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俳人・藤原若菜の軌跡 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(84)

2025-01-18 05:30:03 | 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道

【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(84)

俳人・藤原若菜の軌跡

 

大阪からメキシコ、台湾、英国を経由して白井へ

 

 

 妻の若菜が令和4(2022)年9月28日にこの世を去った。70歳だった。

 彼女は私が台湾に駐在していた平成2(1990)年頃から縁あって俳句を始め同18(2006)年に1946年創立の俳句結社「春燈」に参加した。参加後6年にして「春燈」の最高結社賞である「春燈賞」を受賞する。受賞対象となったのが、次の25句(自選)だ。

  あらたまの吉き日好きこと佳きひとと
  褒められていよよ目を伏すかじけ猫
  ふたつみつ紅梅ひらく日和かな
  走り根を踏む杣道や実朝忌
  春めくと古都に小さき蜂蜜屋
  のどけしや片方曲がる鬼の角
  春惜しむひと日近江の人となり
  母と見る昭和の映画うららけし
  菜飯田楽帰国の夫に調ふる
  春の夜やひとり広ぐる世界地図
  石楠花のほほけそめたる人出かな
  肌裂きつ古木となんぬ椨若葉
  いをの恋蓮の浮葉を乱しけり
  切通抜けて此岸の薄暑かな
  炎天や我が身を脱けてゆく何か
  蛇の尾の残れる葉群かな
  鐘涼し階のぼるわらぢ虫
  浜木綿や指の間に残る砂
  家持たずしがらみ持たずなめくじり
  明易や古事記の神の人臭き
  秋の日や娘と並ぶ婚約者
  穭田に山の陰りの被さり来
  訥々と花の名言へり花野守
  ふたり目も嫁いでゆきぬ鰯雲
  線虫や齢重ぬる御神木

 受賞直後、春燈の先輩である林紀夫氏が『燈』(2012年6月号)に「大きく羽撃け」と題する藤原若菜論を載せられた。

《若菜との出会いは、平成二十二年二月と記憶している。春誌の編集作業をしていた折、「編集のお手伝いをすることになりました、藤原若菜です」と、入室して来たのが若菜である。背の高く、超ロングヘアーの名前も源氏物語を思い出させる女性に驚かされた。今回、「藤原若菜論」を書くに当たり、俳句との出会いを語ってもらった。
 まず、生年は昭和二十七年。大阪府立春日丘高校に在学中に国語の教師から、文学への糸口を与えられた。高校時代は、エッセイや詩を書いていた。大学の卒論は上田秋成の「雨月物語」「春雨物語」。大学卒業後就職したが、一年程で寿退社。この頃短歌に興味をもつ。平成三年から七年まで、ご夫君の転勤に伴い、台湾に在住した。平成五年にご夫君の母上の依頼で、台湾滞在中の羽田岳水氏(当時「燕巣」主宰) に台北俳句会で挨拶をすることになり、その折に台北俳句会の黄霊芝先生にもお会いした。此がそもそも若菜俳句の始まりである。たまたま、田辺聖子の『花衣ぬぐやまつわる…』 を読み草城の「ミヤコホテル」に瞠目し、俳句にのめり込む。
 帰国後は子育てに追われながらも、「台北俳句会」へは投句を続けていた。また、高校時代からエッセイは時折書いていた。平成十七年十月東武デパートのカルチャー教室(俳句)で、当時春燈千葉支部長であった現主宰の安立公彦先生に巡り会い、十八年三月に「春燈」へ入会。ご夫君は現在ロンドン在勤中。以上が、藤原若菜像である。》

 若菜は平成22(2010)年に俳人協会会員、平成25(2013)年には春燈同人となる。その後、NHK学園俳句講座添削講師に任じられ、死の直前まで精力的に仕事を続けた。投句者が句に込めた思いを丁寧に掬い上げ、否定することを極力避けながらなくさりげない示唆により、投句者のやる気を引き出すような的を射た彼女の独特の添削には多くのファンがいた。

 この連載では、これまで若菜について書くことを避けてきた。様々なことを思い出してしまうのが辛く、ずっと腑抜けのような日々を過ごしてきた。しかし、没後2年4カ月が経ち、彼女の俳人としての軌跡を残したいと考えるに至った。本ブログ編集人の山本徳造氏を始め、生前若菜と親しくしていただいた春燈の先輩や仲間の方々からの鼓吹に因るところが大きい。

 若菜との馴れ初めは小学校5年生まで遡る。文学少女だった彼女からクリスマスにラブレターを貰ったのがきっかけだ。彼女は、169cmの長身だったが、小学生の頃から背が高かった。当時彼女の肩ぐらいの背丈だった私に何故ラブレターをくれたのか不思議に思えた。その日から、悲しい別れの日まで59年の月日を共に過ごしたことになる。彼女とは同じ中学、高校に進んだ。彼女は大学で国文学を学び、私はスペイン語を学んだ。

 といっても、私たちがずっと一緒だったかと言えばそうでもなくて、彼女も私も別の異性と付き合っていた時期もあった。しかし、近所に住んでいた私たちは、常に誰と付き合っているかについて報告し合うヘンな間柄だった。そして、気がつけば結婚することになっていた。


▲小学校5年生。若菜の家の草むしりの手伝いをした。左端が若菜、筆者は右端


▲新婚時代

 

▲メキシコ、イスラ・ムへーレスにて


▲ロンドン、ハムステッドの自宅前にて

▲ロンドン郊外サリーの丘の日暮れ前

▲マッキンリー山(デナリ山)を背景に

 

 若菜は、花鳥風月を愛でる俳人だったが、その反面、政治、歴史、国際情勢などについても強い関心を持っていた。ふたりとも大阪出身なので、普段は掛け合い漫才のような会話が多かった。
 その一方、茶の間には相応しくない、前述のような深刻で固い話題について熱く意見をぶつけ合うことも少なからずあった。意見の相違で喧嘩することも珍しくはなかったのである。

 2年前の8月16日、毎月開催される紅俳句会に出席した彼女は、こんな句を詠んだ。

  硯洗う星の光を流すがに
  終戦日ウクライナへと続く空
  水引の花渓の風呼ぶやうに
  通院は夫の運転涼新た
  烏瓜闇の湿りに花ひろぐ

 翌9月20日の紅俳句会に彼女は欠席する。しかし、投句だけは忘れなかった。

  秋茄子色よく漬けて母思ふ
  仲秋や治療一段落の宵
  終活も灯火親しむひとつなる
  今生のよるべ求めて鳥渡る
  ここへきて夫に頼るや花野径
  天高し優しき龍の迎へ待つ

 若菜が旅立ったのは、それから8日後のことだった。そんな伴侶を亡くしての一人暮らし。時によっては数日間、言葉を発することがない生活は時に耐えがたい。しかし、心機一転するときでもある。

 彼女がしたためた俳句や評論、春燈の先輩方が若菜に寄せてくださった「藤原若菜論」、彼女への追悼文や追悼句を読み直しながら、彼女の足跡を辿って、自分なりに心を整理し、再出発したい。

           

  

【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
 昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。


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