白井健康元気村

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有名人らの夏バテ防止法 40年前の健康雑誌でスタミナ特集

2023-08-21 05:20:04 | 特別記事

有名人らの夏バテ防止法

40年前の健康雑誌でスタミナ特集

 

 

 それにしても暑い! 暑すぎる! 8月はもうわずかですが、残暑がこれからも続くと思うと、気が重い。異常なほどの「猛暑」「極暑」で夏バテになり、フーフーと肩で息をする人も少なくないでしょう。こんなとき、どうすればよいのか。まずは日々の食生活から自己防衛するしかありません。   朝日新聞社は昭和58(1983)年に健康雑誌『フットワーク』を創刊しました。創刊号から関わっていたのが、本ブログ編集人です。その創刊号(1983年8月号)の特集が「夏バテ防止! スタミナをつける」でした。登場したのが、飛ぶ鳥を落とす勢いのビートたけし、女子プロレスラーのミミ荻原、台湾人女子プロゴルファーの涂阿玉(ト・アギョク)ら。私が担当したのは、当時もっとも注目されていたプロボクサーの赤井英和さんと元ニュースキャスターで社民連代表(当時)の田英夫さんです。歌手のディック・ミネさんにも取材しました。当ブログ編集部は5年前、この雑誌をスキャンして本ブログに転載しましたが、スキャン画像が鮮明ではなかったので、記事がほとんど読めません。その後、アプリが発達したので、今回、私が担当した記事を中心に再構成してみました。(本ブログ編集人・山本徳造)

 

 

〝浪花のロッキー"赤井英和の勝利宣言
「世界タイトルは胃袋でとったる!」

文・山本徳造
撮影・熊谷武ニ

 そんなに食べて大丈夫かとハラハラしてきた。"浪花のロッキー" 赤井英和(23)の目の前には、空になった焼き肉の皿が積み重ねられていく。好物のロース肉とホルモンのミノをむしゃぶり食う。彼はプロレスラーではない。J・ウェルター級のプロボクサーである。
 この日、ジムでの練習を終えてから、 赤井は行きつけの焼き肉屋「鶴一ホルモン店」に立ち寄った。彼の自宅は、大阪西成区。南海天王寺線、今池町駅の近くにある。「鶴一」は自宅から歩いて2、3分。
 あっという間に6皿の焼き肉をたいらげた。大盛りの卵スープ、どんぶりめし3杯、キムチとともに赤井の胃袋に押し込まれたという形容がぴったりだった。
「心配せんでもええ。あのこ(赤井)は、いつもあれくらい平気で食べとるから」
 と、「鶴一」のおカミさん。
 そういわれても、WBC世界ジュニア・ウエルター級のタイトル戦(7月7日)が目の前に迫っているのだ。こうバクバク食べてもいいものかと心配になるのは当然。なにしろ、ボクシングは体重制限があるスポーツなのである。
 J・ウエルター級は63.5キロを超えてはならない。赤井にそのことをたずねると、「体重? いま72、3とちゃうかなァ。せやけど大丈夫。いつも試合前にはなんとか減らしてるから」
 と、まるで気にしてない様子。
 赤井が所属する三和ツダボクシングジムの津田博明会長は、
「ボクサーには二つのタイプがあるんですよ。時間をかけて少しずつ体重を減らしていくタイブと、短い期間にダーッと減らすタイプが。赤井は典型的な後者です。試合の10日前には65、6キロになってますよ」
 という。
 赤井は実に陽気だ。日本のボクサーは、どちらかといえば、陰性のタイプが多いが、"浪花のロッキー"は底抜けに明るいボクサーである。カメラマンに対してもサービス精神をたっぷり発揮してくれる。
「そんなポーズをとると、女の子にモテなくなるよ」
 と注意したくなるほど、 おどけたポーズをとってくれるオモロイ好青年だ。
「陽性だからストレス知らず」(津田会長)の赤井は、ダラダラと減量するのが大嫌いらしい。好きな時に好きなものを腹一杯食べるのがモットー。彼の辞書には腹八分目、という言葉はない。
 コンビーフ以外は嫌いなものはないという赤井の胃袋は、驚くほどタフにできているのだろう。「いままで胃が痛くなったり、下痢なんかしたことない」のだ。
 津田会長も赤井に食生活のアドバイスはしない。
「あんなによく食べる選手は見たことないですね。一日に四、五食はとってるんじゃないですか」
 と、他人事のようにあきれる。
 ボクシングは、ハングリースポーツといわれるが、赤井を見ていると、ハングリーが怪物に化身したように思えてくる。
 赤井はいう。
「減量中は米のご飯食べられへんから、腹減ってしようがないねん。そのとき思うこというたら、試合が終わってから何食おうかなァということばっかりや」
 彼は"夏バテ"
を知らない。
「冬はカゼ引いたりするから嫌いや。その点、夏はエエ。 体の調子も最高や。 こんどの世界タイトルもぜったい取ったるで。オレは世界チャンピオンになるためにボクシングやってんねんから」
 自信たっぷりに語る"浪花のロッキー"の顔を焼き肉の煙がとり巻いた。
「早メシ早グソがオレのスタミナの源」という赤井。"浪花のロッキー"が"世界のロッキー"になっているのか、あるいはリーロイ・ヘイリーに叩きのめされているか、本誌が出るころには明らかになっているだろう。

 

 さて、その若者はどうしているのかというと、昭和58(1983)年にリーロイ・ヘイリーではなく、ブルース・カリーと対戦したが、7回でKО負けし、2年後の大和田正春との対戦でもKO負けを喫し引退。同64(1989)年に阪本順治監督の「どついたるねん」で俳優デビュー、第35回キネマ旬報賞・新人男優賞、第44回毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞、第14回報知映画賞・新人賞に輝きました。さらに平成6(1994)年に「119」(監督:竹中直人)で第18回日本アカデミー賞・優秀主演男優賞、平成12(2000)年には「十五才 学校IV」(監督:山田洋次)で第24回日本アカデミー賞・優秀助演男優賞を受賞するなど、俳優としての実力を発揮。テレビでも出演するドラマがことごとくヒットするなど、俳優としての地位を固めています。(山本)

 

▲俳優としても成功

 

う〜ん、これくらい辛くなくちゃあ
激辛タイ式スープ派  田英夫さん(社民連代表)
文・山本徳造
撮影・佐々木武

▲選挙でグッタリしたときなんか、効きますネ―有楽町「チェンマイ」で

 

 タイ料理は、日本人にはなじみが薄い。が、なんとなく辛そう、と想像できれば大したもの。そう、タイ料理は「これでもか、これでもか」というくらい辛いのである。
 インドのカレーは辛いというが、タイのカレーはもっと辛い。ある日本人旅行者は、一口食べた途端に失神したほどだ(実際にあったことデス)。
 とにかく、料理という料理に唐辛子をふんだんに使う。親のカタキとばかりに唐辛子を入れるのだ。で、真っ赤なやつが肉や野菜の間にゴロゴロ、スープにプカプカといった案配となる。南国タイでは、辛い味付けをしないと食欲が湧いてこないのかもしれない。
「ここ一番というときには、なんといってタイ料理が効きますね」
 最近毎年のようにタイを訪れている田さんだが、この日は、東京・有楽町のタイ料理店「チェンマイ」で、 "とびっきり"のスープを食することになった。田さんにとっては久しぶりのタイ料理だ。
「うーん」
 そのスープを一口すすった田さん。思わずうなった。もう目はうつろ。顔面は真っ赤である。
「これくらい辛くなくっちゃダメですよ。夏バテなんか、いっぺんに吹っ飛びます。選挙でグッタリしたとき、これを食べると効果てきめんですね」
 といいながら、2口目に挑戦。田さんの額からは、早く汗が噴き出している。
 スープの名はトム・ヤン・クン。タイ人が"世界三大スープ"のひとつと誇るスープである。「クン」はタイ語で海老のこと。調理法は簡単だ。小海老とマッシュルームをメーンにし、おそろしく辛いグリーンの唐辛子、ショウガといっしょに煮込む。そしてライムかレモンの汁をたっぷり注ぐ。これて出来上がり。
 この“辛くて酔っぱい”スープを飲めば、夏バテでぐったりした体もシャキッとなるから不思議。タイの気候は暑いうえに湿度も高い。トム・ヤン・クンは、タイ人が快適な生活を送るのに欠かせない料理なのだ。
 田さんとトム・ヤン・クンの出合いは前の夏。カンボジア救援センターの仕事でタイ・カンボジア国境の視察を終えた田さん行は、タイの国境の町アランヤプラテートの小さなレストランで食事をすることになった。
 案内役は、タイをベースに取材活動をしているフリー・カメラマンのM氏。田さんの表情から疲れを読み取ったのだろう。M氏はトム・ヤン・クンを注文リストの中に加えた。
 ふつうの日本人なら、あまりの辛さに悲鳴を上げるところだが、「私は最初からうまいと思った」と田さんはいう。
「もともと私は辛いのが大好きなんですよ。暑いときに辛いものを食べと、実に気持ちがいい。
あのときアランヤプラテートでトム・ヤン・クンを注文してくれたM君に感謝してます。おかげでカンボジア視察の疲れもとれました。 トム・ヤン・クンという名前も覚えやすいしね。私はねえ、トミヤマクン(富山君)という風に覚えてるんです。発音も似ているでしょ」
 富山君のファンになった田さんは、バンコクに戻ってからも、食事のときには、必ずトム・ヤン・クンを注文した。
「ホテルのレストランで出てくるのはダメ。外人向けに辛さを抑えてあるのでおいしくない。やはり本格的な"富山君"を食べようとするなら、バンコクの庶民が行くような食堂に限りますね。フーフーいいながら熱いスープをすするのはなんともいえないですなァ」
 有楽町の"富山君"が田さんの口にあったのかどうか聞き漏らしたが、辛さのほうはタイの本場なみであったことだけは確かなようだ、田さんの二枚目のハンカチも汗でビッショリになっていたのが何よりの証拠である。

 

 今でこそタイ料理は日本人の間で人気がありますが、当時はタイ料理店も東京で数件しかありませんでした。その中でもっとも有名だったのが有楽町の「チェンマイ」。元ニュースキャスターで当時は社民連の代表だった田英夫さんをその店に連れて行きました。タイの激辛スープで有名なトム・ヤン・クンが大好きだったからです。スタミナ食としても重宝しているという。しかし、2口もすすったところで、田さんの額から大粒の汗が噴き出しているではありませんか。その田さんも鬼籍に。今となっては懐かしいインタビューでした。(山本)

 

琉球王朝のスタミナ源
イラブ―(海ヘビ)を食べた
文・山本徳造
撮影・熊谷武二

 

▲時間と手間がかかるイラブ―

 

 一度は食べてみたかった。
 海ヘビをゲテモノというなかれ。沖縄ではその昔、一般大衆は手が出せなかった宮廷料理なのである。琉球王朝の貴族たちがクスイムン(精力強壮剤)として大いに珍重したそうだ。ヘビの名はエラブウミヘビ。これが訛ってイラブー料理と呼ばれるようになった。
 とにかく調理に時間と手間がかかる。沖縄でも常時メニューに加えている店は数えるほど。大阪は曽根崎にある沖縄料理店「物外館」では、常連客向けに年に一度だけイラブーを食べる会を開いている。ちょうどヘビが手に入ったというので、飛んで行った。
 調理にあたるのは伊波豊子さん。「沖縄学の父」といわれる伊波普猷を出した伊波家に伝わるイラブー料理なのである。 伊波さんは前夜は準備で2時間しか寝なかった。ひたすら恐縮するのみである。
 この日は8人前つくるので、乾燥イラブー2匹をノコギリで6センチぐらいの長さに切った。骨が堅いので、これだけで1時間かかってしまった。それを、北海道産の格別柔らかい昆布に包んで煮込む。5~6時間かけて、鍋の汁が3分の1ぐらいになるころイラブーをとり出す。
 中を開く。食べられない骨と内臓を取り除くためだ。つまり、イラブーは黒光りした皮と、皮に付いた少しばかりの肉だけになってしまう。すべては煮出されて、スープに溶かしこまれるわけだ。
 今度は、豚足、骨つきのトリ肉、結び昆布とともに仕上げの煮こみだ。 伊波家ではこれにトウガンも加える。 火は弱火で煮ることさらに3時間――。
 かつおだしのにおいが漂ってくるが、これがイラブー特有のにおいなのだ。皮は柔らかく肉はパサパサしている。スープはコクがある、どころでなくとろんとしている。
「スープはあとで効いて大変ですよ」
 何が大変なのか知らないが、 スープをゴクリと飲む。
 なんという濃厚さ。味はいける。 長時間待ったかいがあった。生きていてよかった。効くかどうかは、精神的要素が大きいのだろうが、このイラブーだけは、かけ値なしに効きそうだ。
 沖縄では気候の変わり目や疲れたときにロにするが、初老の人たちが「イラブー会」と称して若返りのために食べるのもさかんだという。

 

 イラブーは柔らかな昆布にくるんでよく煮るのだそうだ。6時間ほど煮たあと、裂いて堅い骨と内臓を取り除くという。じつに手間のかかる一品である。この日、琉球料理のスタミナ・フルコース 左上からラフデー(泡盛で煮込んだ豚の角煮)、イリチー(豚血の炒め料理)、イラプー、ウニアワピあえ、ミミガ(豚の耳皮)、ゴーヤーチャンプルー(ニガウリを使った豆腐と野菜の炒めもの)、スクガラス豆腐(アイゴの子の塩辛をのせる)も頂きました。(山本)

 

 

あのディック・ミネさんにも聞いた!

スタミナは体力と精神力の二頭立て
普通の生活をしていれば夏バテなんかにならな

文・山本徳造

 


 仕事で徹夜したり、残業が続くと、体がだるく、なんとなくパワーがなくなっていくような感じになる。こんなとき、
「あーあ、スタミナつけなきゃ」
 と、よくつぶやく。
 忙しい現代人は、無意識のうちにスタミナという言葉を頻繁につかっているのだ。しかし、スタミナの意味を理解しているのかというと、そうでもない。ただ漠然とつかっているだけである。
 スタミナとはいったい何だろう――。
「簡単なようで難しい質問ですねえ」
と苦笑するのは、 国立栄養研究所健康増進部長の小林修平氏。
「まあ、体力と精神力との相互的表現ですから、それぞれ関係し合ってるんでしょうね。ですから、そういう相互的な活動力をいうん
じゃないでしょうか」
 どうも分かったような分からないような答えである。とりあえず先に進もう。
「運動関係者なら持久力という意味にとるかもしれないし、スタミナ食の場合でいうと、活動力と解釈してもいい。でも、スタミナという言葉を日本語にどう訳すか、よりも、各人の理解にまかせか がいいんじゃないですか。一般的には敏捷性も含めた体力といういい方をしてますが、僕らはそれに精神的なものプラスしてるんです。 とにかくスタミナは意欲の問題ですから"スタミナ食"というだけて心理的に効くことがある。しかし、内容的には二つ考えられます。一つは脂。これはグラム当たりのエネルギーが大きいので、胃に負担をかけずにエネルギーを吸収できます。もう一つはビタミンとミネラルです」
 簡単に言えば、スタミナとは体力と精神力の二頭立て馬車であり、スタミナ食は、脂
ビタミン、ミネラルを多く含んでいる料理に心理的効果をプラスしたもの、ということになる。
 "スタミナ博士"として知られ、栄養生理学という世界でも珍しい研究を手がけている女子栄養大学教授の小池五郎氏は、
「精力でいいんじゃないですか。 結局はセックスの力とか"やる気十分"という意味ですよ」
 という。

■食べ方にリズムあり
一・二・三・一で

「とにかくスタミナをつけるには、ふだんからオカズ中心に食べるという習慣をつけるこが大切です。オカズにも主菜と副菜の2つがある。どっちかが欠けてもだめです。主菜とはタンパク源を含んだもの。これにも食べ方があるんです。約6グラムのタンパク源を含んだ主菜を1日に7種類、合わせて約40グラムとるという方法です。6グラムのタンパク源を含んたものというと、牛乳1本、タマゴ1個、牛肉40~50グラム、豆腐1/3丁、納豆半包。それをムシャムシャ食べればいいのかというとそうじゃない」
 小池氏によれば食べ方にも次のような原則がある。
 7種類の主菜を朝1、昼2、夜3、間食・夜食1に配分して食べる。たとえば、朝食の場合、みそ汁、漬け物、ご飯にタマゴ1個、昼食には、カレーライス(牛肉が40~50グラム含まれていると仮定)に牛乳1本、夕食には魚1匹(約120グラムのタンパク)と豆腐1/3丁――という具合。
 これなら実にわかりやすい。
「副菜は、野菜、果物、海草のことです。だから朝食のみそ汁にはわかめを入れるか、
トマトかリンゴを添えれば理想的ですね。また、昼食にカレーライスを食べるなら、必ず野菜サラダをつけたいものです。こういう規則正しい食生活を続ければ、いつもスタミナは保てるんですよ。何もスッポンとかマムシを食べる必要はありません」
 そうはいっても、こういう規則は凡人にはなかなか守れないもの。その結果、毎年のように"夏バテ"に陥る。
  ところで"夏バテ"はなぜ起こるのか。
 日本の夏は、腹が立つほどムシ暑い。まず食欲がなくなる。それで冷たい水や、ジュース、コーラなど水分ばかりとって、胃酸や消化液を薄めるので、ますます食べる気がしない。こうした悪循環が夏バテの最大の要因だ。夏バテはあまりにも日本的な現象といってもいい。

■運動不足もしすぎも
スタミナの大敵だ

 また当然のことだが、夏は汗をかく。汗をかいて爽快な気分になる人と、グッタリしてしまう人がいる。
「汗の中には鉄分やビタミンが含まれていますが、汗をかきすぎて貧血になるというわ
けでもない。だから、夏でも適当な運動をすべきです。ふだんクルマで行くところを速足で歩くとか、あまり汗をかきたくない人は水泳をする。運動不足はスタミナの大敵ですからねぇ」(小林氏)
 しかし、あまり過激な運動をするのは考えものだと小林氏は警告する。激しいトレーニングをすると、血液中のタンパク質が筋肉に移動し、赤血球をつぶすことになるというわけだ。スポーツ選手に貧血で悩んでいる人が少なくないが、こうしたことが原因といわれている。早い話があまり無理をしないことだ。
 結論――ふつうの生活を送っていれば、夏バテは防止できる。生活のリズムを乱せばストレスがたまり、食欲も落ちる。睡眠不足なんかもってのほか。「睡眠時間を十分とるというのが夏バテ防止の基本」(小林氏)ということに尽きるのではなかろうか。
 さて、夏バテの心配なんかしたことがないという、何ともうらやましい人がいる。こういう人は一般に"夏男"と呼ばれる。野球選手では、日ハムの江夏、ロッテの落合などが"夏男"で有名で、夏場の成績は抜群だ。
 歌手のディック・ミネさんも74歳だが、夏にはりきる"夏男"である。
「僕は百度ぐらいの暑さでも平気。ふつうの人なら、真夏のメキシコなんか旅行しないが、僕はそのときを狙って出かける。まあ、昔からの体質でしょうな。スタミナ食? 僕の場合、ニンニクも食べないし、とくにないですね。ただ、自宅では米を食べないかわりにサラダは欠かしたことがない。チキン・サラダなんかボール1杯は食べます」
 気になるのはセックスの方――。
「まだ現役です。"接して漏らさず"ですが、毎週ですよ」

 

 ディック・ミネさんにインタビューした前年、私は別の取材でもミネさんと会っています。戦前の上海のことを聞きたかったからです。なぜかと言うとーー

 昭和12(1937)年に東京ーパリーロンドンの世界記録をうちたてた朝日新聞社の飛行機「神風号」の飯沼正明(イケメン操縦士)と塚越賢爾(日英混血の機関士)が帰路、ヨーロッパ各地で大歓迎を受けました。ブリュッセルの飛行場では、来栖三郎大使と「美貌の天才少女」と謳われたバイオリニストの諏訪根自子が出迎えています。作家・深田裕介さんは昭和58(1983)年10月、「神風号」の二人と諏訪の三人にスポットを当てた『美貌なれ昭和』を出版しました。

▲諏訪根自子

▲左から塚越、飯沼、来栖、諏訪(ブリュッセル空港で)

▲モテモテのミネさん

  東京―ロンドンの飛行に成功した年の7月、シナ事変が勃発しました。10月には朝日新聞社が自社所有の航空機を軍に提供し、飯沼も10月に海軍の嘱託として福岡-上海間の軍用定期便のパイロットとして1年間乗務。そんなわけで、上海のダンスホールに通いつめ、勤めていた女性と結婚しているのです。私は深田さんの依頼で、『美貌なれ昭和』の下調べのため、当時の上海をよく知る人物数人に取材しました。そのうちの一人が、ディック・ミネさんです。上海で青春時代を送ったミネさんも、ダンスホールの常連でした。ミネさんからは当時のダンスホールのことだけでなく、上海で女性にモテまくった話をさんざん聞かされましたものです。楽しそうに、身を乗り出して。まるで少年のように。なるほど、女性にモテるはずです。ミネさんは4人の女性と結婚、10人の子供以外に隠し子もいたとか。そのディック・ミネさんも平成3(1991)年に83歳で亡くなりました。余談ですが、フジテレビ取締役の塚越裕爾さんは、塚越賢爾機関士の孫です。(山本)

 

 

 

 


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