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力道山 日本人を熱狂させたプロレスラー 【新連載】池上本門寺と近代朝鮮①

2020-01-25 07:11:42 | 【連載】池上本門寺と近代朝鮮

■歴史読物■

▲川瀬巴水・作「池上本門寺」

 

【連載】池上本門寺と近代朝鮮

 東京都大田区の池上本門寺は、身延山と並ぶ、重要な日蓮信仰の本山だ。この池上本門寺こそ近代朝鮮と意外に大きな関係を持つ寺院なのである。本堂がある小高い山につながる96段の石段は美しい。「昭和の広重」と呼ばれた版画家、川瀬巴水もこの石段を描いたほどだ。この石段を寄進したのは、豊臣秀吉の朝鮮征伐に従軍し、虎退治で有名な戦国武将の加藤清正である。清正の武士道精神を慕って日本についてきた朝鮮人がいた。名を「金宦」という。清正が亡くなると、金宦はその恩義に報いようと殉死する。二人の墓は熊本市の本妙寺にあるが、池上本門寺には近代朝鮮と関係の深い7人の墓がある。一体、誰が眠っているのか。そこには意外な人物が…。

▲日本統治時代の朝鮮全図

■第1回■日本人を熱狂させたプロレスラー

力道山 (りきどうざん   1924~1963

田中秀雄 (近現代史研究家)     

 

 池上本門寺にかのプロレス王、力道山の墓があるのは広く知られたことだろう。境内を歩くと、墓のある方角を記した案内板までもある。その通路を歩いて奥まった場所に力道山の墓がある。

 墓の左手には、「力道山之碑」と彫られた巨岩がある。力道山の一周忌を期してできたもののようだ。字を書いたのは児玉誉士夫である。生前から親交があった。

 これは平成になってからできたもので、台座には制作して寄贈した人たちの名前が書いてある。当時現役、引退した有名なプロレスラーたち、そして「北野武」の名前もある。映画監督でもあるが、タレントのビートたけしである。彼も力道山の大ファンだったのだろう。

 昭和30年代に少年時代を送った人たちには力道山はまさにヒーローだった。リングでの熱闘のさなか、不利な体勢から満を持して繰り出す空手チョップの威力に少年たちは酔いしれたのだった。

 力道山は元力士で、二所ノ関部屋を引退して、アメリカでプロレス修行をして帰国し、昭和28(1953)年に日本プロレスを旗揚げする。翌年アメリカから招いたシャープ兄弟とのタッグマッチが当時放送を開始したテレビとの相乗作用で爆発的な人気となり、プロレス人気に火がついた。

 その後、ルー・テーズ、フレッド・ブラッシー、ザ・デストロイヤーなどとの名勝負が知られているが、昭和38(1963)年、赤坂のクラブでの暴力団員との喧嘩になり、ナイフで刺されて負傷する。入院1週間後の12月15日に死亡した。

 彼は表ざたにはしていなかったが、朝鮮半島、咸鏡南道の出身だった。朝鮮相撲のシルムが得意だった。これを現地で見ていたのが長崎県大村出身の小方寅一という刑事である。当時は日本が朝鮮を統治していた時代である。

 小方はこのシルムが得意な金信洛少年を日本に連れてきて、二所ノ関部屋に入門させたのである。昭和15(1940)年のことである。その際に「百田光浩」と名乗った。百田は小方の母親が再婚した先の名字で、相手は百田巴之助という。小方は少年時代に父親を亡くしていた。むろん百田家も大村にある。

 名乗ったしこ名が「力道山」で、関脇まで進んだがそれが限界だった。引退したのは昭和25(1950)年である。その際に日本に帰化したのだが、百田の戸籍を東京に移した。金信洛は名実ともに百田光浩となったのだ。

 人気が出て、日本人の英雄となった。戦勝国アメリカの馬鹿でかいレスラーを空手チョップで打ちのめすのだから、日本人の留飲を下げたことは言うまでもない。しかしますます、力道山は出自を告白できなくなった。靖国神社でも興行を行なっている。

 しかし韓国にも秘かに行った。まだ国交が正常化していない時代である。故郷は北朝鮮で行けないが、兄はそちらに住んでいる。豪華な外車を北朝鮮に秘かに送ったのも、彼の愛郷心のなせるわざだろう。

 酒が好きで向こうっ気が強く、興が乗るとガラスコップを噛み砕いて飲んだというから、自分の墓まで準備していたとは思えない。池上本門寺に墓があるのは児玉誉士夫の世話なのだろう。

▲碑には親交のあった児玉誉士夫の字が

▲右手に腕を組んだ力道山の胸像

 

    大村市の長安寺にも力道山の墓がある。大村駅前からすぐのところだが、長安寺の墓と見分けがつかない位置関係に別の共同墓地があり、そこに陸軍少佐・岡田慶治の墓もある。昭和23(1948)年にスマラン慰安所事件で処刑された人物である。

    彼は自分が無実だとする手記をジャワ島の刑務所で綴っている。その主人公の名が「小方」なのである。なんという偶然だろう。大村には小方という名字が多いのだろうか。岡田少佐は大村生まれの女性と結婚し、大村聯隊にも所属していたのである。

▲岡田慶治の獄中手記

 

 

【田中秀雄(たなか ひでお)さんの略歴】 

昭和27(1952)年、福岡県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。日本近現代史研究家。映画評論家でもある。著書に『中国共産党の罠』(徳間書店)、『日本はいかにして中国との戦争に引きずり込まれたか』『朝鮮で聖者と呼ばれた日本人』(以上、草思社)、『映画に見る東アジアの近代』『石原莞爾と小澤開作 民族協和を求めて』『石原莞爾の時代 時代精神の体現者たち』(以上、芙蓉書房出版)、『優しい日本人哀れな韓国人』(wac)ほか。訳書に『満洲国建国の正当性を弁護する』(ジョージ・ブロンソン・リー著、草思社)、『中国の戦争宣伝の内幕』(フレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズ著、芙蓉書房出版)などがある。


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