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「企業横断」で日本を元気に! 【連載】頑張れ!ニッポン⑩

2024-11-14 05:30:17 | 【連載】頑張れ!ニッポン

【連載】頑張れ!ニッポン⑩

「企業横断」で日本を元気に!

釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)

 

▲北九州市学術研究都市(同研究都市のHPより)


ベンチャー企業を立ち上げた二人の先輩

 前回、日本で半導体ベンチャーを立ち上げることの難しさを述べた。そして、起業を困難にしている要因として次の4つを挙げた。

 ①起業精神に富む人が米国に比べ少ない。
 ②ベンチャーキャピタルの規模が小さい。
 ③日本では失敗を責め失敗を恐れる文化がある。
  ④新たに会社を興すためのコミュニティがほとんど無い。

 ところで、起業精神を持つ人が少ないと書いているうちに、私が所属した会社の先輩で早期退職して会社を立ち上げた人が2人もいたことを思い出した。その内のひとりは短期間ではあったが、私の上司だったN氏である。
 N氏は会社を早期退職して新たに会社を立ち上げた。会社を途中で辞める人は時々いるが、自分で会社をつくる人は珍しかったし、ベンチャーという言葉も当時は一般的ではなかった時代だ。
N氏が退職したのは1978年頃のことで、年齢は恐らく40代半ばではなかっただろうか。
 長い間研究所でパワー半導体や発光ダイオードなどの研究・開発をしていたが、私のいた製造部へ移り、パワー半導体の新機種の量産化に携わっていた。数年後に思うところがあってか、会社を退職したのである。
 退職後しばらくからN氏は、発光ダイオードなどをつくる半導体製造会社を立ち上げた。北海道に工場を建設して順調に会社を大きくしていく。工場建設には相当の資金が必要な事は想像に難くない。一体どうやってその困難を乗り越えたのだろうか。
 N氏は優れたアイデアと技術で我々後輩を指導してくれたが、経営手腕も相当なものだったに違いない。起業するには資金調達や顧客開拓など、技術とは異なるいろいろな能力が必要だ。自分にその能力が不足していても、それを補ってくれる人を集めることが必要だろう。それができなければ成功は覚束ない。
 もうひとりは、私と同年代のエンジニアのS氏である。40歳を目前にして三菱を辞め、R社へ移った。そして50歳になる直前、R社も退職して会社を立ち上げたのである。S氏の事は名前を知っていた程度だったが、後日会社を立ち上げて評判になったのを知った。
 そのような事をするようには見えなかったので、人は見かけによらないものだと思ったものである。彼が立ち上げた会社は、日本初のファブレス半導体企業だったので、業界ではかなり注目を浴びていた。ゲーム用ICのヒットで急成長を遂げ、ついに東証一部上場を果すまでになる。
 ここに紹介した二人はともに50歳前後で創業したが、見事に成功した。強い志を以って目的を貫いたことには感服するしかない。日本にもこのように起業家精神旺盛な人もいるのだ。

少なすぎるベンチャーへの投資額

 さて、私が定年退職した平成12(2000)年年頃、日本で何度目かのベンチャーブームが起こっていた。それに伴いベンチャーキャピタルも多く誕生する。しかしながら、米国などに比べるとその規模はずいぶん見劣りした。
 いつもながら大変古いデータで恐縮だが、一般財団法人ベンチャーエンタプライズセンター調査によると、平成23(2011)年度のベンチャーキャピタルによる投融資額は1217億円だった。ところが、同時期の米国でのベンチャー投資額は何と2兆2890億円もあったのである。つまり日本の18.5倍に達していたのだ!
 この時から13年も経った今なら、もっと差は開いているだろう。なにしろ日本経済の成長は止まったままだが、米国はもっと大きく成長しているのだから。これでは全く勝負にならないではないか!
 この現実を政治家はもっと認識して欲しい。政治家もマスコミもスキャンダルにばかり夢中にならす、もっと政策論議を深めて欲しいものだ。現状を見る限り、その気も能力も無いと思わざるを得ない。
 日本でも企業間の人の流動性がもっと高まってもいいのではないだろうか。同じ会社に40年近く居た私が言っても、全く説得力がないのだが…。
 私が就職した時代は「就職」ではなく、「就社」だと言われることもあった。どんな仕事をやるかでは無くどこの会社に入るかが大事なのだ。そして、終身雇用が前提で、一度就職した会社を定年まで辞めることは殆どない。
 その結果、毎年多くの学卒を入れる大企業は人材を死蔵する事になる。世の中の変化により、成長する分野と衰退する分野が出てくる。そしてある分野では人が不足し、他の分野では人が余る事になるのだ。
 私がいた会社でも炭坑用の電気製品を製造していた工場に、半導体の製造ラインを設置するために工場を建て直した事がある。当然、そこで働く人の仕事も変わらなければならない。最近、よく聞くリスキリングである。だが、これは「言うは易く、行うは難し」でなかなか大変なのだ。
 エンジニアもそうで、半導体エンジニアにいきなり誘導飛翔体、つまりミサイルの制御回路の設計をやれと言われても出来る訳が無い。その場合は半導体技術者を求めている別の会社に移れる仕組みがあるといいのだが…。

スポーツの世界を見習え!

 昨今、入社後に「仕事が合わない」からとすぐ辞める人が多いと聞く。が、それは流動性とは言わない。流動性とは、有能な人材が自分の力を発揮できる場を求めて転職したり、自分を評価してくれるより良い条件の下で働くという事だ。スポーツの例を見るとわかりやすい。
 野球選手は力のある人はメジャーリーグを目指す。そしてサッカー選手はヨーロッパを目指す。自分の力で、より良い報酬を求め、よりレベルの高い場において自分の力を出し切りたいと願うのは当然の事だろう。
 一部の業界や企業では、そういう動きがあるようだ。企業横断的な人の流れができるとよいだろう。そこに起業に向けたコミュニティが生まれないからだ。今でも半導体やIT企業のコミュニティづくりに取り組んでいる自治体は存在する。私が訪ねたことがあるのは、横浜ITクラスタ、北九州市学術研究都市、福岡システムLSI総合開発センター(福岡市百道浜)などである。

 

▲福岡システムLSI総合開発センター(同センターのHPより)


 この他、台湾のTSMCを誘致した熊本県、ラビダスが工場を建設中の北海道千歳市、台湾企業の誘致を目指す仙台市などもいろいろ動いているようだが。私は詳細を把握していない。何分、後期高齢者になって相当経っているので10年前のことは知っていても、最近の事には疎いのだ。どうかお許し願いたい。

 

【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】

昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。本ブログには、平成6年5月23日~8月31日まで「【連載】半導体一筋60年」(平成6年5月23日~8月31日)を15回にわたって執筆し好評を博す。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)


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