【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」⑯
雑煮といえば、どこの家庭も正月に食べる。私が子供の頃は、年末にはほとんどの家庭で餅つきをしていて、疎開先から戻り生活が少し落ち着くと、それは我が家でも恒例行事となっていた。
石臼や杵を洗ったり、もち米を蒸したり、つきあがった餅を成形するための台や粉、もろもろの用意を大人たちがする。いざ餅つきが始まると出来上がるのを、わくわくしながら待つ。餅自体はそんなに好きではない私だが、家族そろっての行事が嬉しかったのだ。
まず仏様用・鏡餅用として、丸餅をいくつか、あとは伸し餅が何枚か作られ、それらは座敷に並べられる。残りの突きたての餅を大根おろしやきな粉にまぶして食べる。当時の私はぜんざいや大福などの餡子ものが嫌いだった。たい焼きも中身を押し出して、誰かに食べてもらい、こんがり焼けた皮の部分を好んでいた。
正月の雑煮は、かつお節の出しで醤油味のすまし汁である。小ぶりの角餅と小松菜を入れて煮たもので、食べるときに花かつおをかけた。
その頃はまだ、竈(かまど)で煮炊きをしていて、「竈(おくど)さん」と言っていたが、雑煮を煮るときは、大豆を取った後の干したもの、稲で言うと、もみ殻だが、それを燃料として使っていた。それには「豆・実(まめ)に暮らせるように」という願いが込められていた。その風習のようなものは、祖母が頑なに守っていて、兄のところに嫁入ってきた義姉もそれに従っていた。
年月を経て住まいが変わってからは、竈はガスコンロにとって代わってしまったが、赤い炎やぱちぱちと音を立てていた正月風景は、今も懐かしい。
雑煮は、家庭によって、ずいぶん違いがあることを知った。それは、慣れない着物を着て、結婚前の正月に、夫の実家に初めて行った時の話である。
玄関からすぐの部屋に上がるように勧められて座ると、義父、義母、義兄、義姉らが、並んで私を迎え入れてくれた。私は「初めまして」から始まって自分の名前を言い、「よろしくお願いします」と、頭を下げた。ずらりと並んだ人たちに、やっと言うことが出来たのだが、それからが大変であった。
まず義父が、この家の主であること、本日のお日柄が良いこと、遠路をよく来た、それからそれから、お辞儀をしたまま、次々と話される。はっきり言ってよく聞き取れない。察するに、この度、このような縁があったことは目出度いことで、喜ばしいと……。次いで義母も同じように話される。義兄、義姉と、話される内容は、ほぼ同じようだ。私は頭をぺこりぺこりしながら途方に暮れていた。
こうした長々とした挨拶の仕方は、この家では当たり前のことらしく、夫の弟たちも久しぶりに実家に帰ると、それなりの長い挨拶をお互いにやりとりしていた。夫の実家への私の初訪問話には後日談がある。
「挨拶もろくに出来なかったそうだな!」と、父親代わりの兄からひどく叱られた。どうしてそのことが知れたのか、分からないのだが……。「初めましてと、名前と、よろしくお願いします、しか言えなかった」ことと「家族の皆さんから長い挨拶を受けた」ことを兄に言うと、「う~ん。ま、それで良いな」と、厳格な兄があっさりと引き下がってくれた。
その後、仲人になのか、何か談判してくれたのか、私は簡単な挨拶しかできない嫁として、夫の実家の誰からも咎められることはなかった。
正月の初訪問での出来事に話を戻そう。
儀式のような挨拶が終わると、立派な仏壇のある奥座敷に通され、お昼の食卓となった。何かおせち料理もあったのかもしれないが、大きな四角い餅がお椀に2個、で~ん、とあるのが私の目に飛び込んできた。並みの雑煮ではないことに、びっくりして目を剝いている私に、義母はにこにこしながら、
「いい体、してなさるで……」
これくらいは食べられるでしょう、と言わんばかりだ。
この家では、正月と言えば餅、何はともあれ餅、餅が何よりのご馳走だったらしい。正月前に餅つきをするが、夫は子供ながら一度に10個くらいを食べていたらしく、家族8人で70個ほどを煮ていたという。切り餅一個の大きさが、我が家の2倍の大きさはあった。小正月には、また餅つきをしていたという。
そんな家族なのに、皆やせ型の体形で、私の太った体は「いい体」として見られ、きっとたくさん食べるだろうとの、好意的なもてなしを受けたことになる。
我が家での食習慣とのあまりの違いに、仰天した。本当を言えば泣きたいくらいなのだ。家族の人が奥に下がり、2人になったところで、「食べられない」と、夫に半泣きの小声で訴えた。「俺が食べるから……」
結婚してからは、正月前になると夫の実家から一斗缶に餅を詰めて送られてきた。2人では食べきれるものではない。水につけて保存するなどしてカビが生えるのを、必死に防いでいたが、2、3年してから、ご好意を止めていただくことを、やっと告げることが出来た。
ところで、食べ物でも風習でも「おらが家」とか「おらが町」ではと、「生まれ育ったところのものが、一番!」と、思うのが人情のようだ。雑煮なども、その傾向は顕著な気がする。
数少ないが、私が知り合いから教わった雑煮の例を綴ってみよう。
徳島出身の人が、丸餅が当たり前であると主張されて、驚いたのが初である。転勤先の北海道札幌で迎えた正月のこと、会社の賄のおばちゃんが作ってくれた雑煮は、鶏肉、大根、人参、里芋、こんにゃく、が入っていて、我が家の質素な雑煮との違いに感嘆したものだ。しかし、これが北海道の人の雑煮なのかどうかは分からない。札幌は本州から転勤などで来ている人が多く、おばちゃんがどこの出身なのかは聞きそびれた。
京都出身の人が我が家に来た時に、自慢の雑煮を作るからと言われたのは、白味噌仕立てで、とても甘いものだった。新潟生まれの人からご馳走になったのは、大根、人参、牛蒡、長ネギ、こんにゃく、と、具沢山で、イクラが上に乗った、切り餅で醤油仕立てという、超豪華な雑煮であった。
日本中のあちこちで、我が家の雑煮こそが一番と、それぞれの思いがあるようなので、雑煮のことをネットでざっと見てみた。
雑煮は東日本では切り餅を入れた、すまし汁仕立て、西日本では丸餅を茹でて味噌仕立て、が一般的らしい。海沿いの県では、魚やその加工品を、海から遠い県では、野菜を多く使用している。
千葉県・茨城県北部=鶏肉、大根、人参、里芋、牛蒡、こんにゃく、青菜
東京都=シイタケ、蒲鉾、なると、と具は少なめ。茹でた小松菜を入れる
愛知県=削り節と醤油、のすまし汁。餅菜(小松菜に似ている)入り
ということで、岐阜県生まれの私は、愛知県の雑煮に酷似していることが分かった。沖縄のことは知ることができなかったので、隣に住んでいる我が家の嫁に聞いてみた。驚いたことに雑煮を正月に食べる習慣はない。だから、息子家族は焼餅を食べているという。
我が家の正月の雑煮は、私が子供頃に食べていた作り方をしている。作り方には特に問題がなかったが、夫からは不満が出るようになった。なぜなら、小松菜ではなく、「白菜が良い」のだと言い張る。白い餅に白い白菜なんて…と、私の言い分であるが、夫は子供の頃に食べていた大きな餅の下に白菜が隠れていたとでも言いたいのだろうか?
ちなみにアメリカに住んでいる娘は、小松菜が手に入らないので、ほうれん草と白菜を入れているとか。どうやら、両親のそれぞれの言い分聞いていた結果のようで、思わず笑ってしまう。
終戦後の食糧難時代のことを思う時、世界には飢えている人も多いことを思う時、飽食の時代に生きていられる贅沢さは、何と幸せなことか。「おらが家では…」と、言い張れるのは平和の証で、ことさらのように喜びと感謝の念が沸いてくる。今年も元気で悪態をついているのかも。