■月刊『丸』(令和6年8月号)からの転載です。
最後の
日本兵となった
高砂義勇隊
アンソニー・トゥー(杜祖健)
1974年、インドネシアで最後の日本兵である台湾高砂義勇隊の中村輝夫氏が発見されたが、後の彼の人生はけっして幸福なものではなかった!
※1930年台北生まれ。台湾名は杜祖健。毒物、化学・生物兵器の世界的権威として知られ、日本のサリン事件では、警察当局にサリンの分析方法を指導する。著書に『生物兵器、テロとその対処法』『サリン事件の真実』など多数
南洋から来た台湾原住民
台湾原住民は日本時代「高砂族」と呼ばれ、中国時代は「高山族」と呼ばれていた。太平洋戦争中、高砂族は日本の義勇隊として活躍しした。
一九四五年、日本は降伏して台湾は中華民国に接収された。高砂族は日本の軍属として活躍したが、台湾を接収した中華民国は日本軍に協力した高砂に対して冷淡であった。高砂族は台湾に住み着いた一番初めの民族で、いつに台湾に住み着いたかわからないが南洋から来た原住民である。
台湾が外国人に統治されたのは一番初めがオランダ(一六二四~一六六二年)で、次がスペイン(一六二六~一六四二年)であった。オランダは台湾の南部を支配し、スペインは北部を統治していた。やがてオランダがスペインを追い払い、オランダが台湾全島を統治した。 しかし清朝に大陸を追われた鄭成功がオランダを駆逐してその子孫が台湾を二代にわたって統治した。一六八三年、清朝が台湾全体を統治して、一八九五年、日清戦争の結果日本が台湾を統治した。一九四五年、太平洋戦争で日本が敗退してから台湾は蒋介石率いる中華民国に統治された。李登輝時代になって選挙で彼が選ばれて台湾は民主的な社会となった。
日本の統治時代の初期では台湾人による日本へ反乱があったが、やがて鎮圧された。最後の抗日反乱は高砂族による霧社事件(一九三〇年)と呼ばれるものであった。それが鎮圧されて以来組織的な抗日反乱はなくなった。
▲1930年の霧社事件では日本人の運動会で134人が殺害された。写真は叛乱の首領で自殺したモナルーダオの銅像(筆者撮影)
南方各地で活躍した高砂義勇隊
太平洋戦争時代、日本は高砂義勇隊(台湾での呼称)として軍夫として雑事につかせ、ニューギニアやフィリビンや各地で活躍した。日本高砂義勇隊の報告は非常に少ないが、二〇二一年、台湾で「叢林中的山桜花:高砂義勇隊28問」という本が蔡岳熹によって出版された。
高砂義勇隊のことについて書かれた本では一番完ぺきな本であると思う。
第一回の義勇隊から第七回までの高砂族の隊員は計全部で三八四三人であった。第一回の隊員はバターン半島やコレヒドール島で活躍した。第七回までは皆海外に送られ日本軍の手伝いをした。第八回と第九回は台湾から海外に送る船舶がなくなり、台湾に留まった。
一九七四年に驚きの発見があった。戦後三〇年たってから最後の元日本兵が今のインドネシアのモロタイ島から見つかったのである。
彼は台湾の原住民であり、日本の名前は中村輝夫で元来の名前はアトウ・パラリン(Atun Palalin)。アメリカでも最後の日本兵として大きく報道された。彼は一九四三年一〇月に高義隊に志願して南洋に送られた。
日本でも大きく報道されたが日本から貰ったのは彼の郵便貯金一二〇円、日本政府から約二〇八ドルの補償金をもらっただけであった。日本の内閣の大臣達が個人として五〇〇〇ドルを寄付した。戦後二〇年後に発見された他の元日本兵は何百万円も補償金をもらったのとは雲泥の差であった。台湾でも三〇年後に発見された元日本兵が台湾の原住民であったため日本からのあまりにも少ない報酬に驚き憤慨した人も多かった。彼に同情した日本や台湾の人達が米ドル二四六七ドル寄付した。それで彼は生涯金に困ることは無かった。彼が台湾に帰ってきた時、松山空港で多くの人が迎えに来た。その中には彼の元妻がおり、彼との間に一人息子がいる事を伝えた。彼女は再婚して二女二男がいることも伝えた。
▲1942年3月の第1回高砂義勇隊の写真(蔡岳熹書「叢林中的山桜:高砂義勇隊28問」より転載)
▲戦後30年たってモロタイ島で発見された最後の日本兵中村輝夫
彼は花蓮都蘭という高砂族部落で生まれて彼が志願したのは一九四三年であった。高砂義勇隊という名前はフィリピンの進攻の時、本間司令官が命名したものである。本間中将はフィリピン進攻以前は台湾の軍司令官であった。太平洋戦争が始まると本間はフィリピン進攻の最高司令官となった。しかし本間はバターン半島やコレヒドール攻略作戦が遅れたことを理由にすぐに退役を命じられた。緒戦の日本軍は連戦連勝であり、本間のバターン半島やコレヒドールの攻略は日本から見ると遅すぎるとみなされていた。
本間が台湾の司令官の時、私は学生であった。何かの行事で我々学生が台湾軍司令部に行った時に彼が敬礼しているのを私はまだ覚えている。
海外で戦死したした高砂義勇隊の戦死率は約五九%でこれは非常に高い数値である。台湾人の戦死率は一五%で日本内地の戦死率は全体で二七%であるから日本内地の兵隊は多く戦死したとみなされているがそれでも生存率は七三%である。これは高砂族が日本のために大変な犠牲を払っていることを意味している。私個人の感想であるが高砂族は日本からの報酬は大変少なく大部分は何ももらわないで日本のために戦死したのであると思う。
中村輝夫は台湾に戻った後では心情が悶々としてすぐれなかった。 主な原因は彼には中国語ができなかったからである。戦後、台湾は国民党に統治されていたので公用語は中国語でいわゆる北京語であるが、彼にとってはちんぷんかんぷんの言語であった。彼は北京語を習ったことがないので周りの人と会話ができない。終戦後三〇年たってから見つかり帰ってきたが彼にとっては新しい社会で、変わった環境になじめなかった。
この長い間に自分の父母や友人等が亡くなっていたので周りの人とうまく行かなかった。周りは知らない人ばかりであった。彼は社会の中で一人ぼっちでうまく協調できなかった。彼自身の体調もすぐれず無口になることが多かった。やがて彼は癌を患い帰台してわずか四年で肺癌で死亡した。
最近インターネットで見た記事で、台湾原住民で満州で日本兵として従軍し、戦後、シベリア抑留された人の話があった。彼はかつて自分の意志で日本になって戦い、かつ昔は日本の国民だったのだから今さらなんかもらわなくても満足していると述べていた。
父と高砂族
昔台湾人の祖先が中国大陸から台湾に来た時は、高砂族は平地に住んでいた。しかし台湾人の祖先は平地に住んでいた高砂族を殺した。 ちょうどアメリカ大陸に来た白人がアメリカインディアンを殺して大陸を征服したことと全く同じであった。
父は我々漢民族は台湾原住民に悪いことをしたと言って、父が高雄医学院長の時、原住民特別班をこしらえて医学教育を施した。今では台湾には無医村がないと言って父は誇りにしていた。私は早くからアメリカに渡ったので高砂族原住民族と接触はないが、父と一緒に山に行くと原住民が父を大変尊敬しているのを見て私も大変誇らしかった。