と言うことで、帰省している末っ子、夫と共に実家に参っておりました。
薄情な娘にも(ああ、もう思い出の中でしかあの声を聞き、あの顔を見ることは出来ないのだ。毎年頼みに来ていた年賀状印刷も二度と声がかかることもない。)と思うと時間が経つことで新たな切なさがこみ上げて来ました。
末っ子にとっての「いとこ」との久しぶりの対面、わずかばかりの血のつながりがどこかしら似通った面差しをしているという話やいまやいいおじ(い)さんとなっている弟、夫の子ども時代の話など、どこでも交わされるたわいない内輪のしかし普遍的とも言える生の営みの何気ない会話の平和さ。
いやでもお互いの老後のことにも話の矛先は向き、
「夫婦一緒にぼければ、どちらかに介護の負担がかかるということはないよ」という夫の軽口に(私は最後まで面倒みたいと思うけど、○○さんはどう思ってるんだろう)とぼんやり考えたりしている腹の内。
実家を辞して、立ち寄ったいとこン家のブルーベリー。
叔母の「一番上の孫が生まれた時に植えたヤツよ、好きなだけ取って行き」という言葉に、連綿と受け継がれる家族の絆と記憶を思い、小さなポットに粛々とその実を落とし込む。
降ったり止んだりの気まぐれな雨が、よりいっそうの湿気を呼び、中途半端な熱気を醸していたある一日の“盆”の風景なのでした。