【連載】呑んで喰って、また呑んで(82)
ようこそ「冒険者の楽園」に
●中国・上海
『上海バンスキング』というミュージカルが自由劇場で初上演されたのは40年ほど前のことだった。昭和初期の上海が舞台だ。「バンス」 とはジャズメンたちの隠語で、「前借り」のことである。このミュージカルの主役はクラリネット奏者。モデルとなったのが、戦前の上海で「バンスキング」、つまり「前借り王」と呼ばれた実在のトランペット奏者、南里文雄らしい。後に映画化もされている。
そんな借金で首が回らない東京のバンドマンたちを誘惑し、日本の落ちこぼれや犯罪者、ロシア革命で財産を失った白系ロシア人たちをやさしく迎え入れた魔都。プレイボーイで知られる歌手のディック・ミネを魅了したのも上海だった。
私が上海を訪れる数年前、ディック・ミネと都内ホテルのバーでインタビューしたことがある。戦前、上海のキャバレーでも歌っていたので、その当時の思い出を聞きたかったのだ。すると、出るわ出るわ、モテまくった話が。
ある日、キャバレーでのショーが終わったディック・ミネがテーブル席で遅い夕食をとっていたところ、そのキャバレーのダンサーがやって来た。店一番の売れっ子ダンサーである。白系ロシア人の彼女は、妖艶な笑みを浮かべた。じつにセクシーである。さすがのプレイボーイもぞくぞくした。
そのダンサーがディック・ミネに顔を近づけ、耳元でささやく。
「私、この部屋に泊まってるの。あなたと同じホテルよ」
彼女が去った後、テーブルの上にホテルの鍵が置かれていた。
こんな話が次から次へ。ふつう他人のモテた話なんか面白くも可笑しくもないが、ディック・ミネが披露すると、不思議なことに何の嫌味も感じない。きわどい猥談も、彼の口から出ると、別にいやらしい感じがしないのである。
私とは初対面、しかも10分も経っていないのに、まるで十数年来の友人のように気楽に話すので、相手の警戒心も一瞬のうちに溶いてしまう。女性にモテない訳がない。
余談はさておく。鑑真号が上海の埠頭に接岸するのももどかしく、急いで下船する。私とОカメラマンは上海賓館で旅装を解いた。ビバリーはというと、安いドミトリーに泊まることに。
その夜、外灘(バンド)に向かいに鎮座する老舗ホテル、和平飯店に向かう。カナダ女性のビバリーとはロビーで合流した。和平飯店のレストラン&バーで夕食だ。ジャズバンドが生演奏するので、外国人観光客で満席である。
メニューを見た。どれもバカ高い。私はジン・トニックを注文する。Оカメラマンとビバリーが何を注文したかは覚えていないが、あまり高級なカクテルを注文しなかったことだけは確かである。
料理は確かポークソテーだったか、それともパスタだったか。いずれにしても、記憶に残ってないのは、あまり美味しくなかったからだろう。国共内戦で共産党に敗れた国民党の蒋介石と一緒に一流の料理人たちも台湾に命からがら逃げ伸びたので、大陸には名シェフが残らなかったのかも。
さて、老ミュージシャンたちの生演奏はどうか。中国共産党が大陸を支配下に置く前の上海でジャズを演奏していた小粋なバンドマンたちだが、共産党政権下では生気を失ったかのようである。
「思い出のサンフランシスコ」「ダイナ」「ベサメムーチョ」「枯葉」と年配の西洋人たちが喜びそうな曲を力なく演奏する。数組のカップルが演奏に合わせてダンスをしているが、今ひとつ乗っていない。さ、もう充分。早めに退散だ。
タクシーを止めると、
「ドミトリーが近いから、私、歩いて帰るわ」
とビバリー。
「あっ、そう。明日は北京でしょ。じゃあ」
愛想なく別れの挨拶を交わす。私とОカメラマンがタクシーに乗り込む。外を見ると、ビバリーが悲しそうな表情で立ちすくんでいるではないか。
私はわかっていた。鑑真号の中でОカメラマンがデッキやレストランでビバリーの写真を撮りまくっていたことも、先程までジャスを聴かずにふたりが顔を寄せ合ってしみじみと語り合っていたことも。
そうだ、Оカメラマンの風貌を記しておこう。日本人離れした顔である。ダイアナ妃も大ファンだった英国のロックバンド、クイーンのフレディ・マーキュリーのような顔立ちと思ってもらいたい。痩せ型の筋肉質、そして寡黙。私はОカメラマンを肘でつついた。
「彼女、待ってますよ。降りてキスでもしてあげたら」
「うん」
Оカメラマンがタクシーから転がるように降り、彼女のもとに歩み寄る。ビバリーの顔が輝いたように見えた。数秒後、二人は抱き合っていた。もちろん、燃えるようなキスも。
タクシーに戻ったОカメラマンは完全に放心状態だった。彼女とОカメラマンは、もう会うこともないだろう。しかし、運命はそうさせてくれなかった。まるで小説のような後日談があるが、それは後に回そう。
せっかく、かつて「魔都」とか「冒険者の楽園」と呼ばれたクイーン上海にやって来たのだ。次回は上海グルメと上海ガールに迫りたい。(つづく)