから小笠原流や武田流などに分岐している。

【朝鮮半島の関係】
新羅三郎と言う通称があるが、朝鮮半島とは関係ない。
新羅は朝鮮半島にあった国家の事ではなく、近江の新羅明神で元服した事を由来としている。
新羅明神とは園城寺の守護神の事で、円珍(智証大師)が唐から帰国に際し搭乗船の船首に出現し自らを新羅国明神と称してた事が由来としている。

ただし、朝鮮半島からの渡来神ともこの地域の地主神でもある事もあり完全に関係がないとはいいがたい。

【子孫】
平賀源内
武田信義
武田信長
高杉晋作
武田信弘
武田信虎
武田信玄
武田信繁
武田義信
海野義親
武田勝頼
武田信清
武田信道
柳沢吉保
柳沢吉里
南部信直
南部利直
南部直政
九戸信仲
浅利義遠
小笠原長時
小笠原秀政
三好長慶
松前慶広
片倉景長
安国寺恵瓊
板垣信方
板垣退助
浅利勝頼
など
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平親真

2017-11-11 18:34:35 | 長田義家の武士名鑑
平親真
【諱】
親真
【苗字】

【生没】
?-1260年
【通称】
三郎
【父親】
平資盛
【母親】
阿闍梨真海の姪
【兄弟】
平国盛
平盛綱
【正室】
不明
【子息】
織田親基
【解説】
平資盛の子として生まれる。
生まれた直前に平氏が滅亡し母の逃亡先である近江国にて生まれた。
土豪津田氏と母が婚約し、津田姓を名乗り神官になる。
越前国丹生郡越前町織田になる剣神社の神職であったため、織田と名乗っている、
出家し覚盛と名乗る。
子孫は剣神社を大切にしているのだが、織田信長が天下人としてふさわしいから自称したのが多数を占める。
資盛の子孫と言うのが無理があると言うが、一族には107歳まで生きたと言われているため。
詳細はふめいである。
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武田信満

2017-11-09 20:34:20 | 長田義家の武士名鑑
武田信満
【諱】
信満
【苗字】
武田
【朝臣】

【生没】
?-1417年
【通称】
二郎
【父親】
武田信春
【母親】
不明
【兄弟】
穴山満春
穴山春信
下条信継
市部信久
吉田成春
観音寺遠大西堂
法弥陀仏
上杉禅秀室
小笠原長基失
武田信繫(安芸武田)室
【子息】
武田信重
武田信長
江草信泰
倉持信広
今井信経
山宮信安
巨勢村信賢
【解説】
甲斐源氏武田氏当主武田信春の嫡男として生まれる。
足利持氏が管理する鎌倉府の配下になっていたが、親戚である上杉氏憲(禅秀)と対立があり。
等々対立が激化し氏憲は叛乱を起こす。
親戚である氏憲に味方した信満だが、甲斐の情勢は不明である。
足利満隆と足利持仲の兵が鎌倉御所を攻め、持氏は今川範政を頼り亡命する。
優勢になるが足利将軍足利義持が持氏を指示し、範政と上杉房方に討伐の兵を派遣し氏憲を滅ぼす。
信満は追討軍に攻撃され天目山山賊村で自害する。

後に再興されるが、165年後に子孫の武田勝頼らが自害している。
息子の信重が小笠原氏の支援を受けて帰還するが、甲斐は混乱し100年間内乱の時代を迎える事となった。
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武田信義

2017-11-02 12:14:40 | 長田義家の武士名鑑
武田信義

【諱】
信義
【苗字】
武田
【朝臣】

【生没】
1126年ー1186年
【通称】
太郎
【父親】
源清光
【母親】
駿河国手輿宿の遊女
【兄弟】
逸見光長
浅利義遠
二宮清隆
河内義長
田井光義
曾禰厳尊
奈胡義行
八代信清
利見義氏
河内長義
源道光
源光賢
【子息】
一条忠頼
板垣兼信
武田有義
武田信光
【解説】
源清光の次男として逸見光長と双子として生まれる。
武田八幡宮(山梨県韮崎市:重要文化財)にて武田太郎信義と名乗り、甲斐武田家初代当主となる。
それ以前に祖父源義清が常陸国武田郷で名乗ったものだが、武家としては信義が祖となる。
以仁王の令旨に応じ信濃国伊那郡へ出兵して平家方の菅冠者を討ち、安田義定などの甲斐源氏は挙兵する。
この時の信義の年齢は53歳であった。
橘遠茂や長田入道を討ち駿河を攻め一族の安田義定と子一条忠頼と共に源氏嫡流源頼朝の元に参陣し富士川の戦いに参戦している。
源頼朝、武田信義、木曽義仲と源氏は3つの勢力に分裂する事になるのだが。
弟の加賀美遠光とその次男小笠原長清.信義の子・石和信光が源頼朝に接近し甲斐源氏は分裂する。
安田義定は木曽義仲と共に上洛しており、甲斐源氏勢力は弱体化する。
その後一条忠頼が誅殺され、自身も失脚。

甲斐源氏はただの御家人と転落する事になり、跡は頼朝に接近した信光により存続される事になる。
【子孫】
武田信長(上総武田氏=真里谷氏・丁南武田氏祖)
武田信広(松前氏の祖)
武田信虎(暴君.息子晴信に追放される)
武田晴信(最盛期を気づいた大名で武田信玄の名で知られる。)
武田勝頼(実質の甲斐武田氏最後の当主)
武田信興(信玄のひ孫.高家武田氏当主)
柳沢吉保(甲府藩主)
安国寺恵瓊(毛利家外交僧)
武田信寛(呉武田学園理事長)
高杉晋作(奇兵隊)
武田英信(現当主)
など
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伊達政宗(大膳大夫)

2017-10-15 14:06:40 | 長田義家の武士名鑑
伊達政宗
【諱】
政宗
【苗字】
伊達
【朝臣】
藤原
【生没】
1353年ー1405年
【父親】
伊達宗遠
【母親】
結城宗広の娘
【兄弟】
大條宗行(サンドウィッチマン.伊達みきおの先祖)
【正室】
善法寺通清の娘
【子息】
氏宗
【解説】
伊達宗遠の嫡男として生まれる。
父と共に出羽置賜郡に侵攻し長井氏を滅ぼし、同姓同名の当主伊達藤次郎政宗の時代までの伊達家の領土を確立する。
置賜郡とは現在の山形県米沢市の事である。
鎌倉公方の足利満兼が稲村公方足利満貞.篠川公方足利満直を奥州に派遣し、領土割譲を求められる。
政宗は大崎氏と連携し鎌倉公方軍の結城満朝と上杉氏憲らと争うが、寒河江氏と白鳥氏などに追い詰められ包囲される。
その戦いのさなかで没する。
この戦いは伊達政宗の乱と言われる。
孫の持宗の代まで続くが、勢いを取り戻し現在の伊達家に至る事になる。
【伊達藤次郎政宗の関係】
伊達輝宗は嫡男梵天丸に、中興の祖である政宗の名を取り伊達藤次郎政宗と名乗らせた。
(足利義昭の名前の一文字を与えられる可能性があったが、追放中であり求めなかった。そうであれば伊達義宗.伊達昭宗となっていたかもしれない)

ただ現代人の我々からすると伊達藤次郎政宗の方が有名で大膳大夫政宗は検索結果に出ない程のマイナー。
戦闘機で例えるならばF-4ファントムⅡが有名であるのでファントムと言われ、FH-1ファントムが消えると言うような感じである。




【伊達家系図】
伊達朝宗ー宗村ー義広ー政依ー宗綱ー基宗ー行宗ー宗遠ー政宗(大膳大夫)ー氏宗ー持宗ー成宗ー尚宗ー稙宗ー晴宗ー輝宗ー政宗(藤次郎)ー忠宗ー綱宗ー綱村ー吉村ー重村ー斉村ー斉義ー斉邦ー慶邦ー宗基ー邦宗ー興宗ー貞宗ー泰宗(現当主)
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長田忠致

2017-10-14 14:15:55 | 長田義家の武士名鑑
長田忠致
【諱】
忠致
【苗字】
長田
【朝臣】

【生没】
不明ー1190年
【父親】
長田致俊
【母親】
不明
【兄弟】
長田親致
【正室】
不明
【子息】
長田景致
長田忠久
長田義致(長田義家の先祖される人物:庶子)
鎌田政清室
【解説】
桓武平氏平良兼の一族で、道長四天王.平致頼の5世孫である。
尾張国野間を本拠地にし源氏に従っていた。
平治の乱で敗走した源義朝は家臣である鎌田政清の正室の父である忠致を頼った。
しかし、忠致と嫡男景致は恩賞目当てで風呂場に入った所を騙し打ちにした。
これを野間の変と言われる。
首は平清盛に差し出され、忠致の娘は悲しみ自殺。
兄である親致も乳母の故郷へ移り住んでしまい、後に永井直勝や三島由紀夫を輩出する事になる。
功績により隠岐守に任じられるが、不満に持ち尾張・美濃の国司と清盛に申し立てられるが怒りを買い処罰されかけた。
源頼朝が兵をあげると源氏軍に加わる。
父殺しの重罪人である忠致だが、源頼朝は寛大にも・・・・・・・・・

懸命に働いたのならば美濃尾張をやると言われる

懸命通りに働くが、平氏滅亡後。
源頼朝から褒美を与えられる事になった。
その言葉が・・・・・

約束通り身の終わりをやる

と言う言葉であった。
結局その言葉の通り追討され美濃国にて景致と共に滅亡する。
直系は甲斐国いや山梨県にて存続している。

【自身の先祖】
自身の先祖は忠致であり、庶子義致の子孫である。
現在は違う苗字と名前を名乗っているが、一応先祖なので長田と尊敬する武将源義家の名を名乗り。
長田義家と名乗っている。

しかし、信憑性は疑わしい。
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源清光

2017-10-13 18:58:01 | 長田義家の武士名鑑
源清光
【諱】
清光
【苗字】

【生没】
1110年ー1168年
【父親】
源義清
【母親】
不明
【兄弟】
源師光
加々美遠光
安田義定
【正室】
不明
【子息】
逸見光長
武田信義
二宮清隆
河内義長
田井光義
曾禰厳尊
奈胡
源義行
浅利義遠
八代信清
利見義氏
河内長義
源道光
源光賢
【解説】
源義光の次男である源義清の子として生まれる。
常陸国武田郷に本拠地にしたので武田冠者と名乗り武田の姓は子武田信義が継承している。
清光は叔伯父佐竹義業の佐竹氏と対立し父と共に常陸より追放さ甲斐国に流罪となる。
流罪されると清光はここで本拠とし逸見に進出する。
保元の乱や平次の乱には関わらず甲斐で勢力拡大を目指した。
清光の死後、逸見氏や武田氏・安田氏・浅利氏などの氏族が誕生した。
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佐々宗淳

2017-10-13 14:55:49 | 長田義家の武士名鑑
佐々宗淳
【諱】
宗淳
【苗字】
佐々
【通称】
介三郎
【生没】
1640年ー1698年
【父親】
佐々直尚
【母親】
大木兼能の娘
【兄弟】
宗信ら兄4人
姉1人
弟2人
【子息】
長女
次女
【養子】
佐々宗立
【解説】
佐々直尚の息子として生まれる。
佐々成政は親戚関係であり、同族の子孫に警察官僚佐々淳行らがいる。
年少時、父は松山藩藩主織田高長に仕えていた。
臨済宗妙心寺の僧となり祖淳と号した。
高野山や比叡山などで積極的に修行に励んでいたがある日、「父母兄弟が殺されても復讐してはならない」とする梵網経の一節を読んで仏教に疑問を感じ儒教に傾向していく事になる。
34歳で還俗し水戸藩に仕官する。
仕官理由はちよれば花の木かげも仮の宿に心とむなと吹くあらしかなと言う自身の詩でありそれが光圀に気に入られたとの事。
真面目に勤務し見識や大胆さが光圀に見いだされ側近になり明治時代に徳川圀順の時まで続けられる『大日本史』の編集と言う壮大なプロジェクトに携わった彰考館史臣の中心人物に関わる事になる。
1698年に亡くなる。

【助さんこと佐々木助三郎について】
水戸黄門で助さんこと佐々木助三郎は宗淳をモデル。
水戸光圀こと徳川光圀と比べるとかなり歳の離れたような描写が取られるが。
史実では光圀とは12歳の年の差であり、そんなに離れていない。

【親戚】
佐々成政(戦国武将)
佐々友房(衆議院議員)
佐々弘雄(参議院議員)
佐々淳行(内閣安全保障室長)
紀平悌子(参議院議員)
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梶川頼照

2017-10-13 14:27:37 | 長田義家の武士名鑑
梶川頼照
【諱】
頼照
【苗字】
梶川
【生没】
1647年ー1723年
【通称】
与惣兵衛
【父親】
土岐頼泰
【母親】
山岡景重の娘
【養父】
梶川分重
【兄弟】
土岐頼克
梶川分重室
伊東祐春正室
【妻】
塙直貞の娘
【子息】
梶川秀進
内藤忠重室
土岐頼堅
塙直章、
花房栄重
石丸定宥
武田信安正室
【解説】
旗本土岐頼泰(守護大名土岐頼芸の息子土岐頼次の3男)の次男として生まれる。
徳川家綱に謁見し御書院番として出仕し、姉が嫁いでいた梶川分重の養子となる。
民政・道路・橋・水路などを管理する本所奉行に就任。
1700年に大奥御台所付き留守居番となる。
浅野長矩が吉良義央に殿中刃傷に及んだ際に現場に居合わせ、長矩を取り押さえた。
その出来事は自身の日記である梶川日記にて詳細が記されている。
その後槍奉行になり77歳で没する。
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源経基/経基王

2017-08-20 20:18:59 | 長田義家の武士名鑑
源経基
【諱】経基
【苗字】源
【皇籍】経基王
【生没】不明ー961年
【父親】貞純親王
【母親】源柄子
【兄妹】源経生
【正室】橘繁古娘
【子息】
源満仲
源満政
源満季
源満実
源満快
源満生
源満重
源満頼
【解説】
父は清和天皇の第6皇子貞純親王であり、母親は右大臣源能有の娘柄子。
太政大臣藤原忠平の時代、武蔵介として同じ皇族出身である興世王と共に関東に入る。
豪族で半代官である武蔵武芝が検注を拒否したため、兵を繰り出し武芝の家を襲撃する。

しかし

桓武平氏一族である平将門が兵を率いて武芝を助け。
経基は比企郡にたてこもる。
一時的に和解するが、武芝の兵が経基の屋敷を取り囲み殺されるのではないかと思い京へ逃げ帰り将門・興世王・武芝が謀反をたくらんでいると朝廷に報告する。

だが

将門らに事実無根とされ讒言の罪により左衛門府に拘禁される。
後に将門が各地で暴れまわり新皇と名乗り経基の言う事になると放免され。
従五位下が与えられ征東対象軍藤原忠文の副将として関東に向かうが既に討伐され。

西国で藤原純友の乱の鎮圧に向かうが小野好古に鎮圧される。
晩年に宮籍から離れ弟と共に源の姓を与えられここに清和源氏が始まる事になる。

                              【清和源氏一族】
自称含む
摂津源氏
源頼綱系
多田氏
太田氏
馬場氏
下間氏
小国氏
山縣氏
及川氏
能勢氏
小野寺氏
など
源国房系
土岐氏
明智氏
浅野氏
石谷氏
原氏
肥田氏
土井氏
金森氏
蜂屋氏
乾氏
仙石氏
妻木氏
舟木氏
など
著名子孫
源頼政
源兼綱
源仲綱
太田道灌(上杉家臣)
明智光秀(織田家重臣)
明智秀満(光秀養子)
梶川頼照(幕臣)
土岐定政(譜代大名)
土岐頼芸(守護大名)
坂本龍馬(土佐脱藩浪士)
松平信綱(譜代大名)
下間頼廉(本願寺坊官)
河内桃子(女優)
浅野長政
浅野長矩(赤穂事件)
馬場信春(武田家臣)
など
大和源氏
陸奥石川氏
宇野氏
片岡氏
大森氏
など
著名子孫
土方雄久(外様大名)
大森彦七(武士)
江川英龍(代官)
江川英文(学者)
河内源氏
源為義系
志田氏
比志島氏
小山田氏
八田氏
宍戸氏
吉良氏(土佐)
阿野氏
吉見氏
など
源頼清系
村上氏
河内氏
出浦氏
など
源頼季系
井上氏
高梨氏
保科氏
など
源義家系
対馬氏
新田氏
山名氏
徳川氏(得川氏)
里見氏
岩松氏
田部井氏
足利氏
斯波氏
桃井氏
畠山氏
仁木氏
細川氏
戸崎氏
一色氏
石塔氏
広沢氏
石橋氏
吉良氏
今川氏
品川氏
酒井氏
稲沢氏
飯富氏
山県氏
野長瀬氏
石川氏
二条氏
毛利氏
森氏
木曽氏
新宮氏
など
源義光系
佐竹氏
山入氏
逸見氏
武田氏
板垣氏
一条氏
平賀氏
伊沢氏
石禾氏
南部氏
大倉氏
小笠原氏
伴野氏
大井氏
柳沢氏など
著名子孫
村上義清
村上国清
村上義明
二本松義継
畠山義綱
畠山義続
畠山義慶
畠山高政
小笠原長時
小笠原信定
小笠原信之
小笠原信政
平賀源内
仁科盛信
榊原康政
酒井忠次
酒井家次
酒井忠世
酒井忠尚
源義朝
源朝長
源義平
源頼朝(鎌倉幕府初代)
源範頼
源義経
源行家
源為朝
源頼家(鎌倉2代)
源実朝(鎌倉3代)
源義隆
源義清
木曽義仲(旭将軍)
木曽義高
木曽義宗
木曽義康
木曽義利
木曽義昌
木曽義長(江戸幕府奥医師)
上松義次(夢覚流剣術)
志田義広
義円
安国寺恵瓊
阿野全成
今川氏親
今川範以
今川義元
今川貞世
今川氏真(高家今川氏)
瀬名姫
関口義広
武田信義(武田家祖)
武田有義
武田信光
武田信長(上総武田氏祖)
武田信虎
武田信玄
武田信繁
武田勝頼
武田信道(信玄孫、高家武田氏祖)
武田義清(信玄末子、米沢武田氏祖)
武田元明(若狭武田)
森可成(織田家家臣)
森蘭丸(織田家家臣)
森忠政(外様大名)
柳沢吉保(譜代大名)
柳沢吉里(譜代大名.吉保の子)
足利家時
足利持氏
足利藤氏
足利義康(足利氏祖)
足利尊氏(室町幕府初代)
足利義満(室町幕府3代)
足利義教(室町幕府6代)
足利義政(室町幕府8代)
足利義輝(室町幕府13代)
足利義昭(室町幕府最後)
足利義明(小弓公方)
足利義氏(古河公方)
松平親氏(松平祖)
松平清康(家康祖父)
松平広忠(家康父)
松平忠吉(東条松平)
松平忠輝(長沢松平)
松平頼重(光圀父)
松平容保(会津藩主)
松平恆雄(会津松平分家.外交官)
松平一郎(会津松平分家.日本銀行会長)
松平保男(会津松平分家.海軍大尉)
松平定信(白河藩主)
松平春嶽(越前松平)
松平永芳(越前松平.海軍軍人.陸上自衛官.靖国神社宮司)
松平勇雄(福島県知事)
結城秀康(越前松平祖)
徳川家康(江戸幕府初代)
徳川秀忠(江戸幕府2代)
徳川家光(江戸幕府3代)
徳川綱吉(江戸幕府5代.犬将軍)
徳川家宣(江戸幕府6代)
徳川吉宗(江戸幕府8代.暴れん坊将軍)
徳川家斉(江戸幕府11代.女好き将軍)
徳川家定(江戸幕府13代.黒船来航)
徳川家茂(江戸幕府14代.幕末動乱)
徳川慶喜(江戸幕府最後)
徳川家達(徳川16代)
徳川義直(尾張徳川祖)
徳川頼宣(紀伊徳川祖)
徳川頼房(水戸徳川祖)
徳川光圀(水戸2代.水戸黄門.大日本史)
徳川圀順(水戸徳川13代.陸軍少尉.大日本史完成)
徳川武定(松戸徳川祖.海軍中将)
徳川好敏(清水徳川祖.陸軍中将.日本人初の飛行記録者
徳川宗敬(一橋徳川.陸軍少尉.参議院議員.サンフランシスコ平和条約)
徳川煕(慶喜家.海軍少佐.ソロモン諸島戦死)
徳川康久(慶喜家.靖国神社宮司.日本会議代表委員)
徳川義寛(尾張徳川分家.侍従長)
吉良義央(高家吉良.赤穂事件)
板垣信方(武田家臣)
新田義貞(鎌倉幕府滅亡)
最上義守(羽州探題)
最上義光
最上義時
義姫(輝宗正室.政宗母)
最上義康
最上家親
最上義俊
清水義親
黒川晴氏
佐竹秀義
佐竹義人
佐竹義重
佐竹義宣(久保田藩主)
佐竹敬久(秋田県知事)
細川勝元(応仁の乱)
細川藤孝(幕臣)
細川忠興(熊本藩主祖)
細川護煕(内閣総理大臣)
細川興元
細川忠隆
細川忠利
細川晴元
細川昭元
甘利虎泰(武田家臣)
甘利明(自由民主党.安倍内閣経済産業大臣.小渕内閣.労働大臣)
井上勝(日本鉄道の父.維新志士)
井上馨(外務大臣.維新志士)
南部信直
南部利直(盛岡藩主)
南部晴政
南部利祥(陸軍中尉.日露戦争戦死)
津軽為信(弘前藩主)
松前慶広(松前藩主)
三好義継
三好義興
三好長慶
三好政康
山名持豊(応仁の乱)
里見義高
里見義康
石川数正
石川康長
石川康勝
山県昌景(武田家臣)
飯富虎昌(武田家臣)
穴山信君(武田一門)
など
源満政系
木田氏
山田氏
足助氏
水野氏
など
著名子孫
水野信元
水野忠重
水野勝成(譜代大名)
水野忠邦(老中)
山田重忠(承久の乱官軍)
など
源満季系
高屋氏
平井氏
など
源満快系
伊奈氏
泉氏
依田氏
夏目氏
片桐氏
三刀屋氏
など
著名子孫
夏目吉信(徳川家臣.三方ヶ原の戦いで戦死)
夏目漱石(文豪.吉信末裔)
片桐且元(豊臣秀吉家臣)
伊奈忠次(譜代大名)
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織田秀信

2017-08-12 10:19:19 | 長田義家の武士名鑑
織田秀信
【諱】秀信
【苗字】織田
【朝臣】平
【生没】1580年ー1605年
【通称】三郎
【父親】信忠
【母親】徳寿院
【兄弟】織田秀則
【正室】和田孫太夫の娘
【子息】
織田秀朝
織田恒直
織田某
娘(六角義郷室)
【解説】
織田信忠の嫡男で、織田本家嫡流。
2歳の時に父を本能寺の変に関連する二条城で失う。
織田家相続争いで秀吉に担ぎ込まれるが、後に秀吉に乗っ取られてしまう。
小田原征伐で堀秀政の部隊に属し、鉄砲隊を供出して戦う。
岐阜13万石の領主になると、旧斎藤家家臣や土岐一族.斎藤一族がつけられる。
朝鮮出兵では4000名の兵士を率いて朝鮮半島に上陸。
出兵時あたりから岐阜大納言と呼ばれるようになる。
関ヶ原の戦いでは西軍につき、東軍に居城岐阜城を攻撃される。
結果西軍が敗北し、改易され高野山へ追放された。
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