【連載】呑んで喰って、また呑んで(55)
出版社で鍛えられた酒③
●日本・東京
作家には美食家が少なくない。『火宅の人』で知られる檀一雄さんもその一人だろう。福岡生まれの檀さんは昭和7(1932)年、東京帝国大学経済学部に入学し、翌年には同人誌「新人」を創刊する。同誌に処女作『此家の性格』が林房雄さんの目に留まり、尾崎一雄を紹介されたらしい。
林房雄さんは東大在学中、マルクス主義の学生組織「新人会」のリーダーだったが、昭和11(1936)年にプロレタリア作家の廃業を決意し、「転向」宣言を行う。ちなみに、林さんには、私が出版社に入社するときの身元保証人になっていただいた。
さて、檀さんの『夕張胡亭塾景観』が昭和11(1936)年の芥川賞候補作となり、「文藝春秋」には『花筐』を発表したが、昭和12(1937)年に支那事変が勃発。召集を受けた檀さんは久留米独立山砲兵第3連隊に入隊して大陸に出征する。昭和15(1940)年に除隊するが、満洲を放浪した。昭和19(1944)年、陸軍報道班員として再び大陸へ。
戦後は太宰治と親交を深め、病死した先妻を描いた連作『リツ子・その愛』『リツ子・その死』で文壇に復帰し、昭和26(1951)、『長恨歌』と『真説石川五右衛門』の2作で直木賞を受賞した。
除隊後も帰国せずに満洲を放浪したことでもわかるが、檀さんには一種の放浪癖があった。昭和43(1968)年に季刊文芸誌「ポリタイア」の編集者兼人発行人になったものの、2年後にはポルトガルに旅立つ。首都リスボン近郊のサンタ・クルスという小さな漁村が気に入り、そのまま1年半近く滞在している。
檀さんは地元の食堂に通い、イワシの塩焼きをはじめ、ポルトガルの庶民的な海鮮料理に舌鼓をうったそうな。また、ポルトガルのワインもこよなく愛した。それも同じ名前の「ダン」である。「赤、白のダンワインを何百本抜いたことか」と随筆に記すほどだった。
良質なワインの生産地として世界的に知られるダン地方。1900年のパリ万国博覧会でワイン・コンテストが行われたが、「ダン」は金賞に輝く。檀さんがもっとも好んだのが「ダン」の赤ワイン、トゥーリガ・ナショナルである。ちなみに、この漁村で檀さんは『火宅の人』を執筆した。
檀さんは料理人でもあった。そのきっかけがなんとも悲しい。9歳のときに実母が蒸発すしたのだが、女房に逃げられた父親がまるで料理ができないときている。おまけにまだ幼い妹が3人もいた。やむなく檀少年が料理をするしかなかったというわけだ。
こうして檀さんは、邱永漢と並ぶ文壇の料理人として知られるようになった。『檀流クッキング』『美味放浪記』『わが百味真髄』などり料理本も多い。石神井の自宅には編集者がひっきりなしに訪れたが、彼らによく手料理をふるまった。
残念ながら、私は檀さんの手料理を食した幸運にあずからなかった。というのは、晩年の檀さんは健康状態が思わしくなく、原稿も夫人を頼っての口実筆記。ましてや自ら料理をするような状態ではなかった。
そんなある日、檀さんの原稿を担当をしていた先輩編集者のKさんが私にこう言った。
「これから檀さんの家に原稿をもらいに行くけど、一緒に行かない?」
「行く、行く。行きますよ!」
石神井の自宅を訪れると、檀さんが夫人を相手に何やらしゃべっていた。口実筆記の最中だったのである。
「原稿、もうちょっと待ってね。あっ、君たち、お昼、まだでしょ。今、娘が何か作ってるから」
奥の台所からトントントンと包丁で何かを刻むような音が聞こえてくる。何気なしに除くと、セーラー服姿が。それが、のちに女優となる女子高生の檀ふみさんだった。
20分もしないうちに、檀ふみさんが湯気が立ち上る大皿とともに現れた。
「ロシア風の餃子です。父に教わりました」
と、ふみさんが恥じらいの笑みを浮かべた。
その餃子を有難くいただく。父親譲りなのだろう、じつに美味い。「文壇の最後の無頼派」と言われた檀さんが亡くなったのは、その翌年の昭和50(1975)年のことである。林房雄さんも、同じ年に旅立つ。その後、檀さんの長男、檀太郎さんは料理研究家として活躍した。
ずっと檀さんが暮らしたサンタ・クルスにいつか行きたいと思っていたが、もはやかつてのような純朴で萎びた漁村ではなく、洗練されたリゾートに生まれ変わったという。ダメだ。そんなところには行きたくない。魅力がないではないか。檀さんもあの世で嘆いているかも。(つづく)