【連載】呑んで喰って、また呑んで(83)
朝食は熱々の豆乳と油条で
●中国・上海
上海で初めての朝を迎えた。せっかく上海に来たのに、ホテルでありきたりの朝食なんて芸がない。そうだ。戦前、大手新聞社の上海支局で働いていたKさんとの会話を思い出した。
大学卒業後に勤務していた出版社が2年で倒産したのだが、私はその新聞社の出版部門で嘱託として働くことに。ニューヨーク・タイムズ社が出している医療専門誌日本版の編集部が私の新しい職場だった。Kさんも英語の実力を買われて、翻訳を手伝うなどしていたので、私とはときどき顔を合わせていたのである。
その後、私はフリーランスのライターになった。が、しょっちゅう仕事の依頼があるわけではないので、絵に描いたような貧乏暮らしである。たまに舞い込む仕事は何でも引き受けた。
あるとき作家の深田祐介さんが新しく書く単行本(『美貌なれ昭和 諏訪根自子と神風号の男たち』として1983年に文藝春秋から出版)のデータマンとして上海で生活した人たちをインタビューすることに。
おっと、上海といえばKさんがいるではないか。というわけで、早速、Kさん宅に電話したのだが、家人が出てきて、あいにく入院中だという。上海の話を聞きたい旨を伝えて電話を切るしかなかった。
ところが翌日、なんとKさん本人から電話が。入院先の病院からである。上海と聞いただけで、居ても立っても居られなかったようだ。病室でのインタビューを快諾してくれたのは言うまでもない。
「上海時代が僕の青春そのものだった。ああ、あの時代に戻りたい。朝ご飯も最高だった。熱々の豆乳ですよ。それに揚げたての油条を浸す。最高だよ」
油条とは、中国風の揚げパンのことらしい。
「いやあ、思い出すなあ」
ベッドに横たわるKさんは目を閉じた。うっとりとした表情である。頭の中で上海の日々が踊っていたに違いない。そんなKさんのことを思い浮かべ、私は、早朝のフロントで豆乳の朝食を提供する大衆食堂を教えてもらった。
想像に反せず、その店は客でごった返していた。ほとんどの客が粥や豆乳の入った安物の丼鉢を抱え込むようにして粥や豆乳を胃の中に流し込んでいる。いやあ、みんな美味そうに食べているではないか。もちろん油条も浸して。
先客が去ったテーブルを見つけて、私とОカメラマンはさっと座った。豆乳と油条を注文する。待ち遠しい。湯気が立ち上る豆乳と油条が運ばれてきた。熱々の豆乳をふーふーと息を吹きかけて冷まし、粗末なレンゲで口に運ぶ。うーん、眠っていた胃が飛び起きた。
次は揚げたての油条を乗せて食す。文句なしに美味い。庶民のグルメだ。上海の朝食はこうでなくちゃあ。いやあ、満足した。これで立派な上海人になった気がしたものである。
さて、昼食はどうしたのか。1940年に開業したという有名な上海料理屋だった。案内してくれにのは、鑑真号で知り合った周君である。船のデッキで取材をしていると、一人の若者が近寄ってきた。
「何をしてるんですか?」
じつに人懐っこそうな表情で話しかける。背が高く、色白の好青年だ。日本に留学中の上海人で、19歳だという。鑑真号を利用して久しぶりの里帰りらしい。話をしていると、同世代の日本人と変わらない。それどころか、日本の若者よりも洗練されているではないか。
改革開放が始まったといっても、今のように高層建築が林立する上海ではなかった時代だ。日本に留学している中国人も、どこか野暮で堅苦しかったものである。しかし、周君は特殊なのか、垢抜けしていて、まさに都会っ子という感じ。彼が共産主義国の人間とは思えなかった。やはり革命前から大都会だった上海で生まれ育ったせいなのか。
私がテレサ・テンこと鄧麗君と食事をしたことがあると言うと、
「えーっ、ホントですか! 僕も彼女の大ファンなんです。羨ましいなあ」
「へえ、そんなに好きなの?」
「はい、あの声がセクシーで、あー、もうたまりません」
まるで中年のエロ親父みたいなことを言う。面白い。その周君が時間を工面して私たちにつき合ってくれたのである。ガールフレンドを連れて。
清炒蝦仁(海老とグリーンピース炒め)、青魚蒸し、三片湯(魚、鶏、牛肉が入ったスープ)、鶏の内臓炒め、炒香茹(椎茸炒め)。ビールも呑んだ。どれもこれも美味だった。翌日、上海ガールへの突撃取材に向かう。そこで思わぬトラブルが待ち受けているとは知らずに。(つづく)