【連載】呑んで喰って、また呑んで㉞
国境の街で拉致されそうに
●タイ・メーソッド
前号でも登場した作家の谷恒生さんは吞兵衛だった。主にウイスキーを好んだ。バンコクで知り合ったのだが、その夜から屋台で鴨のローストなんかを肴にタイ産のメーコン・ウイスキーをあおったものである。
谷さんは弟さんと一緒だった。見ていてほほえましいぐらいに兄弟仲が良い。あるとき、ビルマ(今のミャンマー)国境の町、メーソッドに連れていくことに。大阪から来た旅行者Bも同行した。Bは私が滞在する楽宮大旅社から数百メートルのところの安宿に泊まっていた。暇そうにしていたので、誘ったというわけだ。
さて、メーソッドは翡翠を中心とした宝石を取引する街で知られていたが、麻薬の売人やビルマ少数民族の反政府ゲリラも出入りしていたので、冒険小説のネタには困らない。さらに面白いことに、その街には戦後も住み続ける元日本兵がいた。宝石商で、羽振りがいいことで知られている。その元日本兵に会いに行くのが、メーソッド訪問の第一の目的だった。
メーソッドに着いた夜、まずは腹ごしらえだ。客の多い大衆食堂に入ってシンハー・ビールで乾杯する。プハー。美味い。隣のテーブルには、あまり人相の良くない男たちが座っていた。ビルマ国境なので、タイ人だけではなく、ビルマ人もいれば、カレン族などの少数民族もいる。共通点はというと、一様に目が鋭いことだろう。要注意だ。
しかし、ビールとメーコン・ウイスキーの炭酸割を交互に呑んでいると、警戒心も徐々に薄れていく。2軒、3軒とハシゴした。ほろ酔い気分の4人が、ヘラヘラと談笑しながらホテルに向かって歩く。私は人一倍足が早い。谷さんの弟も私に劣らず早かった。そんなわけで、いつしか私と弟が谷さんとBよりも10メートルばかり先を行っていた。ホテルまであと少しというところである。
「ぐわーっ!」
という悲鳴が後ろの方から聞こえた。振り向くと、Bが血相を変えて走って来る。
「え、えらいこっちゃ!」とBが大阪弁で叫ぶ。「谷さんが男に……」
Bが指さす方向を見ると、谷さんが男に髪の毛をつかまれているではないか。一体何が起こっているのかわからないが、とにかく助けるのが先決である。私と弟が一斉に駆ける。私は男に飛び蹴りをするため、右足を上げようとしたそのときだった。腰のベルトに差し込んでいたのか、男が拳銃を私の方に向けた。マグナムのように見えたが、おそらく38口径の拳銃だったのかも知れない。あっ、撃たれると思った私は、顔面を両手で覆う。
「リョー・リョー・リョー!」
とタイ語で言った。「待て、待て、待て」である。
すると、男は谷さんの髪を持つ手にさらに力を込めて引きずった。隣には黒塗りの乗用車が。もう一人仲間がいた。そいつが後部座席のドアを開ける。谷さんを車に押し込めて拉致しようとしているのだ。やばい! 車でさらわれたら大変なことになる。
「あ、兄貴!」
と弟が男から引き離そうと必死だ。私も拳銃のことを忘れて男にしがみつく。Bの姿がない。奴はどこに消えたのか。しばらく揉み合いがつづく。しびれを切らせた男が私を押しのけ、胸に銃口を突き付けた。そして押し殺したような声で言った。
「アイ・キル・ユー!」
片言の英語である。私たちを外国人だと知っていたのだろう。
殺されてなるものか。私は両手を合わせて言葉を振り絞った。
「コート―・カップ(御免なさい)!」
別に悪いことはしていないのだが、こんな場合は謝るしかない。
弟も私と同じように「コートー・カップ!」と手を合わせた。男に髪の毛をつかまれて、今にも顔面が地面に着きそうな谷さんも「コトカップ、コトカップ」とつぶやいた。「コートー・カップ!」の大合唱である。弟がジーンズのポケットからタイ紙幣を取り出し、男の顔にかざす。後から聞くと500バーツはあったそうだ。当時のレートで5000円ぐらいだったろうか。しかし、男はタイ語で意外なことを言った。
「マイアオ・タン(カネは要らない)!」
カネ目当てに誘拐しようとしているのではないのか。一体こいつらは何が目的なのか。
あるいは500バーツでは少なかったのか。それでも弟は諦めない。男の胸ポケットに無理やりバーツ紙幣をねじ込もうとした。
「兄貴を助けてよ!」
もう日本語である。
そんな必死な思いが通じたのか、男は言った。
「わかった。その代わりポリスには言うなよ。言ったら、お前ら全員殺す!」
「カオチャイ(わかった)!」
私はそう答えるのがやっとだった。
こうして谷さんは「解放」され、私たちは脱兎のごとくホテルに逃げ帰った。部屋は2つ取ってあったのだが、一つの部屋に集まって、全員の無事を改めて確認することに。そこにはBの姿も。こいつはどこに隠れていたんだ、まったく。
谷さんが言った。
「とにかく呑もう。ウイスキーを呑もう!」
私はフロントに電話してウイスキーを頼んだ。
しばらくしてノックが。さっきの犯人かもしれないので、「誰だ?」と聞く。「ボーイです」と返事があったので、ドアを開けた。4人のグラスにウイスキーをなみなみと注ぐ。谷さんがグラスを持ち上げた。全員同時に一気に琥珀色の液体を呑み干した。そのウイスキーはメーコンではなく、ちゃんとしたスコッチだった。美味い。そして全員の口から申し合わせたように同じセリフが飛び出した。
「あー、よかったねー」
もう一杯お代わりだ。グラスを持つ4人の手が小刻みに震えていたことを今でも思い出す。翌朝、私たちは長距離バスでバンコクに逃げ帰った。元日本兵に会うことなぞすっかり忘れて。それにしても、なぜ谷さんは男たちに襲われたのか。謎は残ったままである。