【連載】呑んで喰って、また呑んで(60)
モンテンルパ刑務所で酒盛り
●フィリピン・マニラ郊外
刑務所で酒は呑めるのか。
答えを先に言うと、呑める。と言っても、日本の刑務所の話ではない。フィリピンの刑務所だ。私が入った、いや、取材したのはマニラの中心部から車で2時間ほどのモンテンルパ(正式名称はモンテンルパ・ニュー・ビリビット)刑務所である。そう、あの有名なモンテンルパ刑務所だ。
先の大戦で日本は敗れた。フィリピン全土で捕らわれた200人近い日本人(朝鮮人、台湾人を含む)がモンテンルパ刑務所に収監され、そのうち「マレーの虎」と英国軍から恐れられた山下奉文大将やフィリピン攻略戦を指揮した本間雅晴中将以下17名が「戦犯」として処刑されている。
戦後7年が経った昭和27(1952)年、渡辺はま子が、鎮魂歌ともいうべき「あゝモンテンルパの夜は更けて」を歌う。そのレコードが20万枚の大ヒットとなったので、年配の日本人なら誰でも知っているに違いない。
小高い丘に、まるでスペインのお城のような建物が立つ。それが今でも刑務所として稼働しているモンテンルパ刑務所である。近くにはフィリピンでもっとも小さなラグナ湖が。それにゴルフ場や射撃場もあるので、知らない人ならリゾート施設と勘違いしても不思議ではないだろう。
ところで、なぜ私がその刑務所を訪ねたのか。ある日本人死刑囚と会うためである。仮にМさんとしておこう。彼がどんないきさつで逮捕され、死刑囚になったのかは、話が長くなるので、ここでは触れないでおく。ただマニラ地裁で死刑判決が下されたのは1986年のことだった。
そのМさんが短パンとTシャツ、それにサンダルというラフな恰好で迎えてくれた。なにも厳重な監視つきの面会室ではない。手錠も何もなし。ごく普通に会えるのだ。彼が収容されていたのは、スペイン語で「デトロ」、英語で「マキシマム」と呼ばれる「死刑囚房」。そこには約150人が収容されていた。死刑囚ばかりではなく、終身刑の囚人もいるという。
Мさんがマニラ市内の留置所からモンテンルパ刑務所に移送された日のことを話してくれた。
「この日は房長の誕生日で、囚人たちが酒盛りをしていたんですよ」
一体、どうやって酒を刑務所に持ち込んだのか。
「パンをつくるイースト菌があるでしょ。これに水を混ぜて砂糖を入れる。で、3日間ぐらい寝かしておくと、発酵してアルコールになっちゃう」
新入りのМさんもその酒を呑ませてもらった。では、酒の肴はというと、売店があるから、そこで買う。面白いことに、それぞれの房舎には囚人が経営する売店がある。
鶏肉や豚肉は刑務所の正式な食堂から囚人が盗んでくるのだそうだ。だから、仕入れに資金はかからない。その分、安い値段で囚人仲間に売っている。じつに「良心的」ではないか。
アルコールも売店で好きなだけ買える。酒が大好きなМさんは毎晩のように酒を呑み、ムショ暮らしの憂さを晴らす。博打もできた。マリファナも自由に手に入る。
囚人同士の喧嘩も日常茶飯事である。凶器はナイフだけではない。水道のパイプで散弾銃をつくる囚人も。なんとバズーカ砲も外から持ち込む輩もいたというから驚く。
そんなМさんに朗報が。死刑判決が下されてから5年後、最高裁でМさんの上告が棄却された。ところが、である。すでにアキノ政権が死刑廃止の決定を下していたので、死刑は免れることになったのだ。自動的に終身刑に格下げされたМさんは、刑務所側の配慮で懲役20年以下の「ミディアム」房に移される。
その2年後、刑務所内の武闘集団の「コマンダー」に選ばれた。よほど人望が厚かったのか、それとも腕っぷしが強かったのか。いずれにしても、5400人のミディアム房の中で700人の子分を抱えることに。「コマンダー」になってからが大変だった。
「クリスマスや正月といったお祝いの日には、みんなに豚肉を配る。700人に食べさすには、3、4頭の豚が必要でしょ」
1頭で5000ペソ(約2万円)ほどするので、若い衆から集金をした。豚を買う金が足りないときはシャブを外から持ち込み、ムショの中で売りさばいたという。ま、何でもありの刑務所である。
その後、刑務所長に説教され、Мさんは「コマンダー」を辞めて、更生した。刑務所内の工場でまじめに働き、午後4時から11時半まで自身が経営する売店で調味料や醤油、コーヒーを売る日々。そして、私が会ったときは、個室暮らしをしていた。500ペソで個室の使用権を買ったのだそうだ。何とも自由な刑務所である。