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本多の殿様と田中藩下総領

2019年02月02日 | 日々のあれこれ
先日、「鎌ヶ谷市郷土資料館」で開催されている第二十回ミニ展示 鎌ヶ谷幕末騒動記本多の殿様と田中藩下総領の村々」を見学して来ました。
平成30年は、慶応4年(明治元年=1868年)から満150年に当たることから、12月から幕末における市域下総田中藩の村々にスポットを当てた展示を行っているそうです。
最近、「古民家」から派生して「郷土史」にも少しだけ興味が湧いてきました。

簡単に「田中藩本多氏」について紹介します。


田中藩本多氏は、江戸時代、幕府譜代の重臣で、下総国相馬郡内(現在の松戸市、柏市、我孫子市、流山市、鎌ヶ谷市、野田市、市川市)に1万石の「飛地領」(42ヶ村)を持ち、21ヶ村ずつに分けて北部を「中相馬」、南部を「南相馬」とし、それぞれ船戸村(現柏市)と藤心村(現柏市:旧沼南町)にそれぞれ「代官所(陣屋)」を設置してここを治めていました。
  ※「北相馬」は現在の茨城県守谷市、取手市、利根町など


昭和前期まで、柏市北西部は「田中村」と呼ばれ、現在でもつくばエクスプレスの「柏たなか駅」や「田中近隣センター」などに「たなか」という名称が使われていますがこれは江戸時代、市域に多くの領地を持っていた本多氏の居城が、「駿河国田中(現静岡県藤枝市)」にあったことに由来しています。

本多家は、駿河国のうちに3万石余の領地をもっていましたが、新政府が徳川家の家督相続と城地禄高を審議した結果、「徳川家達(いえさと)(田安亀之助)」が新政府より駿府城主として「駿河国」「遠江国」「三河国」70万石への転封が決定。このため、同地域に領地をもつ大名らは所替(ところがえ)を命じられました。
代地として「安房国」のうちに3万1千石が与えられました。新しい藩庁は長尾(現・南房総市)の置かれることになり、「長尾藩」が成立しました。

下総領1万石は一時、長尾藩の飛地領となりましたが、明治元年(1868)10月には上知が申し渡されています。この時、長尾藩と下総領の村々は双方とも、新政府に本田氏による支配を願い出ています。

しかし、領地存続の訴えもむなしく、慶応4年(明治元年=1868年)明治新政府より本多氏は転封を命じられ、下総領の飛び地は本多氏の支配下を離れ新政府の支配下に組み込まれました。元和(1616年)以来、250年余り続いた本多氏による、下総領の支配は終わりました。
明治2年2月、下総領は本多氏から「葛飾県」に引き渡されました。


「駿河国田中城絵図」
4つの曲輪(くるわ)と4つの堀が同じ円状に配置されており、その形が亀に似ていることから「亀城」「亀甲城」と呼ばれていたそうです。

田中城内から「史跡田中城下屋敷」に移築現存する「田中城本丸櫓」(藤枝市指定有形文化財)。本丸には天守閣はなく2層2階の物見櫓が石垣の上に建っていた。
なお、江戸時代、田中城は駿府の西の守りとしての重要性から、その城主は譜代大名が任じられ、本多氏は1730年に転封されて以来100年間、この地の城主を務めました。


移築された「藤心陣屋 門」(柏市逆井「観音寺」)

注)要約に間違いがあったらお許しください。

なお、ミニ展示は郷土資料館2階展示室(入場無料)で2月24日まで開催されています。
(新京成線「初富駅」から徒歩4分。資料館には駐車場無し)


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